晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

陽はまた昇る…謹んで初春のお慶びを申し上げます。

2018-01-02 11:34:43 | 四季の風景

セーヌ川越にルーブル宮の上に朝日を望む



年頭に思うこと。



平和に生きたい。

平和に生きられる社会にしたい。

平和に生きられる社会を維持する、そんな社会が欲しい。


家族を慈しみ、家族の属する社会を慈しみ、家族の属する社会を含み世界のあらゆる人々を慈しむ、そんな世の中が欲しい。

過不足なく食事ができ、等しく子を育て、出自にかかわらず安寧な一生を送られる、そんな社会が欲しい。



日は昇り、日は沈む。

新年の初日の出は、新年の初日没を迎え、行く朝には同じ太陽がまた昇る。

今日がダメなら、明日。

明日がダメなら明後日。

明後日もダメなら、その次の日には。

みんな揃って、胸を張って、新しい日の出を迎えよう。

胸を張って。

自信に満ちて。

新しい日を迎えよう。



そんな明日が、今年こそは訪れてくれるよう、それに向かって準備をしたい。

平和と情愛に満ちた、階層差のない日本と言う国を、この目で見たい。



年を改めて、痛切にそう感じる、そんな新年であった。




コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は、世界で最も過酷で最も名高い自転車ロードレース『トウール・ド・フランス』の最終日だった。

2017-07-23 20:50:06 | 四季の風景



夕方散歩をしていて、セーヌの河岸に出ると道路が封鎖(車に)してあった。

こんな時間から今日はなんだったか、と考えてたら『トウール・ド・フランス』の最終日だった事を思い出した。

早速スマホで検索してみると、パリ郊外の街を16時50分にスタートしてパリに向かっている事がわかった。

あと一時間も待ってたら来る!

長らくパリに暮らしているが、トウール・ド・フランスを間近で見た経験は一度もなかった。

当然、待ちましたよ。



待つこと小一時間。

時折プレスの車がやってくるのだが、本体のくる気配は依然としてない。

そして、やっと「白バイ」が近づいてきたのでカメラを向けたら、オートバイ警官の前を自転車が2台通り過ぎた。







先頭集団にしては静かだし、どうやらペースメーカーだったのか。。

その後、いきなり頭の上に轟音が聞こえ、周囲から歓声が。

見上げてみると、フランス空軍アクロバット部隊の、トリコロール飛行編隊が上方を通過中。










その後も、数分おきにオートバイ警官やプレスのバイク、車が通るが事態は変わらず。







で。

やっと。

これまでとは雰囲気の違う(感じるのですねこれが)オートバイ警官。

これで、そろそろ本当にやってきそうな機体が膨らむ。

しかし、前方では観客がルートの中に佇んで待ちわびていたり。

平気でルートを横断して両側を移動したり。

車のラリーでもそうですが、そのようなことは公道ラリーにおいて警備当局の規制対象ではないらしい。

実際にトウール・ド・フランスで応援中の観客と選手が接触して選手が転倒し、後続選手が巻き込まれて多重事故が起こることもあるのです。。







これまでに通らなかったタイプの警備車がやってきた。

いよいよ。







来たあー!




ここからは、実は「あっという間」なのですが。

ちなみに黄色いジャージー(マイヨー・ジョーヌ)の選手が、全行程の通算トップタイムの選手で『マイヨー・ジョーヌ』と呼ばれます。

今日は最終日なので、総合優勝する可能性が大きい選手です。

毎日、ニュースで区間表彰式の報道がなされ、ヒーローなのです。














後で写真を見て分かったのですが、この「マイヨー・ジョーヌ」の奴め、並走中の選手とおしゃべりしてる!!
























