静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 ≪ 日記という名の呟き ≫  人の生に於ける『時間感覚』の差

2016-05-23 19:52:31 | トーク・ネットTalk Net
 今夜は、久方ぶりに<よしなしごと>を気まま、放埓に、こぼしてみよう。 何について? 時計が刻む時刻ではなく、自分が生きている実際の時間”感覚”について、である。 
言うまでも無く「時刻」という日本語を我々が毎日の実生活で感じる瞬間の感覚は、機械時計が均一に刻む長さと一致しない。 一致する時も無論ある。が、一致しない場合が圧倒的に多い。 それと同様に、「時間」という日本語が指す<ある長さに亘る命の継続感覚>が、時計の示す間隔と一致しないことの方に、寧ろ親しみを以て我々は経験してきた。
 それは秒/分/時単位でなく、年単位において甚だしい。 それは高齢に差し掛かると、如実に実感できる。

此の同じ暗喩で、ヒトが生まれて死ぬまでの「人の生」=人生を長さとして、或は途中経過のナマの感覚として捉える時、当然ながら、その不一致は個人差そのものだろう。
 何故なら、体つき/容貌が異なるのと同じで、(時刻/時間)の感じ方に生命個体差/個人差がある以上、其の差異は人生観/死生観の差になってくる。 実際、同年輩の友と語り
あうや、此の個体差が露骨に見え始める。そこで会話は無難な納め方に向かう、というのが先輩諸氏または同輩のトモガラに共通の場面ではありませんか?

 さて、こういう個体差/個人差とは、生物学的側面に加え、この年齢に至るまで経過してきた「人生時間」の中身の差異も当然大きな影響を与えていることを忘れることはできない。 正確には、過ぎ越し時の中身/結果こそが現在の「人生時間/死生観」感覚を決定づけたと感じている、というべきだろう。 ここまで異論を刺しはさむ方はいまい、と想定する。また、お互いがそれぞれ送った過去の時間総体に敬意を払う、これも人生の黄昏を迎えた人なら誰しも良識として弁えている。

 ならば<残された時間>を自分がどう設定するか、否、生き物だから自然の摂理に任せるべきとして<残された時間>意識そのものを否定するか? 大まかに言って、私がみるところ、高齢者の態度は二分されている。それは今も昔も、多分変わらない。 他方、死ぬまで「命の時間感覚」自体は意識的/無意識的どちらにせよ、誰も無視はできない。 絶えることは無い。
 例え意識的に<残された時間>感覚を抱く「元気印」の人でも、その生理的?時間感覚感が消せないまま、徒に目の前を「時」が流れる印象は拭えないから、いっそう切ない。  
  じゃ自然に任せるというヒトは あっけらかんと此の感覚を麻痺させられるか? といえば出来ず、それは 切ないというほかない。
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 ≪ 日記という名の呟き ≫  人の生に於ける『時間感覚』の差

2016-05-23 19:52:16 | トーク・ネットTalk Net
 今夜は、久方ぶりに<よしなしごと>を気まま、放埓に、こぼしてみよう。 何について? 時計が刻む時刻ではなく、自分が生きている実際の時間”感覚”について、である。 
言うまでも無く「時刻」という日本語を我々が毎日の実生活で感じる瞬間の感覚は、機械時計が均一に刻む長さと一致しない。 一致する時も無論ある。が、一致しない場合が圧倒的に多い。 それと同様に、「時間」という日本語が指す<ある長さに亘る命の継続感覚>が、時計の示す間隔と一致しないことの方に、寧ろ親しみを以て我々は経験してきた。
 それは秒/分/時単位でなく、年単位において甚だしい。 それは高齢に差し掛かると、如実に実感できる。

此の同じ暗喩で、ヒトが生まれて死ぬまでの「人の生」=人生を長さとして、或は途中経過のナマの感覚として捉える時、当然ながら、その不一致は個人差そのものだろう。
 何故なら、体つき/容貌が異なるのと同じで、(時刻/時間)の感じ方に生命個体差/個人差がある以上、其の差異は人生観/死生観の差になってくる。 実際、同年輩の友と語り
あうや、此の個体差が露骨に見え始める。そこで会話は無難な納め方に向かう、というのが先輩諸氏または同輩のトモガラに共通の場面ではありませんか?

