晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

小沢よ軛を捨てよ! 街に出よ! 民意のただ中にその身を置け!

2011-10-04 21:27:48 | 政治と社会
当地フランスでは、頻繁にデモが繰り広げられる。


30名程度の小規模なものから、100万人動員の大規模なものまで。

不法に密入国して来た外国人が、正規の「外国人滞在許可証」の発行を求める「ムシの良い」デモから、制度の改悪に抵抗する「社会性の有る」デモまで多岐にわたって。

近年では、高等学校の資格制度と就学基準の変更に関わる法案に、全国の高校生が各都市で数万人規模のデモを何ヶ月も繰り返した挙げ句、ついに「文部大臣」が法案の撤回を決めざるを得なかった、例もある。

10代の高校生が、政府に勝利したのだ。

国民には、政治への意思を示す権利が有るのだ。


デモは、少しも特殊な事では無い。

国民の権利である。
国民の自由の象徴である。
国民にとっての、意思表示の有効なる手段である。


特殊な事では無い以上、社会の日常にとけ込んでいる。

勿論、デモの規模に応じて警備は厳しく行われ、機動隊が動員される。
だからと言って、デモ行進のその空間を日常から切り取って、日本の様に完全隔離する様な事は無い。

大通りを、延々と1時間以上かかって通りすぎる様な、数万人規模の場合でも、歩行者は「デモ隊」の合間を縫って道を横切る事も出来る。


     
     ある日のパリでのデモ


上の写真は、実際にデモ隊の間を横切りながら撮影したものである。


勿論、デモ隊が暴徒化する事も無いでは無い。
その時は、放水車が登場し、機動隊は必要に応じて「催涙弾」を発射する事も有る。

しかし、そのような事は、通常のデモ隊が通り過ぎた後の、機会にただ乗りして騒ぐ跳ねっ返りの騒動である事が多いのだ。

デモは、整然と繰り広げられる。
警備陣も、機動隊輸送車の中で、トランプなんぞをやりながら待機しているだけで、周囲では普通の警官が交通整理をしているだけである事が多い。



そして、社会の制度やインフラの根幹に関わる様な問題の時は、必ずと言って良いほど、「議員」も庶民に混じって後進するのです。


印象深かったのは、2010年1月23日。

フランス南西部と、スペイン北西部とにまたがった、高速鉄道(TGV)建設反対デモである。
(拙ブログ1020年1月24日をご参照下さい)

西仏両国住民の<新幹線>新線建設への拒否反応と、日本の土建政治信仰との違い


その日、新線を通す事が決まった『フランス・バスク』と、『スペイン・バスク』両地方選挙区の国会議員、地方議会議員、知事、市町村長達を先頭に、1万5千人が西仏国境をまたいでデモ行進した。


     
     先導のたった一人の機動隊員の後ろ、デモ隊の最前列を占める議員達


     
     

フランスは、自治体首長や議員たちは、「フランス共和国を代表する立場」として人前に出るとき、共和国の三色の佩帯を肩からかけるのです。


つまり、デモ隊前列に集う、三色の帯を肩からかけているのが、議員達。

この「高速鉄道建設反対デモ」では、与野党の垣根を越えて、地方政治勢力が結集した。

つまり、新幹線建設がもたらす(と言われている)経済効果より、新幹線建設が引き起こす生活環境の破壊の方が、地域住民にとっては重大な問題だと言う訳である。

残念ながら、フランスの『TGV』ネットワークの、周辺諸国への拡張は国策として推進されて居り、『ユーロスター』の名でイギリスへ、『タリス』の名でベルギー・オランダ・ドイツへ伸ばされて居り、今回のスペイン線『LGV』も、避ける事は出来ない政策で、地方の意志は尊重されなかった。


言いたかった事は、デモと言うものは、一部の過激な市民だけが参加する、特別な物では無い、と言う事なのだ。

なにか、自分達に都合の悪い「お上の決定」に対して、関係する人々が集って集団で意思表示をする場、なのである。

当然そのなかには、ホームレスから国会議員までが、含まれる。

行進の先頭を議員達が固める事も有れば、デモ隊の中程に「単独」で一緒に行進する議員も居る。


     
     一人デモ隊に混じって行進する議員



『陸山会事件』判決いらい、小沢氏の周辺が増々騒がしくなっている。

論調としては、相も変わらず「小沢の責任」を追求するものばかり。

ただ、ほんの少しの変化は見られる。

秘書への有罪判決の報道に関して、当然「小沢」本人の談話も載せる。

ただ、これまでであれば「不当な判決だ」という部分のみ載せて、彼の反応を国民達にとって「正義に楯つく」かの如くに見せるだけであった。

ところが、今回は「何故不当なのか」という、小沢の判決への「批判の根拠」を一応割愛せず、載せていた事であろうか。


とは言え、大手メディアの「国民洗脳」への誘導報道の姿勢に変わりはなく、国民の「小沢の責任」を問う姿勢を、誇張して報じ続けている。


今年になって、小沢氏のネット放送への露出が、増えて来た。


しかし、いかんせん「ネット放送」はあくまでも「インターネット」であって、視聴者は毎回『同じ』なのだ。

ネットで小沢を支持している層が、今回の判決にいくら怒りを表明してみた所で、社会的な本流とはなり得ない。

<本流>になれなければ、その動きは<奔流>にはならない。


今まで、小沢氏の存在が、国民にとってはあまりにも遠かった。

民主党議員の間ですら、しっかり彼と話をした事の有る議員の数など、たかが知れるのだろう。

なにしろ、野田佳彦代表自身が、今回の代表選を前にして「細川」の殿様が会見のお膳立てをするまで、民由合併以来「一度も」直接口をきいた事が無かったと言うから、呆れてしまう。


だから、ダメなのだ。


「奥の院」と言う表現がまかり通る。

小沢の動きが、すべて「政局」に絡めて受け取られるのも、そこに原因の一つがあるのでは無かろうか。

院政と言われる。

「神秘性」を保つ事は、カリスマ性の維持にとっては、必要なのかもしれない。
リーダーには、カリスマ性は絶対に必要である。

しかし、「神秘性」を造り上げる事でカリスマ性を維持しなければならないのは、カリスマ性の無い政治家だからこそ、なのである。

小沢一郎に、そのような演出は必要ない。


彼自身、政治理念の奥深さと、その実行力(首相としては未だ証明されていないが)に関して、余人を持って変え難いものを持っている。

小沢一郎は、最初から『カリスマ』なのだ。

そして、そのカリスマ性をより良く国民にアピールするには、奥の院のイメージを払拭しなければならない。


小沢一郎は、自身の存在感を「国民の中に」見いださなければならない。

国民の誰しもが、人工的に造り上げられたイメージでしか見ていない現状を変えて、皮膚感覚で小沢一郎を感じられる様に、小沢一郎自身が努力しなければならない。

いまや日本ですら、20世紀の政治風土と、すっかり様変わりしている。

政治家は、国民にとって身近な存在でなければならず、かつ強力な個性を「ポジティヴ」に表現出来なければならない。

ネットの放送や、懇談会などの「ファン層」の集まりに出るのも良かろう。
今までは、それも少なかったのであろうから。

しかし、それだけでは足りない。

小沢自身が、自らの取り巻きの防壁から、敢えて外へうって出て、大衆を味方につけなければならない。

「素の小沢一郎」を、理解されなければならない。


その為に。
一番効果的な表現方法として、街に出る事は。

通りに出る。


今日の日本で、もっとも必要かつ不可欠な運動と言えば、『反原発』運動に違いない。

前回の、「さよなら原発フォーラム」が主催した「脱原発5万人デモ」は、大成功であった。

ノーベル賞受賞者「大江健三郎」の参加は、インパクトが有った。

それにも関わらず、大手メディアの報道振りは、相も変わらず国民に背を向けた、報道機関としての存在意義を疑わせる程度のレベルでしかなかった。


考えてみよう。
もし、そのデモに『小沢一郎』が参加していたら!


総ての関係性が、違ったものになっていたのでは無かろうか。

別に「数万人」でなくとも良い。
新宿で17名の逮捕者をだした、あのデモに小沢一郎が参加していたら。

警察は、あれほど露骨な「力の行使」が出来たかどうか。
恐らく、逮捕者は出なかったのでは無かろうか、とすら夢想する。

ましてや、数万人規模の「反原発デモ」に、小沢一郎が先頭で行進したとしたら。

「反原発運動」の持つ意味が、大きく変わるであろう。

一部の「アンポンタン」に、あたかも「カルト」扱いされている運動が、日本人として「何を拒否し案ければならないか」を、もう一度国民一人一人の胸に問う事に、なる筈だ。


そして、小沢一郎の政治姿勢が、大きく理解される事になる筈だ。

多くの人々に,小沢一郎を理解させるきっかけに、なる筈だ。


小沢一郎殿に申し上げる。


奥の院をいでて、街に出られよ。

文字通り、民衆の先頭に立たれよ。
自らの、造られた「負のイメージ」を打破されよ。
日本を、「先頭で引っ張る」意思を、広く示されよ。

いまや、政治は大衆と共に動かされなければならない。

国会の赤絨毯の上だけで、総てが動く時代では無くなりつつ有る。

陣笠議員の、朝の駅前の「辻立ち」とは、別の意味で街に出て、民衆に入り交じって、民衆と共に国を動かして行く姿勢が、肝要であると信じる。


さあ。

小澤一郎殿。

街に出て、先頭を歩こう。


さらに、キー局地上波テレビに、ぜひとも出演されたい。

「敵」陣営に入り込み、敵内側から「拒否反応」と「抵抗システム」とを破壊して行く必要が有る。
敵の懐から、敵が如何に酷い操作をしようにも、出来ない様に。

直接、彼等の中から表現しよう。


大手メディアは、勝ち馬に乗る。

小沢一郎が、彼等の番組で、彼等に直接語りかければ、彼等の中にも賛同者は出て来る。

現在のメディアの小沢叩きは、勿論「利益誘導」政治のシステムに乗っかった、既得権益層の代理人である為である。

しかし他方、本当は彼等は小沢一郎が好きなのだ。

振り向いて欲しいのだ。
無視されたく無いのだ。

小沢一郎が、スタジオで「思ったより面白いオジサンだ」と思われる事は、想像に難く無い。

硬軟取り混ぜ、彼等の懐に入り込み、世の中での小沢の評価も変わり始めれば、軽薄なメディアは絶対に姿勢を変える事は、間違いない。

節操のない輩の行動様式など、知れている。


小沢一郎殿。

街に出よう。
国民の中に混じって歩こう。

メディアに入り込もう。
彼等を、飼いならそう。


時は、まさに「ヒーロー」を必要としている。
ご自身がおっしゃった通り、「調整型ではダメ」なのです。

「黒いヒーロー」は、簡単に漂白され得る。
「純白のヒーロー」に変身するには、こちらから仕掛ける必要が有るのです。

「国民の生活が第一」を、身を以て表現するには、街に出る事が一番。

スローガンを造った『小沢一郎』自身が街に出て、行動で示す事ことこそが、その思想の体現の一番の手段である。


街に出よ。
小澤一郎殿!


コメント (12)
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