160名ほどの選手が通り過ぎるのはあっという間だと急に思い出して、あわててカメラの向きを変える。










ああ、行っちゃった。

また向きをかえて、追走する応援車両を撮ろうとおもったら。

最後尾の選手らしき姿が。







しかも、並走するプレスのオートバイの後部座席にしがみついたカメラマンが、片手でウエッブカメラかなんか突き出して、撮影してた。






あとは、追走車両の集団。







全国を走り回っている間は、パンクしたり転倒してフレームがひん曲がったりした時に取り替える「代替え自転車」を屋根の上にたくさん積んで走っていたはずだが。

さすが最終日。

もう代替え車両を積んだ車は少なかった。



と、いうわけで。

先頭集団が見えてから、通り過ぎるまで、わずか2分くらいか。



ちなみに、このトウール・ド・フランスは、毎年コースが変わります。

フランス国内が原則ですが、近年スタート地点は周辺の国であることが多い。

今年はドイツのデュッセルドルフを7月1日にスタートした。



ここからの画像は『トウール・ド・フランス大会本部』のHPより、お借りしました。


  
  photo : La Tour de France Official Site



 全行程18区間を、休息日と移動日をいれて22日間で駆け抜ける。

毎年必ず「アルプス」と「ピレネー」の山岳コースが含まれ、その際は高低差1000メートルなんてのもザラ。


途中何箇所か、都市部で街路を何周かする「スプリント区間」が含まれ、空路の移動日もある。

最終区間は、必ず近郊の町からパリに入って、シャンゼリゼを周回する。



  
  photo by Tour de France Official Site



今年の最後は、今日22日。

パリ南東部のモンジュロンを16時50分にスタートしてパリの環状道路に南から入り、時計回りに5kmほど走って、パリの南西の角のセーヌがパリを出るところから市内に入り、川岸を通って「グラン・パレ」と「プティ・パレ」の間を通ってシャンゼリゼにはいり、凱旋門とコンコルド広場を7周。

走行距離104kmで争われた。



  
  photo by Tour de France Official Site


  
  photo by Tour de France Official Site


  
  photo by Tour de France Official Site


  
  photo by Tour de France Official site


  
  photo by Tour de France Official Site




   
   photo by Tour de France Official Site



そして、今年の総合優勝はイギリスのクリス・フルーメ。
なんと彼にとって、トウール・ド・フランス4回目の制覇となった。



    
    photo by Le Monde

チームの同僚選手と「肩を組んで」のゴール。




そして、今日の区間優勝は、オランダ選手グローネンヴェルゲンが獲得。



    
    photo by Le Monde



チームで参加し、そのチームのエースを勝たせるためにチームメイトが交代で前走して風を受けたり、他のチームの選手をけん制したり、かなり高度な作戦がとられるらしい。

栄誉としては、まず『総合優勝』
そして『区間賞』と『ポイント賞』と『最優秀若手選手賞』などがある。


前日までの通算最高タイムの選手が『マイヨー・ジョーヌ(イエロー・ジャージ)』を着用し、もし通算記録の選手が変わることがあれば、その日の区間優勝者の表彰時にマイヨー・ジョーヌを引き渡す儀式がある。

特定区間で行われるスプリント(いわば短距離計測走)での勝者『スプリント賞』は、白地に赤の水玉のマイヨーを受け取り、次のスプリント区間まで着用する。

さらに、各区間でポイントも決められており、通算ポイント最多選手はグリーンのジャージ『マイヨー・ヴェール』を着用。

若手優秀選手はホワイト・ジャージ『マイヨー・ブラン』を着用。


今年の総合優勝のフルーメは、総合タイム86時間20分55秒で、2位と「54秒」差であった。





普仏戦争後、1870年の新体制となったフランス『第三共和制』の末期、第二次大戦前夜の混乱期には、政権が頻繁に変わり短命の大統領が続いた。

その頃フランスでは、その年のトウール・ド・フランスの優勝者の方が、大統領よりはるかに知名度が高い、とさえ言われたくらいで、フランス人にとってかけがえの無い大きなスポーツ・イヴェントなのです。




これで、7月14日『革命記念日』の花火大会と並んで、恒例の夏の風物詩が終わった。。。




   




コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【フォトの旅】パリのバガテル公園を訪れよう。 今や<バラ園>は百花繚乱。

