静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ シャープ液晶技術:日本発国際企業の盛衰と人材流動 ≫  誰への”忠誠心”を抱くべきか?

2016-06-16 21:14:11 | トーク・ネットTalk Net
 * 元シャープ液晶トップ、ライバル企業に転身 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ16HLT_W6A610C1000000/?n_cid=NMAIL002
・ 幹部の流出は何もシャープが初めてではない。 ご承知のように、枚挙に暇ないほど、日本の代表的企業でも重要人材が社運の傾きにより、ライヴァル企業への転職や、
  思いもかけない転出を選択することは増えている。スポーツもビジネスと捉えたら、日本の有名な監督/コーチが競合相手の外国に高給で招かれるケースも同様だ。 
  例えば、女子シンクロナイズドスイミング。  古くは、鬼の大松監督が中国女子バレイボール監督になった・・・・・。
・ さて、問いたいのは、スポーツは興行ビジネスであり、メディア商業収支/報道関連所得までカウントしたら無視できない規模と影響力をもつ。オリンピック放映権が其の頂点だ、
  といえばお判り戴けよう。然し、衰退企業からの人材流出は、一過性のエンターテイメント稼業と同列には論じられない。IOTがどう深化しようが、人類が存続するにあたり
  止められない/サボれない<モノづくり>における日本人という集団の存在感を問われているからだ。日産が傾いた時も同様だった。

* 大局観としていうなら、例えば、特許技術が或る期間を過ぎれば広く後発集団に開示され、模倣されることが人類全体の底上げにはなる。実際、人類の経済発展史は其のとおり。先行する民族/国家/技術集団が、やがては追いつかれ、追い抜かれる。でも、トータルでみると、より広範囲に人々は豊かさと便利を享受するようになった。速い話が、携帯電話だ。人工衛星とGPS技術と相俟って、全く高価なインフラ投資を嘗ては伴なった電話線敷設コストは不要となり、どんなに貧しい砂漠の民もヤギを追いながら世界中と通話/メール交信できるようになった。 これは単に利便だけでなく、災害救助という側面ひとつとっても間違いなく人類への貢献だろう。   うん、それはそれで良い。

問題は、先進技術の開発最前線に今日まで居た人の個人生活が会社の身売り/倒産で一晩のうちに崩れ、後発国/後発企業への技術移転の代償と引き換えに、自分の生まれ育った国、そこで根付いた企業、そこで過ごした誇るべき時間と慈しむべき人生、それら全てを切り離す形でしか明日からのメシを食えない情けなさ、やるせなさ、苦渋、などなど。 
  That's Life.    Face It. ・・・・・そういうのは簡単だが、集団としての損失をどうすれば挽回できるのか?

私はアメリカで、日本人に限らず、人材流出を何度か視てきた。日本でもそれに類する現象が出始めた。 その都度、私の頭をよぎった言葉は”忠誠心・Roylaty”だ。 
 そもそもRoyalty とは??   私も未だに明解な答えは、無論見いだせていない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 『死を選ぶ是非』  長寿/延命技術 と 人間社会の行く末

2016-06-16 13:48:42 | 時評
 * 坂村健の目 「長寿技術」と人間の本質 http://mainichi.jp/articles/20160616/ddm/016/070/009000c?fm=mnm
・ 昨年末に、米食品医薬品局が「メトホルミン」という薬剤の臨床試験を始めるというニュースがあった。糖尿病治療薬として以前より一般的に使われている薬だが、
  今回の試験では「寿命を延ばす」効果があるかどうかを調べるという。
・ 加齢は病気ではなく、それを治療するという考え方自体がないというのが従来だった。それを変えてまで−−そして大規模臨床試験に値するほど確からしいということで、
  メトホルミンが大きな話題になったのだ。
  ⇒ キーワードは<加齢は病気でないから治療する発想がなかった>。これの否定が即ち『長寿/延命技術』だ。  <天寿><大往生>の正反対の概念である。

◇ 「加齢」が病気なら、それに対抗して死を遠ざけると確認された技術は社会保険の対象になるべきではないか。しかし、全員が必ずかかる「病気」を保険システムは
  想定していない。 平均寿命が20年延びたら年金システムはどうなるか。  ← そう、我が日本国は既に世界の先頭を走る、此の生きた事例なのだ。
◆ 数十年で不老不死が可能になるという研究者までいる。そうなったら地球資源はどうなる。一部の優秀な人だけに適用することにするのか。社会格差が固定されないか。
  死を選ぶことの是非は? 経済から始まり政治や文化、宗教まで、人間社会は根底から変わらざるをえないだろう。
** 源氏物語にしろリア王にしろ、照らすのがロウソクでもLEDでも愛憎ドラマは現代とさして変わらない。それをして「人間の本質は変わらない」と言った文学者もいた。
   しかし、不死テクノロジー後の世界でもそう言えるのかどうか。← コンピュータ理論の第一人者から哲学的思惟が出てくるのに驚いてはいけない。
   多くの職が機械に取って代わられるなら、国民全員に最低限の生活ができる一定額を毎月支給する「ベーシックインカム(最低限所得保障)」といった経済ファンタジーも
   現実味を帯びてくる。その時代の生きがいはどうなる。人工知能の生存権は認めるべきか。研究後破棄することの倫理問題は。そして、人間の本質は肉体なのか精神なのか。