 さて、こういう個体差/個人差とは、生物学的側面に加え、この年齢に至るまで経過してきた「人生時間」の中身の差異も当然大きな影響を与えていることを忘れることはできない。 正確には、過ぎ越し時の中身/結果こそが現在の「人生時間/死生観」感覚を決定づけたと感じている、というべきだろう。 ここまで異論を刺しはさむ方はいまい、と想定する。また、お互いがそれぞれ送った過去の時間総体に敬意を払う、これも人生の黄昏を迎えた人なら誰しも良識として弁えている。

 ならば<残された時間>を自分がどう設定するか、否、生き物だから自然の摂理に任せるべきとして<残された時間>意識そのものを否定するか? 大まかに言って、私がみるところ、高齢者の態度は二分されている。それは今も昔も、多分変わらない。 他方、死ぬまで「命の時間感覚」自体は意識的/無意識的どちらにせよ、誰も無視はできない。 絶えることは無い。
 例え意識的に<残された時間>感覚を抱く「元気印」の人でも、その生理的?時間感覚感が消せないまま、徒に目の前を「時」が流れる印象は拭えないから、いっそう切ない。  
  じゃ自然に任せるというヒトは あっけらかんと此の感覚を麻痺させられるか? といえば出来ず、それは 切ないというほかない。
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☆ 2016.05.23. ≪ 美味しい職業としての国会議員? ≫ 選挙制度/政治資金/歳費 

2016-05-23 08:19:00 | トーク・ネットTalk Net
 ☆ 視点 選挙制度 戦後最少は良いことか=論説副委員長・古賀攻 http://mainichi.jp/articles/20160523/ddm/005/070/023000c?fm=mnm
・ 衆議院の議員定数を減らすことで決着させた。戦後最少の465名に。それと同時に「1票あたりの格差是正」も果たした、ということらしい。
 ⇒ 然し、<小選挙区と比例代表の組み合わせ>がもたらしてきた政党の政策立案能力の低下、議員資質の劣化、<政務調査費>名目での不明瞭な支出の放置は依然として
   変わらない。
  我が読者には”釈迦に説法”だが、代議制民主主義をとるのは、国会であれ地方議会であれ、様々な価値観/思想を代表する複数の意見が共存する健全な場を設ける為である。市民の意見=民意を代表する趣旨と、定数の多寡は密接な関連がある。どういう選び方=選挙区制度が最も「民意」汲み上げに効率的かつ公平か、其の視点で探り出した結果として議員定数は決まるのであり、最初に定数ありきではない筈だ。 

古賀氏のいうとおり<定数の削減が不良議員の排除に直結するわけではない。むしろ、削減論が国民のルサンチマン(復讐(ふくしゅう)感情)を刺激し、政治がポピュリズム化するのを恐れる。それを突き詰めると、定数は少ないほどいいという「議会不要論」に行き着く>。既に小泉型劇場政治が蔓延し、与野党問わず「ポピュリズム」に覆われている現状を思うと、選挙制度の変更はおろか、政治資金規制法の孕む矛盾に議員自らが手をつけるとは思えない。いわんや「身を切る」歳費削減など、誰が言いだすか? 

日本に限ったことではなかろうが、議員になることが資金力ある名士の家柄と密接な関連をもつこと自体、美味しい「職業としての国会議員」を成り立たせる基盤だ。 衆議院議員の年間歳費は 2,600万円という。本当なら、大きな民間企業の部長級の年収だ。参議院議員はもっと多い。単純比較はできないが、議員として国民の為に汗をかく報酬として、この歳費に釣り合う存在価値を議員諸氏は出しているか?  歳費を下げたら議員の質も低下するか? 多分、関係はない。
 
よく言われる<カバン/地盤/看板>の地盤とは、地元での財力と後援会の結びつきを現す。 こんなことは今更オトナである我が読者には耳タコであろうが、何度も繰り返すように、(選挙制度+政治資金規制+歳費)の3点セットで改革しない限り、此の国の政治は良くならない。有権者は、定数をいじったくらいで誤魔化されてはならない。
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