2014-08-01 23:14:16 | 四季の風景
パリの西に隣接する『ブーローニュの森』は、840ヘクタール。


  
  左端のグリーンの部分が「ブーローニュの森」



競馬場が二つ、高級レストラン四件、船遊び出来る池、そしてお嬢さん達多数が点在する。

その一角が『バガテル公園』である。

ここは、かっての『シャトー・ド・バガテル』の敷地である。


  
  バガテル城


ここは、ルイ16世当時、王弟アルトワ伯の離宮の一つであった。

『アルトワ伯の狂気の沙汰』と呼ばれた。

なぜなら。
森の中の敷地を購入した伯爵は、王妃マリー=アントワネットと賭けをする。

「シャトーがどれだけの短時間で建造出来るか?」


伯爵は、4百万ルイ・ドール(ルイ16世金貨)を費やし、65日間で造営させてしまった。

伯爵が、幾らの掛け金を得たのか、定かでは無い…。




ブーローニュの森の中程、「栄誉の門」がある。


  
  栄誉の門


正しく門衛の詰め所であった瀟洒な建物で、入場料を払う。


  


敷地の中は、別世界。

森閑とした茂みを抜けて行くと、広々とした「英国式庭園」が眼前に広がる。

遥かに、パリの西の郊外に造営されている新都心『ラ・デファンス』地区の高層ビルが、とても不思議な光景に見える。


  
  新都心を望む


芝生の広がる所々に茂みがあり、池がある。

ヨーロッパでは珍しい緋鯉が居た。


  
  池の緋鯉



滝も有る。





オリエント趣味の東屋も。


  





バガテル城は、不定期に行われる展示会等に利用されている。


  
  バガテル城の別館


その横手に、花壇と菜園に至る門がある。



  



傍らには、可憐な花の咲く花壇が。


  



そして、その門を抜けると、そこは花壇が伸びて、各種類毎の花々が植えられていた。


  


  


   


  


  



反対側に、庭師頭の住居であった家が。


  


壁の前には、鉢植えが並べられている。


  


その家の反対側は、菜園。

野菜やハーブが植えられている。


  


  



そこを抜けると、オランジュリーが見えて来る。

17世紀以来、宮廷での催し物の折りに、オレンジやレモンの鉢植えをギャラリーに並べて飾る事が流行した。

勿論ヴェルサイユ宮から始まった習慣である。

鉢の高さだけで1メートル、オレンジの木が2メートル程の鉢植えは、冬の間温室に保存された。

その温室を「オランジュリー」と呼ぶ。

ちなみに、パリのルーヴル宮の敷地に隣接して存在した「チュイルリー宮」のオランジュリーを使っている美術館が『オランジュリー美術館』である。



  
  バガテル城のオランジュリー


  


その前面に、夏の間鉢植えを並べる庭園を「オレンジ庭園」というが、そこが『バラ園』になっている。


  
  薔薇の植え込みから見るオランジュリー



当時の「オレンジ庭園」の広さを拡張して、広々としたバラ園が広がる。


  


  


  


  
  

  



具体的に見てみよう。



  
  「Tenor テノール」


  
  「New Dawn 新しき夜明け」


  
  「Palais Royal パレ・ロワイヤル」


  
  「American Pilar (意味不明)」


  
  「Dantelle de Malines マリーヌのレース」


   
  「La Vanoise ラ・ヴァノワーズ」


  
  「Paul Scarlet Climber ポール・緋の上昇」(1918年度金賞)


