今夜は、久方ぶりに<よしなしごと>を気まま、放埓に、こぼしてみよう。 何について? 時計が刻む時刻ではなく、自分が生きている実際の時間”感覚”について、である。
言うまでも無く「時刻」という日本語を我々が毎日の実生活で感じる瞬間の感覚は、機械時計が均一に刻む長さと一致しない。 一致する時も無論ある。が、一致しない場合が圧倒的に多い。 それと同様に、「時間」という日本語が指す<ある長さに亘る命の継続感覚>が、時計の示す間隔と一致しないことの方に、寧ろ親しみを以て我々は経験してきた。
それは秒/分/時単位でなく、年単位において甚だしい。 それは高齢に差し掛かると、如実に実感できる。
此の同じ暗喩で、ヒトが生まれて死ぬまでの「人の生」=人生を長さとして、或は途中経過のナマの感覚として捉える時、当然ながら、その不一致は個人差そのものだろう。
何故なら、体つき/容貌が異なるのと同じで、(時刻/時間)の感じ方に生命個体差/個人差がある以上、其の差異は人生観/死生観の差になってくる。 実際、同年輩の友と語り
あうや、此の個体差が露骨に見え始める。そこで会話は無難な納め方に向かう、というのが先輩諸氏または同輩のトモガラに共通の場面ではありませんか?
さて、こういう個体差/個人差とは、生物学的側面に加え、この年齢に至るまで経過してきた「人生時間」の中身の差異も当然大きな影響を与えていることを忘れることはできない。 正確には、過ぎ越し時の中身/結果こそが現在の「人生時間/死生観」感覚を決定づけたと感じている、というべきだろう。 ここまで異論を刺しはさむ方はいまい、と想定する。また、お互いがそれぞれ送った過去の時間総体に敬意を払う、これも人生の黄昏を迎えた人なら誰しも良識として弁えている。
ならば<残された時間>を自分がどう設定するか、否、生き物だから自然の摂理に任せるべきとして<残された時間>意識そのものを否定するか? 大まかに言って、私がみるところ、高齢者の態度は二分されている。それは今も昔も、多分変わらない。 他方、死ぬまで「命の時間感覚」自体は意識的/無意識的どちらにせよ、誰も無視はできない。 絶えることは無い。
例え意識的に<残された時間>感覚を抱く「元気印」の人でも、その生理的?時間感覚感が消せないまま、徒に目の前を「時」が流れる印象は拭えないから、いっそう切ない。
じゃ自然に任せるというヒトは あっけらかんと此の感覚を麻痺させられるか? といえば出来ず、それは 切ないというほかない。
言うまでも無く「時刻」という日本語を我々が毎日の実生活で感じる瞬間の感覚は、機械時計が均一に刻む長さと一致しない。 一致する時も無論ある。が、一致しない場合が圧倒的に多い。 それと同様に、「時間」という日本語が指す<ある長さに亘る命の継続感覚>が、時計の示す間隔と一致しないことの方に、寧ろ親しみを以て我々は経験してきた。
それは秒/分/時単位でなく、年単位において甚だしい。 それは高齢に差し掛かると、如実に実感できる。
此の同じ暗喩で、ヒトが生まれて死ぬまでの「人の生」=人生を長さとして、或は途中経過のナマの感覚として捉える時、当然ながら、その不一致は個人差そのものだろう。
何故なら、体つき/容貌が異なるのと同じで、(時刻/時間)の感じ方に生命個体差/個人差がある以上、其の差異は人生観/死生観の差になってくる。 実際、同年輩の友と語り
あうや、此の個体差が露骨に見え始める。そこで会話は無難な納め方に向かう、というのが先輩諸氏または同輩のトモガラに共通の場面ではありませんか?
さて、こういう個体差/個人差とは、生物学的側面に加え、この年齢に至るまで経過してきた「人生時間」の中身の差異も当然大きな影響を与えていることを忘れることはできない。 正確には、過ぎ越し時の中身/結果こそが現在の「人生時間/死生観」感覚を決定づけたと感じている、というべきだろう。 ここまで異論を刺しはさむ方はいまい、と想定する。また、お互いがそれぞれ送った過去の時間総体に敬意を払う、これも人生の黄昏を迎えた人なら誰しも良識として弁えている。
ならば<残された時間>を自分がどう設定するか、否、生き物だから自然の摂理に任せるべきとして<残された時間>意識そのものを否定するか? 大まかに言って、私がみるところ、高齢者の態度は二分されている。それは今も昔も、多分変わらない。 他方、死ぬまで「命の時間感覚」自体は意識的/無意識的どちらにせよ、誰も無視はできない。 絶えることは無い。
例え意識的に<残された時間>感覚を抱く「元気印」の人でも、その生理的?時間感覚感が消せないまま、徒に目の前を「時」が流れる印象は拭えないから、いっそう切ない。
じゃ自然に任せるというヒトは あっけらかんと此の感覚を麻痺させられるか? といえば出来ず、それは 切ないというほかない。