静 夜 思

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南極海の調査捕鯨      < 鯨肉を食べる文化を 本当に守れるのか?>

2014-10-07 12:07:38 | 時評
毎日新聞は、月初めにひとつのテーマについて自社も含め新聞各社の社説の論調を比較し、総括的な意見を出す。今朝7日は表題について、各社の論調の違いと其の背景を論じ <調査捕鯨の問題は、鯨資源の保全という科学的な側面だけを論じても解決しない。鯨を食べること自体を認めるか否かという「食文化」論、反捕鯨国の世論を背景にした過激な環境保護グループの妨害活動やそれに対する国民感情も重なって、問題が複雑化しているからだ。   多様な論点のどこに力点を置くかで、各紙の論調に差が出ている。いずれにしても、国内外の現実を見据えた冷静な対応が大切な「食文化」を守ることにつながるのではないだろうか>と結んでいる。
 新聞各社の力点は異なるが、要は「食文化の否定には反対すべき」「沿岸捕鯨は死守すべし」の2点が最大公約数的足場と見える。それが現在での国民の想いと一致している、との読みでもあろう。恐らく、それは間違ってはいまい。私も同感だ。だが、この捕鯨に対する諸外国の反対には、この2点を幾ら訴えても効果は低いような気がする。

 何故なら(マグロ/うなぎ)、この2種を巡っては遅まきながらも資源管理の国際的な枠組み造りの場がもたれ、敵対心に満ちた避難や規制の場ではない。翻って、なぜ鯨ではこのような国際協力の枠組み造りに失敗し、一方的な制裁/非難の場になったのか? ・・・この比較分析と反省にたつアクション提示を私は寡聞にして知らない。「食文化」の主張を例にとれば、マグロ・うなぎ、どちらも日本人だけが珍重するのではない。食べ方は違っても西洋人は食べてきた。鯨はどうか? 鯨油を始めとして鯨が有用な生物として活用された19世紀までの歴史が黒船来航の直接的背景であり、日米通商要求から開国に繋がったことは誰もが知る例だ。然し、当時も今も、鯨肉を食べ続ける民族はイヌイット以外では日本人が殆どであり、多数決の論理の前に「文化」は敗れ去るのだ。文化には科学と違って普遍的論理性はない。特定の民族集団内に固有の情動でしかなく、従い、多数決論理の餌食になり得るわけである。動物愛護という情動にさえ負けるのは、「殺す」vs「命を守る」の2元論の土俵に乗るからであろう。

 では「食文化尊重」の論点を捨て、沿岸漁業者の生計保護だけを訴えるのはどうか? 食文化尊重の孤独な主張よりは効果があるかもしれない。この場へ産経/読売のように、食文化の否定をなじる民族感情トーンを持ち込んでも既に有効ではなく、寧ろ逆効果でさえあるのではなかろうか? だが、沿岸漁業者の保護の裏付けには鯨肉消費量が一定量続く論証が必要になる。(それが科学的論理性に生きる外国人に立ち向かうすべであるから)。  去る9月17日≪IWC 国際捕鯨委員会総会  < 守るべきは沿岸捕鯨だ > というが、論拠は大丈夫か?≫のタイトルで私は寄稿した。 論拠とは即ち鯨肉消費永続の論証だ。   私は鯨肉が大好きな者の一人として国際世論の理不尽さは涙がでるほど悔しい。  が、現実なのだ。
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