晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

パリの『空港消防隊』はエリートなのです

2008-12-20 07:43:50 | フランスとヨーロッパの今日の姿
パリ・シャルル・ド・ゴール空港の『消防隊』基地を視察して来ました。

世界で四番目に大きな空港、『シャルル・ド・ゴール』空港は、パリからわずか30分の位置にあって、敷地面積三千五百ヘクタール!



東西に延びる4000メートルと、2700メートルが並走するダブル滑走路が、南北に二つ平行して、通常の空港2つがくっついたような構造です。

その南北の真ん中あたりに、現在エール・フランスとその提携航空会社が使う『ターミナル2』がA.B.C.D.E.F.Gと続き、さらに2年後にはもう一つ(たぶんH)が建設予定。

しかも、最初にオープンしてた、それ以外の航空会社が利用する『ターミナル1』もあって、年間利用客5000万人。

その空港の、一般乗降客の目に触れない重要な存在が、『空港消防』です。

北と南と、二カ所に駐屯基地があり、特に南基地はターミナル・ビルのすぐ裏に、ウジャウジャ駐機している機体の死角になる位置に、こんな<消防特殊車両>の待機する基地があるのです。



扉が開くと、精悍な特殊車両が顔を見せますが、一般にこの角度で見られる事は有りません。



中に入れてもらいました。



目下、隊員が定期作業中。

彼等は、一チームで隊長一人に隊員六人の七人構成。
朝7時から翌日7時迄の24時間勤務が一直。

先ず7時~8時が基本装備点検。
全て、チェック・シートに基づいて現物を念入りにチェックし、担当隊員と隊長がサインします。
8時~9時は朝食と休息。
9時~12時半までが、空港施設と航空機、消防業務全般の徹底的反復学習。
(なんと分野毎に厚さ10センチくらいのマニュアルが何冊も何冊もある!)
何しろ、冬には霧の多いこの空港で、有効視界100メートルなんて時でも、東西15キロ南北10キロの敷地内を、あらゆる滑走路や誘導路、各種建築物を縫って、あらゆる場所に3分以内に到着しなければならないのだ。

12時半~14時昼食と休憩。

14時~19時は機材、車両を使っての実地訓練。
実際の航空機のコックピットに外から入り込んでエンジンや電気系統を切断する実技、何てのも有るらしい。

夕食後、翌朝7時迄は待機。

以上が、緊急出動が無かった場合の、隊員の一日です。
勤務開けは24時間のオフ。



これは15000リットル積載の科学消防車。
これ二台と、6500リットルの一台が組んで、3台一チームで航空機事故に出動します。

それ以外に、総延長距離何百キロにも及ぶ車両走行レーンや道路での交通事故や、一般火災に出動する<小型車両>が何台も待機。

車庫に待機中の車両は、電源コードにつながれていて、どの季節でも24時間エンジン温度40度に保たれています。
出動の際、スグにエンジンがかかる様に。

15000リットルの水を摘んだ総重量18トンの車両が時速140キロで走ると、止まるのが大変。
運転実技訓練は欠かせません。



さあ、給水完了。



時あたかもテイク・オフ直後のエール・フランス機を背景に<放水>。
500馬力のエンジンは、走行と放水とを同時にまかなえるのです。



『空港消防司令室』では、3基ある管制塔とのホットラインを含め、あらゆるハイテク機器で空港の敷地全域と、侵入空域全域をカバーする特殊センサーで、異変が無いかを見張っています。
管制塔からの一報で、直ちに行動開始。

 

その後、『消防司令』自らの運転するワゴン車(もちろん赤塗り)で、空港敷地内を案内してもらったのですが。。。
滑走路を平気で横切り(4本の滑走路は全て、1分間隔で離着陸している!)、タクシーイングの二機のジェット旅客機の真後ろを走ったのは圧巻でした。

この『シャルル・ド・ゴール空港消防司令』は、あの<コンコルド墜落>の現場で指揮をとった人物なのでした。

  

最後にとっておきの写真。



隊員達の資格認定定期訓練での、炎上機体消火訓練。



実物大のエアバスA320のモックアップを炎上させての、実地訓練です。
さすがにこれは<空港の敷地内>では行いません。
(空港だったら目撃した全員がパニッルになってしまう!)