科学技術は革命的に進歩する。しかし、社会の変革には時間がかかる。拙速に行えば往々にして多くの血が流れる。考えなければならないことは多い。今からでは遅いのかもしれない。SFファンだけの議論だったテーマが現実となる前夜に我々はいる。(東大教授)>    此の坂村教授の言葉の何と重いことか。 

こういうことを手元に惹きつけて考えるには、ヴァーチャルワールドに1日の大半を過ごす己に疑問を感じる心がなければ、無理であろう。若者のみならず中高年で電子端末の世界に興じている人が増えるのを見るにつけ、私は暗澹たる気持ちに苛まれる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪ 舛添騒動で浮かぶ 地方議会と選挙制度の問題点≫

2016-06-16 08:38:20 | トーク・ネットTalk Net
 舛添氏だけが悪いのか 砂原庸介さん、江川紹子さん、青山やすしさん http://digital.asahi.com/articles/DA3S12410817.html?rm=150
・ この見出しは<舛添氏擁護か?>との誤解を与えかねないので、噛み砕いておくと、砂原氏は「地方議会と首長の二元選出制度の招きやすい対立構造がある。
  そこに中選挙区制による選挙の在り方が加わり、支持政党の推薦責任が曖昧になるため、舛添氏を支えた自公両党は恰もヒトゴトのように振る舞える」ことを指摘する。
・ 江川氏はメディア界の視点から、都議会に出入りする報道記者の怠慢、都議会議員の無作為、商業ジャーナリズムの浅薄さなどを言う。
・ 青山氏の指摘は、政治資金規正法そのものの現実乖離、有権者の側に人気投票的ふまじめさが有る点を述べる。

3者三様の角度から、大事なポイントをほぼすべてに亘り突いている。是非ともサイトを開いてお読み戴きたい。 それにつけても『選挙制度及び議会と首長の在り方』に改善点が集中しているのは、地方自治の有りようと国政レベルと全く同じ構図である。いわば、日本の戦後の統治体系全体に制度疲労が蔓延しているのは、既に隠しようがない。

広域自治・道州制との連動で、二院制度の見直しまで、全て地方政治も国政も同じ病巣を抱えているのだと私は思う。 政治家も有権者も等しく、ここにメスを入れないまま、問題の先送り、日和見を続けてきた。 戦後70年を過ぎ、もう臨界点に達しているとの自覚を誰よりも国民一人一人がもたねば、他人のせいではなく、己の不作為でこの国をダメにしてゆくのだと肝に銘じたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪ 舛添騒動で浮かぶ 地方議会と選挙制度の問題点≫

2016-06-16 08:38:20 | トーク・ネットTalk Net
 舛添氏だけが悪いのか 砂原庸介さん、江川紹子さん、青山やすしさん http://digital.asahi.com/articles/DA3S12410817.html?rm=150
・ この見出しは<舛添氏擁護か?>との誤解を与えかねないので、噛み砕いておくと、砂原氏は「地方議会と首長の二元選出制度の招きやすい対立構造がある。
  そこに中選挙区制による選挙の在り方が加わり、支持政党の推薦責任が曖昧になるため、舛添氏を支えた自公両党は恰もヒトゴトのように振る舞える」ことを指摘する。
・ 江川氏はメディア界の視点から、都議会に出入りする報道記者の怠慢、都議会議員の無作為、商業ジャーナリズムの浅薄さなどを言う。
・ 青山氏の指摘は、政治資金規正法そのものの現実乖離、有権者の側に人気投票的ふまじめさが有る点を述べる。

3者三様の角度から、大事なポイントをほぼすべてに亘り突いている。是非ともサイトを開いてお読み戴きたい。 それにつけても『選挙制度及び議会と首長の在り方』に改善点が集中しているのは、地方自治の有りようと国政レベルと全く同じ構図である。いわば、日本の戦後の統治体系全体に制度疲労が蔓延しているのは、既に隠しようがない。

広域自治・道州制との連動で、二院制度の見直しまで、全て地方政治も国政も同じ病巣を抱えているのだと私は思う。 政治家も有権者も等しく、ここにメスを入れないまま、問題の先送り、日和見を続けてきた。 戦後70年を過ぎ、もう臨界点に達しているとの自覚を誰よりも国民一人一人がもたねば、他人のせいではなく、己の不作為でこの国をダメにしてゆくのだと肝に銘じたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする