昨日、ナイターテニスのとき、教室に入ってきた新人二人に、私は39歳のときからテニスを始めたから、若いみなさんならすぐにテニスが楽しくなるから頑張ろう、と励ましました。そしてその晩、寝床についたとき、新人に自分が言った言葉を思い出し、テニスだけでなく、いろいろなスポーツをしたなあ、としみじみ振り返ってしまいました。
初めてやったスポーツは野球です。小学生のころは、空き地で近所の子たちと野球ばかりやっていました。手打ち野球から柔らかなボールをバットで打ち、グローブではなく手でとる野球。そして小学校高学年になって軟球の少年野球チームに入りました。でも上手くなかったので、いつも補欠でした。いい思い出がないので、ただやったことだけを記憶しています。
中学校では剣道部に入りました。小学校のときに池袋警察の剣道教室に何回か参加していたので、面白いかなと考えて入部しました。しかし、本格的に剣道をやるとその厳しさに負けてしまい、結局1年の1学期で退部しました。
2学期からは陸上部に入りました。走りに関しては少し自信がありました。小学校ではいつもリレー選手で、3クラス140人ほどいた学年でもトップを争っていました。陸上部は顧問の先生がまったく熱心でなく、練習は先輩たちが考えたゆるーいメニュー。気分的にすごく楽で、中学校卒業まで続けました。
高専に入学して入ったのがバレーボール部。中学3年のときに見たミュンヘンオリンピックでの男子バレー金メダルに感動してしまい、すぐに入りました。
東京都立工業高等専門学校(都立高専)のバレーボール部は、全国高専大会でも常にトップを争う強豪校でした。そんなバレー部にまったくの素人が入部しました。来る日も来る日も基礎練習ばかりでした。でも、その練習にも慣れ、上達していく自分がわかるようになると、ゲームが楽しくなり、のめり込んでいきました。
そして、試合にもレシーブ要因として出してもらえるようになりました。しかし、2年の2学期、おふくろが病で倒れました。1時間半の遠距離通学なので、クラブをすると帰りが夜9時となる生活ができなくなりました。そして、退部しました。仕方ないことでした。
大学では人形劇クラブに入って、スポーツとはまったく無縁でした。バイトバイトの生活でしたが、両親が高専を3年で中退して大阪の大学を選んだ自分を許してくれたことに対して、スポーツなどをするよりも自活するべきであり、親への経済的負担を少なくすることは当然でした。
卒業して1年後に結婚し、子育てをしていたときもまったくスポーツとは無縁でした。そんな私がスポーツに目覚めたのは、息子たちがお世話になっていた学童保育の運動会のときでした。
吹田市の小学校全校の学童保育所の学童が集まってする合同運動会が、毎年、秋の深まった時期にあり、その競技の中に学童だけでなく、親のリレーがありました。私はアンカー。中学校のときに陸上部だったので、なんとかなるだろうと甘く考えて走りました。するとゴール手前で足がもつれて大転倒。腕がずるむけ、血だらけになりました。もちろん、最下位になりました。
みんなからは慰められましたが、私は自分の情け無さに打ちひしがれました。当時は70kg近い体重があり、運動不足丸わかりの体型でした。
そして一念発起❗️
走り始めました。
会社まで11kmの道のりをバイクや車で通うのをやめ、自転車とランニング通勤にしました。毎日往復で22km、鍛錬しました。
そしてマラソンが趣味になりました。
10kmランからハーフマラソン、そしてフルマラソンへ。
フルマラソンのベストは3時間51分。4時間を切ったのは結局2回だけでしたが、32歳から39歳まで楽しめました。
最後は不整脈が出てしまい、マラソンをやめました。そしてすぐにテニスを始めました。テニスなら心臓の負担は少ないかな、なんて考えたからです。
家の近くに吹田市営のテニスコートができたのをいい機会に、敏美さんとテニスを始めました。
せっかくやるからにはスクールに入って上手くなろうと考え、阪急相川駅そばのテニススクールに入りました。
そして、そのレッスンの2回目、左足のアキレス腱を完全断裂しました。数ヶ月前にはフルマラソンを走っていたのに、テニスでアキレス腱断裂なんて。学童保育のリレーのときと同じように、テニスを甘く見ていたようです。またまた大怪我です😢
半年間、テニスができませんでした。
その間、敏美さんは一人でテニスを楽しんでました。クソー‼️
そして復活。すぐに時間を取り戻そうとテニスにのめり込みました。草トーナメントにスクールの若い子と組んで参加したり、会社でもテニス仲間を作ったりして楽しみました。スクールでは敏美さんと組んでクラス優勝もしました。
そのテニスを今でも楽しんでいますが、途中、テニスを中断したことがあります。それはヒップホップダンスに魅せられてしまったためです。
原因はスピードスケート⛸️高木美帆さんです。彼女は中学生のときにオリンピックに出ました。その彼女の特集番組がテレビで放映されました。そのとき、スケートだけでなく、サッカー⚽️でもジュニア日本代表であり、また、幼いころからヒップホップダンスでも舞台に立っていると紹介されました。
衝撃でした。そしてダンスを楽しく踊る美保さんがとても素敵に思えました。
そしてすぐに吹田駅の大阪アカデミーのヒップホップダンスの基礎コースに飛び込みました。2010年6月、53歳のときです。若い女性にまじって禿げた中年が入りました。みんなびっくりしたと思いますが、誰も嫌がらずに歓迎してくれました。実は、ヒップホップダンサーではそれが常識なんです。ダンスをする人はみんな仲間で友達なんです。年齢、性別、容姿なんか関係ないんです。私もダンスを続けてそれがわかりました。私を一番リスペクトしてくれたのは小学生で、私もその小学生をリスペクトしてました。結局、上郡にくる前の61歳まで続け、発表会にも何回か出演しました。最高齢ダンサーとして😆
ときどき、あー、ダンスがしたいなあ❗️と思うことがあります。ついこの間も昔のダンス仲間と長時間電話してしまいました。今でも仲間です。
上郡にきた今、スポーツはテニス中心です。上郡にも佐用にも、そして大阪吹田にもテニス仲間がたくさんいるので、いつでもラリーできます。
以上、私のスポーツ遍歴でした。
そのほか、卓球、スキー、スノボ、ローラースケートなんかのネタもありますが、第1回はこれぐらいにしときます🤗