無事鎮火。
隊員は反対側のドアから内部に突入して、乗客のレスキューに当たる訓練が続きます。

隊員全員が、実際には遭遇したくないが、でもその時に当たったら、一切の躊躇なく果敢に実行出来る自信を持っています。

楽しい空の旅の影で、毎日訓練に明け暮れる<空港消防>の組織と、その隊員達におおいに感謝の念を感じた一日でした。
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派遣大量首切りだ、株価大暴落だと、なんとも<ウソ寒い>師走だ

2008-12-14 21:31:52 | 社会問題
世界中が、一世紀に一度の大不況だとか。

フランスに住んでいて、同じ様に、有る銀行が破綻しかかって公的資金の注入を受けたとか、失業率が上昇しているとか、株価が下落しているだとか、ニュースはあれこれ聞いています。

しかし、日本の様に、熱病にかかったかのごとくに、あらゆるマスコミが一斉にあおり立てるような事は有りません。

日本のニュースを見ていて毎日不思議で、かつ腹が立つのは、なぜこうも簡単に従業員の首が切れるんだろう、と言う事です。

世界中で車が売れなくなった、と聞いた途端に何千人も解雇する。
デジカメの売れ行きが鈍った、と言っては何千人もの首を切る。
しかも、自社社員ではなく、派遣労働者と期間労働者のみ。

フランスにあっては、雇用契約は、正社員であろうと、派遣社員であろうと、その期間中には解約等出来ない物だ。
契約期間中に解雇するには、その従業員が重大な規約違反を犯し、その事を公式に警告したにもかかわらず、再度同じ違反を繰り返し、三度目でやっと解雇出来る。

そういう事由とプロセスなしに解雇するには、本人の了承を取り付けて、1~2年分の給与を支払って、且つ、失業保険庁にそれと同等額の罰金を払い込んで始めてなされるものです。

企業に対して圧倒的に弱い<一労働者>をの立場と言うものは、それくらいにしないと、守れないものでは無いでしょうか。

しかるに日本では、いとも簡単に、会社の独断で、何時何時でも首を切れる。

これは、いわゆる<先進国>ではあり得ない社会状況だと思うのです。

だいたい、1兆3千億円(!!)の利益が、4千5百億円に減ったからといって、何が大騒ぎしなければいけないのか。
もちろん、65%も利益がマイナスになる、というその<幅>は膨大だろうけれど、でも<まだ>4千億エン以上もの利益がある(!)のに、年収200万円台の契約社員の首を、<年末になって>しかも<いきなり一方的に>切る、なんて許せないと思う。

元来日本の企業にとって、社員は<家族>であり、<財産>という概念だった。

それが<アメリカ的>に<使い捨ての持ち駒>扱いをする様になったのは、何時の頃からなのだろう。
リストラクチャーということばの本来の意味は、<組織の再構築>のはず。
それを、単にカタカナの省略語にした途端に<首切り>というイミに使う様になった。
しかも、ストレートに<首切り>と言うと聞こえが悪いけれど、カタカナで<リストラ>というと、何やらすこぶる先端的な行為のごとくに勘違いさせる効果を持ってしまっているらしい。

自動車の売り上げ予想が15%落ち込むのに、なぜ何万人も首を切らなければならないのか。
15%分節約すれば良い事だろう。

もし人的経費が負担しきれないのであれば、業績が回復する迄という期限付きで、全従業員に15%給与を下げることを受け入れてもらう努力をする方が、何もフォローの無い、一番弱い<派遣と期間>を無造作に切り捨てるより、遥かに説得力が有るのと違うか。

<首を切らないかわり、給料を下げる>
<全員が痛みを分け合うことで、困難を乗り切る>

それこそが、経営者のやるべき事ではないのか。

そもそも、『派遣労働者』に人的資源をシフトしてしまった、日本の現実が異常だと思うのです。

日本の政治は、あまりに企業を優遇しすぎている。
<輸出立国の日本は、企業が体質を強化する事が一番大切>というかけ声のもと、国民の立場が顧みられてこなかった。
それでは『大企業資本主義』にすぎず、一部大企業の社員以外の一般労働者が、完全に無視され、<負け組>がドンドン増えて行く。

社会保証<医療保険や失業保険、年金>の企業負担金が、従業員と同額というのが信じられない。
ヨーロッパでは、企業負担額は、労働者負担分の150%以上が常識。

それだけ、<労働者=国民>は、企業に対して守られてているベキ物なのです。

しかるに『経団連』は、19世紀後半<産業革命期>の欧米の企業家のごとくに、労働者に徹底的に対立して傲慢なまでに敵対的に振る舞っている。

『派遣切りは苦渋の決断だと思う』と平気でのたまう経団連会長。

バブル崩壊後の混乱期をやっとくぐり抜け、昭和『いざなぎ景気』以来の<好景気>と言われる時期を迎えても、<大企業>だけ利益を溜め込み、従業員の給料は一切のベースアップを拒み続け、下請け中小企業の犠牲のもとにせっせと企業内に利益を溜め込んで、その言い分が「まだ今後の見通しが不安定だから」と。

そして、本当に不安定になったと同時にすかさず、大量首切り。
それでは、今迄従業員に還元せず溜め込んで来た利益は、一体どうなったのだ。

先行投資にまわした。
それで、不況に見舞われた。

それなら、経営の失敗ではないか。
派遣を首にする前に、経営陣が責任を取るべきではないか。

労働者に圧倒的に不利であった『派遣労働法』を改悪を迫り続け、やっと労働者の側の観点に立って<改正>されてもまだ労働者保護の点で不利な事が多い、不十分きわまりない『改正法』に大しても反対を続けた経団連の、現会長、前会長の二人の会社が、派遣首切りの先頭を切っている。

そして、ちまたにはほとんど抗議行動らしい動きも無く、『連合』とやらは、<電話相談室>を設置する事ぐらいしかやれる手は無いていたらく。

旧『日本国有鉄道』が民営化されて、『国労』と『動労』が消滅していらい、政府がどんな無謀な政策をやろうが、全国的規模でのデモなど皆無になった。
今迄、全国動員規模のデモやストライキがやれれば、自民党政権は何度か転覆していた大問題を、ただ何もせずに座視しなければ、ここ迄<差別化>された社会にはなっていなかったのでは無かろうか、と悔やむ事しきりの、この20年です。



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ノルマンディーの至宝『カマンベール』

2008-12-10 02:51:04 | グルメ
<フランスの食材>と言えば、ワインとチーズ。

どちらも、質量共に世界に類を見ない豊かさです。

今回は、その『ノルマンディー地方』と『カマンベール』の間の秘密を、お伝えしてみようと思います。

<海岸では漁業、内陸では酪農>

『西ローマ帝国』を滅ぼしたゲルマンの諸部族のうち、最後のゲルマン人の移動、「北方ゲルマン」(いわゆるヴァイキング)の南下により形成されたのが『ノルマンディー公国』です。

ところで、西ローマ帝国の崩壊時に<蛮族>相争いながら土地を求めて移動し、定着して地域性が形成されつつあった頃、遅れてやって来た北方ゲルマン人ヴァイキングに残されていた土地は、およそ魅力的とは言いがたい森とやせた石灰層の土地で、農耕には全く不向きでした。

海岸に定着した彼らは、元々の技術で海の幸を求めて暮らせましたが、一歩内陸に入ると、放牧して暮らすしか術は有りませんでした。(最も彼らにその時、農業の技術も無かったのですが)。

ヤギと豚と羊から、だんだん乳牛にウエートが移り、ジャージー種(いまだにイギリス領の島原産と言われているベージュの肌の牛)から、焦げ茶の斑点を有する『ノルマンディー種』の牛が発生し、酪農が土地の重要な産業になって行きました。

酪農と言えば、ミルク。そして、バターと生クリームとチーズです。

ノルマンディーはチーズの宝庫。
『ポン・レヴェック』、『リヴァロー』、『ヌーシャテル』等、世界中にその名を轟かせているチーズが目白押しです。

それらの中でも、ノルマンディーと言えばやはり『カマンベール』。
もはやフランスを代表するチーズと言えるでしょう。

<チーズの成り立ちをもっと良く知ろう>

『原産地呼称管理法』APPELLATION D’ORTIGINE CONTROREE、のシステムをご存知でしょうか。

ある土地の、歴史と伝統から生み出されて来た特産物の、製品としての価値とその信用性を守る為に、生産地名をその製品名として名乗る権利を法的に擁護し、ほかの類似品にその名前を名乗らせない様に、規制する法律です。頭文字を取って<AOC>と表記されます。

特に、土地の固有性が製品の個性に大きく左右する農作物に多く使われ、代表的な物が、ワインとチーズです。

例えば、シャンパーニュ地方の法的規制された限定地域内で、土地特有の石灰質の土壌と気候との元で育った、特定種の葡萄を原料に、伝来の厳密なプロセスで製造された発泡酒のみが、シャンパーニュ(シャンパン)と名乗る事が出来るのです。

生産コストが安い(!)というだけで、韓国で作らせた紬織りを『大島紬』と大書して販売する日本の現状は、それを生み出し育んで来た奄美大島と、土地の人々と、その歴史への冒涜と言えるでしょう。

『大島紬』とは、奄美に生きる人々が代々伝わる手法により、土地の原料だけを使用して製造した特産物で、今の日本の流通業のやり方は、奄美が歴史と島民の生き方が生み出した『知的財産』の侵害であり、経済的被害どころか、その土地の否定に繋がることになりかねません。

A.O.Cのチーズも同じです。

チーズは元来各農家で、親父から教わったやり方で、細々と作っていた換金作物でした。
各村や町はおろか、各農家ごとに独自に(自分勝手に?)作り、色、形、味、香りそれぞれに異なっていたはずの物だったのです。
現代のような「細菌学」も「発酵学」も存在せず、バクテリアによるタンパク質の分解プロセスも知らず、ただ経験とカンと習慣とその家の言い伝え、だけで作られていたのです。
市場での売れ行きが良く、人気があっても、その村と周辺だけの消費にとどまっている程度の産物でした。


<カマンベールの成り立ちは意外な事に・・・>

技術や知識の社会的蓄積や、流通等が発達していなかった時代において、技術革新に励み、そのノウハウの蓄積がなされていた唯一の場所は、修道院でした。
葡萄栽培や、発酵プロセスの技術の発展も、広大な領地を有するそれらの修道院の管理下に有りました。

そこへ革命が勃発します。

特権階級の特権の廃止、修道院の領地の細分化と競売が行われ、農村は一挙に農奴制から自作農制へと移行し、同時に彼らの特権であった「知識」も流出して行きます。

ワイン生産技術もそのうちの一つで、一気に国内に広がり、同分野でのフランスの他のヨーロッパ諸国に対する優位性が確率するに至った訳です。

チーズも、その例に漏れませんでした。

シャンパーニュとブルゴーニュの境にほど近い町『モー』のある修道僧が数人、僧院を追われて逃避行のさなか、ノルマディーの小さな町ヴィムーティエで途方に暮れているところを、マリー某という町娘に献身的に匿われました。
修道僧は、親切のお礼に、モーの修道院秘伝のチーズ、ブリーの製法のノーハウを、マリーに残します。

彼女は数年後、近くのカマンベール村の農家「アレル家」に、そのチーズ造りのノーハウとともに嫁ぎます。
そう、これがカマンベール・チーズの生みの親、マリー・アレルの物語です。

その孫娘が、鉄道の開通式に臨席した皇帝ナポレオン3世に、アレル家自慢のチーズを献上し絶賛を浴びます。
時の権力者の賞賛を得た事と、産業革命のシンボルである鉄道の誕生とそれによる流通の拡大という、まさに時代の波に乗って、カマンベールはナショナル・ブランドにのし上がって行きます。

前述のA.O.C.の法律にのっとって、<CAMANBERT DE NORMANDIE>と表示して出荷出来るカマンベールは、以下の説明にある行程を経て、特定の地域で生産されます。
ただこのチーズは、同法律が制定されるよりずっと以前に全国的に有名になり、大メーカーが各地で工場生産していたため、ノルマンディー圏外での生産とその販売の中止を求める事が不可能でした。そこで、一般的な加工品は<CAMANBERT>とだけ名乗る事は認められたのでした。

A.O.C.の権利を有する生産者は、所在地により指定されており、それ以外の生産者は、ノルマンディー内で意欲的に丁寧に手作りしても<CAMANBERT DE NORMANDIE>とは名付けられません。そういう生産者達は、<CAMANBERT FERMIER (農場製)>と銘打って出荷している現状も、知っておくべきかもしれません。

ちなみに現在、カマンベール村は人口わずか200人、牛の数のほうが確実に多い、眠った様な静かな村です。
その名称が村の名前に由来するこの有名なチーズを、実際に造っている生産者は、しかしながら村にただ一人。
まだ40代の、フランソワ・デュランさんは、この静かな土地がすっかり気に入り、住み着いてチーズ造りを始める様になって、まだ10年余。しかし、伝統の製法を厳格に守り、徹底したこだわりのもとに製造しています。
生産量に限りが有るためなかなかお目にかかれませんが、
<CAMANBERT DE NORMANDIE FABRIQUE AU VILLAGE DE CAMANBERT > FRNACOIS DURAND
(カマンベール村内生産のカマンベール・ド・ノルマンディー)フランソワ・デュラン
という堂々とした金色のラベルには、彼の誇りが伺えます。勿論マリーの肖像も!
口に含むと、濃厚なミルクの味わいが広がり、飲み込んだ後までも尾を引き、そのコクに思わず微笑みがこぼれる事請け合いです。

なおヴィムーティエの町にはカマンベール博物館があり、昔ながらの道具類が展示され、製造過程が分かりやすく説明されています。また、世界中で造られているカマンベール(!)のラベルのコレクションも必見です。
町役場の前の広場には、青銅の「牛」の彫刻が堂々と立っており、かのマリー・アレルがその横で静かに微笑み佇んでいます。



<<カマンベールの出来るまで>>

チーズと一口に言っても、実に様々なタイプが有ります。

まず、原料別に4種類に分かれます。

1)牛のミルク (ヴァッシュ)
2)ヤギのミルク (シェーブル)
3)羊のミルク (ブルビ)
4)それらの混合
イタリアのモッツアレーラは本来水牛のミルクで造りますが、これは1)のヴァリエーションです。

次にミルク自体の違い。

ア) しぼったままの、無殺菌状態の元乳で造るタイプ (LAIT CRU)
イ) 低温殺菌(60~70度)で殺菌したミルクのタイプ (LAIT PASTEURISE)
ウ) 脂肪分(生クリーム)を取った後や、別のチーズを造った後の絞り汁の、
脂肪分の薄い液で造るタイプ (PETIT LAIT)

当然、ア)が一番おいしい。ところが、この製法を、EU委員会は禁止しようとしている!
高温殺菌(120度!!)の長期保存用の工業製品ミルクを使わせようとしているのだ。それだと、大量生産の工場製チーズと一緒くたになってしまう。

美食大国フランスの文化が、たいしたチーズを造っていないEUの他の国々のやり方に、飲み込まれてしまうかも。。。(どこの世界でも、官僚の想像力の無さには情けなさを通り越して、ただただ悲しくなるのみ。。。)

最後に、熟成方法の違い。

あ) 造って直ぐ食用になるタイプ。いわゆる英語圏で<カッテージ・チーズ>と呼ばれるものがそのタイプです。
フランス産ですと、フロマージュ・フレ(FROMAGE FRAIS)と呼ばれます。
リヨンの周辺では、『フィッセル』と呼ばれて、刻んだアサツキを添えて供されたりします。
い) 表面にカビを付けて、短期間(数日~数週間)熟成させるタイプ。柔らかいのが特徴です。(テンダー・タイプ)
う) 熟成期間中、アルコール(コニャックやカルバドス等産地によります)で何度か表面を拭いて、カビの状態を促進させる   タイプ( ウオッシュ・タイプ・チーズ)
  ノルマンディー産なら「リヴァロー」等。
え) 長期熟成(1年~数年間)させるタイプ。山岳地法に多い製法です。一般的に大型で、固い、ハード・タイプ。
  トムとジェリーのジェリーがだいすきな、穴ぼこだらけのチーズ(多分グリュイエールですね)はこのタイプになります。

カマンベール・チーズは、分類すると、無殺菌生牛乳で数週間熟成のテンダー・タイプにあたります。

生産農家の一日のプロセスは、次の通りです。

1) 早朝6時頃からミルクを暖める作業で、一日が始まります。前の晩に搾乳し、12度Cで保存したミルクを32度まで暖め  て、乳酸菌を加えると発酵が始まります。
2) 遠心分離機で乳脂肪分を20%取り除きます。
3) 仔牛の第四胃から採集した凝乳酵素を添加します。
4) 100リットル入りの容器内で凝固した状態(カード)に、薄いジュラルミンのへらで縦横に切れ目を入れます。
5) 直径11,5cm 高さ13cmの筒に、大振りのおたまで一掬いづつ入れて行きます。
6) 1~2時間置きに、同じ作業を3~4回繰り返すと、筒が一杯になります。
7) その間、水分(脂肪分の抜けた薄いミルク)が少しづつ抜けて行きます。さらにその筒を上下ひっくり返します。
8) ひっくり返す事5回、最後のお玉一杯を入れて1~2時間後、筒からはずす頃には既に夜の8時を廻っています。
9) 最後に塩を振り、カビを付け(ペニシリンの一種の白カビです)、3週間以上熟成させます。
  その間も、温度管、風の通し方、ひっくり返すタイッミングのはかり方等々、かかる手間ひまは膨大です。

熟成完了後、紙でくるみ、経木の丸い箱にいれると、おなじみ『カマンベール』チーズの誕生です!

さあ、心して頂きましょう。一杯の赤ワインとともに。

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