  
  「New Rembler ニュー・レンブラー」


  
  「Jasmina ジャスミナ」


  
  「Golden Gate ゴールデン・ゲート」


  
  「Tradition 95 トラディション95」


  
  「The Prince's Trust 大公の信頼」


  
  「Jean-Pierre Foucault ジャン=ピエール・フーコー」


   
  「Sir John Benjamen ジョン・ベンジャミン卿」


  
  「Planten en Bloemen ブラーメンの植物」


  
  「Generation jardin 庭園の世代」


  
  「Leonald da Vinci レオナルド・ダ・ヴィンチ」


  
  「Prince jardinier 庭園の貴公子」


  
  「Anny Duperey アニー・デュプレー」


  
  「Guirlande d'Amour 愛の花鎖」


  
  「Purple Eden 紫の楽園」


  
  「Apache アパッチ」


  
  「Sweet Love 甘い愛情」


  
  「Michelangero ミケランジェロ」


  
  「Anadia アナディア」


  
  「Mythique 神話の世界」


  
  「Kosmos コスモス」


  
  「Festrose 薔薇の祭典」


  
  「Ville de Backnang バックナンの町」


  
  「John Walfgang von Goethe ジョン・ヲルフガング・フォン・ゲーテ」


  
  「Orientallia オリエンタリア」


  
  「lion's Rose 獅子の薔薇」


  
  「Liane Foly リアンヌ・フォリー」


  
  「Pomponella ポンポネッラ」


  
  「Carte Blanche 白紙委任」



所で、ここ「バガテル公園バラ園」では、20世紀初頭から、毎年品評会が行われて来た。

欧米のバラ造り師たちが、新作を出展してその出来を競って来たのです。

今年も、数多くのバラ作り師達の「まな娘」が出品されています。



  
  「出品番号86」


  
  「出品番号82」


  
  「出品番号81」


  
  「出品番号32」


  
  「出品番号35」


90点程の新作が、その艶やかさを競っていた。

果たして『金賞』に輝くのは誰の苦心の作なのだろう。



  


  


  




この庭園を散策していると、甲高い鳴き声がよく聞こえて来る。

広大な庭園を自由に闊歩している孔雀が、メスを呼んでいるのだ。



  
  茂みの中にいた孔雀



樹上から、けたたましく啼き続ける。


  
  



この「バガテル公園」には、かっての厩舎だった建物を利用して、レストランもある。


  
  

食事時間以外は、お茶する事も可。


パリの西端「Porte Maillot ポルト・マイヨー」からブーローニュの森を縦断している路線バスが、一本だけ有るのでそれを利用するしか、他に公共交通機関が無いのが少し不便ですが、タクシーを使ってでも、是非訪れたい所です。

但し「バラ園」は、当然バラの時期しか薔薇を見る事は出来ません。




※この記事は、6月16日に訪れた際に撮影した写真を使って、7月14日に書いたのですが、書き上げた直後にキーのタッチミスで全文消失し、本日思い出しながら書き直したものです。
バックアップ機能が作動して居らず、文章は余り思い出せないので、前半の「バガテル城」に関する記述が減って、ほとんど写真ばかりになってしまいました。  

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【ちょっと一服】懐かしい名前を見つけた。生臭くもきな臭い話を中断し、アラン・ドロンとの青春の日々を…

2012-04-04 23:49:35 | 四季の風景
▶ドロンさん、不整脈で手術=仏(時事/見出し)

>【パリ時事】往年のスターとして知られるフランスの俳優アラン・ドロンさん(76)が体調不良を訴え、パリ郊外の病院で4日、不整脈の手術を受けた。手術は短時間で終わり、5日には退院できる見通しという。
 ドロンさんは2週間ほど前からめまいや吐き気などを覚えていた。検査したところ不整脈が見つかったという。
【時事通信/4月4日(水)22時50分配信】



いやあ~。

『アラン・ドロン』

この名前を見た途端、時計が逆回りをしてしまった。


花も恥じらう(?)高校二年生。

願を立てた。

「一年間で、映画を百本見る!」


観ましたねえ。

私らの時代は、高校生が一人で映画館に行くなんざ、バレたらエラい事でありました。

ただ、私の通った高校は「生徒をジェントルマンに育てる」事が<校是>であり、生徒を完全に大人扱いしてくれていた。

決して「勧められている」訳では無いが、校則に「喫茶店に行く事禁止」やら「映画館禁止」等どこにも書かれていなかった。

全国殆どが、丸坊主であった時代に、野球部ですら「長髪」で平気だった。

てな訳で、毎週毎週「名画座」に通い詰めたものです。


で。

「名画座」で見た「イスラエル建国秘話」の映画に、若き『ナタリー・ウッド』を見た。

スクリーンにはみ出す超アップの彼女の顔が、3分間くらい映し出されて、何処にも欠点が見えてこない、完璧な美しさだった事に、非常に驚いたものでした。

どんな「美女」でも、顔をアップで見続けると、どこか欠点が見えて来る。

目と目との間隔。
表情の微妙な筋肉の動き。
耳の形。
生え際の線。
息するときの変化。
頬骨の高さ。




その時の「ナタリー・ウッド」は、巨大なアップで何時までもスクリーン上にあって、何も不完全な、アンバランスな、過不足もなく、完璧に美しかった。

後の時代の、あの「ケバさ」など、微塵も感じられなかったのです。


それはさておき。

「地下」の映画館(名画座なんて大体地下です)で観た『地下室のメロディー』には、度肝を抜かれました。


随分後になって分った「カンヌ」の『パーム・ビーチ』なんて変な名前の海岸に絶つ<カジノ>が舞台でした。

『ジャン・ギャバン』なんて名前も知らなかったし、「フィルム・ノワール」なんてジャンルも知らなかった。

しかし、未熟な若者の頭で、傑作だと思いましたね。

ギャバンの「醜さ」は、俳優としてかなりショックだった。

そして、『アラン・ドロン』という役者の、美しかった事。

ストーリー展開も「裏の世界」の内情が興味深かったことや、ドロンがカジノの天井の「エアー・ダクト」を這いずって進入するアクション、緻密に計算された「元大泥棒(ギャバン)」の計画の素晴らしさ、など時の経つのも忘れて魅入ってしまいました。

そして、最後の大ドンデン返し。

虚脱感で、終わった後も席をたてなかった。



それで、『アラン・ドロン』に嵌ってしまいました。

目についた彼の出演作は、片っ端から観た。

大人になってからもずっと。


振り返ってみると、思い出すだけでもざっと…43本!


お嬢さん、お手やわらかに! - Faibles Femmes (1959) *
太陽がいっぱい - Plein soleil (1960)
生きる歓び - Che gioia vivere (1961) *
素晴らしき恋人たち Amours célèbres (1961)
太陽はひとりぼっち - L'Eclisse (1962)
フランス式十戒 Le Diable et les dix commandements (1962)
地下室のメロディー - Mélodie en sous-sol (1963)
山猫 Il Gattopardo (1963)
黒いチューリップ - La Tulipe noire (1964)
危険がいっぱい Les Félins (1964)
黄色いロールス・ロイス - The Yellow Rolls-Royce (1964)
名誉と栄光のためでなく Lost Command (1966)
テキサス Texas Across the River (1966) *
パリは燃えているか - Paris brûle-t-il? (1966)
冒険者たち - Les Aventuriers (1967)
サムライ Le Samouraï (1968)
悪魔のようなあなた Diaboliquement vôtre (1967) *
さらば友よ - Adieu l'ami (1968)
あの胸にもういちど - The Girl on a Motorcycle (1968)
太陽が知っている - La Piscine (1968) *
シシリアン Le Clan des Siciliens (1969)
ボルサリーノ Borsalino (1970)
仁義 - Le Cercle Rouge (1970)
もういちど愛して Doucement les Basses (1971)
レッド・サン - Soleil Rouge (1971)
高校教師 La Prima notte di quiete (1972) *
暗殺者のメロディ The Assassination of Trotsky (1972) *
リスボン特急 - Un flic (1972)
ショック療法 Traitement de choc (1972)
スコルピオ Scorpio (1973)
暗黒街のふたり Deux hommes dans la ville (1973)
個人生活 La Race des 'seigneurs' (1974) *
愛人関係 Les Seins de glace (1974) *
アラン・ドロンのゾロ - Zorro (1975)
フリック・ストーリー - Flic Story (1975)
ル・ジタン - Le Gitan (1975)
パリの灯は遠く - Monsieur Klein (1976) *
ブーメランのように Comme un boomerang (1976)
プレステージ L'Homme pressé (1977)
友よ静かに死ね - Le Gang (1977)
エアポート'80 The Concorde ... Airport '79 (1979) *
危険なささやき Pour la peau d'un flic (1981) *
カサノヴァ最後の恋 Le Retour de Casanova (1992) *

「*」印は、テレビで。


中でも、私の中でベストスリーはと言えば…。

『地下室のメロディー』
『太陽がいっぱい』
『あの胸にもう一度』

番外。

『黒いチューリップ』


あたりでしょうか。

特に『あの胸にもう一度』は、素晴らしい出来だった。

新婚の若い女性が、夫の不在中に、前から続いている不倫相手(ドロン)との逢瀬の帰り道、オートバイで田舎の街道をひた走って、夫が帰宅する前に帰り着こうと疾走して、事故死するまでの、ほんのひとときのストーリー。

真っ暗な街道の、大型バイクに打ち跨がり、整然と続く並木をヘッドライトで照らしながら、木のトンネルの中を疾駆する、黒い皮のオールインワンに身を包む女性の「体の線」の色っぽかった事。

フランスに来て分った、地方の街道の並木道の、バランスの取れた美しい様子。
街灯など無いため、夜は真っ暗。

走るバイクの轟音と振動。

その間に、僅か一時間前まで続いた、フラッシュバックで繰り返し再現される、めくるめく愛の交歓の様子を思い出すシーンが、の激しさ。

まるで、自分が女性になって、愛しい男の体で深海の海底へ連れ込まれ、次の瞬間大空に打ち上げられて太陽に焼かれ、又また大海原を沈んで行く、それの繰り返しのような、尽きぬ快感の嵐を実際に、からでで感じている様な、生々しさ。

次の瞬間、余韻に火照るからだと、意識が現実に戻っていない頭とで、漆黒の闇を切り裂きながらバイクで疾走する心地よさ。

又また甦る、快楽の嵐。

その繰り返し。

時間が遡って、二人の出会い。

数々の逢瀬の情景。

感情の激突と、その後の体の快楽の歴史。

その間の、他の男とのん結婚。

ドロンとの関係を断ち切れない未練。


それが、交互にフラッしバックで疾走シーンに挟み込まれて、突然激突して終わる。

新婚の「夫がプレゼントした」オートバイでの事故。。。


それだけの構成なのですが。

銀幕から受ける視覚的作用が、実際の体感と錯覚させられ、自分の五感が研ぎ澄まされる、一時間半だったのです。


『黒いチューリップ』
『山猫』

これも、もエキゾティックだった。

シチリアという、特殊な風土と歴史。

19世紀、北の勢力「サヴォイア王家」によるイタリア統一の動きの中での、地方貴族の「独立」を守りたい自負と、逆らえない歴史の流れの中での、身の振り方の選択への苦悩。


『黄色いロールスロイス』も面白かった。

能天気なコメディーの中で、黄色く輝く『ロールス・ロイス・シルバー・ゴースト』のかっこよさに目を奪われた。

考えてみると、私がクラッシックカー好きになる、原点で有ったのだろう。


『レッド・サン』

三船の侍の凛々しさ。

アメリカ人の悪漢ガンマン(チャールズ・ブロンソン)を追う、欧州の貴族出身の同僚(ドロン)との不思議な協力関係から生まれる友情。

監督が<007シリーズ>の『テレンス・ヤング』
音楽が<ドクトル・ジバゴ>の『モーリス・ジャール』

スパイ・アクション全盛の時期に、廃り切っていた「西部劇」を、日本の侍を主人公に作る、という途方も無い無茶をやった、プロデューサー『テッド・リッチモンド』に感謝な作品。


『パリは燃えているか』

これは、映画ファンならずとも、ヨーロッパに於ける第二次大戦終盤の、対ナチの社会の様子を正確に伝える必見の佳作。

米仏合作のオールスター大作です。

監督が『ルネ・クレマン』!
共同脚本の片方が『コッポラ』!

出演者が、ドロンの他にも、これ以上無い豪華な布陣。

カーク・ダグラス
グレン・フォード
ゲルト・フレーベ
イヴ・モンタン
ジャン=ポール・ベルモンド
ロバート・スタック

どうだ! てなもんです。

1944年6月6日、「連合国軍」による『ノルマンディー上陸作戦』の後、フランスの抵抗組織「レジスタンス」がパリを解放するまでの秘話。

パリのレジスタンスの重用な部分に「学生レジスタンス」が有りました。

各地のレジスタンス組織と密かに連絡を取りながら、パリ・学生レジスタンスが、「フランス救国臨時政府」を形成して、首相府「マティヨン宮」に向かった時。

ナチの手で接収され、閉鎖されていた「マティニヨン宮」の警備に当たっていた警官が、近づいて来る若者を追い払おうとした時の、彼の台詞。

「こら、ここは立ち入り禁止だ。近づくな。立ち去れ!」(警官)
「マティニヨン宮を受け取りに来ました」(若者)
「しゅ、首相閣下…。」

と、警官は直ちに門を開けて、挙手の礼と共に、恭しく彼を中に導き入れます。

フランスでは、首相が任命されて「首相府」に始めて登庁する時の決まりの台詞が「マティニヨン宮を受け取りに来ました」と言うのです。

このシーンでは、胸がジーンとして目頭が熱くなった。

警官達は、自国がナチに占領されて、占領軍の命令に従わさせられて、自分達の首相府をナチの為に警備していた時、「自分達の抵抗政府」が組織された事を、瞬時に理解したのです。

学生と言えども、自分達の首相、と首相府付き警察官としての栄誉礼で迎えたのです。


最後、ベルリンが陥落しかかっている時、ヒトラーがパリ占領司令官に電話して、パリの爆破命令が実行されているかを、確認するシーン。

「おい! パリは燃えて居るか? パリは燃えているか?」

パリの魅力に捕われていた「占領軍司令官デートリッヒ・フォン・コルティッツ将軍」は、もともとナチでは無い『国防軍』出身でもあり、ヒトラーのパリ破壊命令を無視します。


ドロンは、将来の首相となる、有名な政治家「シャバン=デルマス」の若き姿、レジスタンス軍大佐で登場。



それにしても、1960年代から80年代頃まで、映画スターと言えばアラン・ドロンの右に出る物は居なかった、と言えるくらいの人気でした。

彼が始めて『カンヌ映画祭』で<誰か>の目に留まろうとカンヌに出て来て、ハリウッドのエージェントの目にとまったときの、テレビのニュースに映った彼の「美しさ」は、尋常な物では無かった。

世の中に、こんなに美しい男が居た!

大騒ぎになったのも、むべなるかなでした。


もともと、出生にコンプレックスが有り、人嫌い、特に女性不信になってしまった彼は、ひと際扱いにくいスターでした。

後に彼と口をきく事になろうとは、夢にも思ってもみなかったけれど、会ってみると気難しく、写真もフィルムも、自分で決めているアングル以外一切認めようとしない、そう言う意味で「可能性を狭くして」居たのかもしれません。

しかし、そんな些細な事など超越した、大スターであった事は確かです。

『私に出来る事は俳優と、子供を作る事だけ』

なんて、冗談を言ってました。



彼が尊敬した日本人は、ただ二人。

黒澤明。
三船敏郎。


私にお金があったら、映画から引退を宣言した彼を引きづり出して、『地下室にメロディー、30年後』というのを製作したかった。

「男と女」の『25年後』という作品が作られた様に。


引退していても、黒沢サンが出て来てくれれば、彼は受けた筈。

日本人の「美しい」男の子を、若い頃のドロン役に見立て、功なり名を遂げて隠棲している、政財界の大立て者ドロンがギャバンの位置。

その彼に、有る計画を持ちかける。

勿論、現代に舞台を移す訳だから、「金融取引」かなんかの「ハイジャック」作戦。

コンピューターのハッキングかなんかで。

とぼけてしらを切るギャバンの位置のドロンに、過去の「栄光」を思い出させ、口説き落としてその気にさせる。

彼の作戦立案と指導とを受けて、日本人の若い男性が、突拍子も無い大作戦で「天文学的」金額をかすめ取る。

最後の最後で、予期せぬ手違いで、全部パーになる…。


本当にこんな映画を制作したいと、夢見て居りました。


その内、黒沢先生はお亡くなりになってしまう。

お金のメドは全く絶たない。

で、儚い夢のママで有りました。


私の「青春」は、映画の事だけで言えば『アラン・ドロン』と共に有りました。


付け加えるならば、高二の一年間で、105本の映画を観た事が、自慢です。

若い頃のドロンは、美しかった。

熟年になり、深みが加わって「本物」のいい男、になった。


彼の健康の事が話題になる事等、無かった気がする。

もっと、生きていて欲しい。

私の「思い出したくも無い暗い青春時代」の証人として。。。

コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーロッパの12月の宵は、『マルシェ・デュ・ノエル(クリスマス・バザール)』を散策して楽しむべし。

2010-12-19 21:19:41 | 四季の風景
最近は、日本でもおなじみになりつつ有る『マルシェ・デュ・ノエル』は、この時期の風物詩です。 (日本では「クリスマス・マーケット」と呼んでいる様ですね)  


シャンゼリゼ大通りのマルシェ・デュ・ノエル 


12月の第2週から始まって、毎日大勢の人々が訪れています。

そもそも、『クリスマス・バザール』の起源は、16世紀1570年に、フランスの「ストラスブール」と、ドイツの「ドレスデン」で始まったらしい。

元々「市」と言う物は、小規模な流通携帯しか無かった当時m地域経済に取って、唯一の広範囲な取引の場であり、「市をたてる」事が、その土地の名物にもなり得る事象であった。

近世までは、市をたてる事は「領主」の専権事項であり、その事が「領主の富」を約束すると同時に、地域経済を限定してしまう元凶であった。

その矛盾に気がついた織田信長が、『楽市楽座』を布告し、市をたてる事を自由化した事に依って、戦国時代日本の経済が発展したのでありました。

そんな、歴史的考察等はさておく事にしましょう。

近年、クリスマス・バザールが「観光振興」の一員と見なされる様になり、ヨーロッパの各都市、特に「発祥国」ドイツとフランスに於いて、広く親しまれる様になりました。

ここパリでも、トロカデロ、サン・ジェルマン・デ・プレ、サン・シュルピス教会前、ラ・デファンスその他かなり沢山開かれています。

その中で、一番の規模を誇るのが、<花の>シャンゼリゼ大通りでの物です。

全長800メートルに渡って、両側にずらりと並ぶ様は、壮観です。

およそ間口4メートルの屋台が、ずらりと並ぶ 


並べられている品物は、この時期に相応しい、クリスマス・デコレーションから始まって、各種ジュエリー、ハンド・クラフト製品、各地の物産、各国の名物、から初まって、各種の食べ物や、飲み物。

親子で、屋台を覗き込み、お土産をねだり、熱々のソーセージにかぶりつき、お父さんはホット・ワインで一息。

     聖画カード
     ウッド・クラフト


そんな中でも、クリスマス・バザール発祥の地の一つ、『ストラスブール』のお店は、アルザスならではの『蜂蜜パン』が、ハートやサンタクロースの形で、大小様々に並んでいます。

     

       
     曲げ物細工の花かご。                やはり何と言ってもサンタ帽子。


そして、やっぱり無くてはならない『マトリューシュカ人形』ですね。

         



それより、何より、そぞろ歩きながら欠かせないが「食べ物」の屋台。

いの一番に探すのが『vin chaud』(ヴァン・ショー/ホット・ワイン)屋さんです。

       
赤ワインに、シナモン、ナツメッグ、八角等の香辛料を入れて、蜂蜜を加えて暖めます。
寒い寒い冬空の下、湯気のたつ『ヴァン・ショー』のコップを、ふーふーして飲みながらそぞろ歩く醍醐味は、この時期ならでは。
元々、風邪に一押しの民間薬でありました。
まあ、「卵酒」のフランス版と言った所でしょうか。


歩いていて、とても面白い屋台を見つけました。

      ブロシェット(串焼き)屋さん。。。では無く。

     これ、全て「チョコレート」!
     素晴らしいセンスに、脱帽でした。



       
     夜店の定番「綿飴」

     
     冬のフランスは「焼き栗」


そして、ブルゴーニュ地方の物産の屋台が有りました。

      
     ブルゴーニュと言えば「エスカルゴ」

     
     それから「食用カエル」


コルシカの名産の店も有ります。

コルス島(コルシカ)は、地中海で3番目に大きな島ですが、南北300キロ、東西150キロ程しか有りません。
海からいきなり高山が起ち上がる「山国」なのです。
山中には、家畜の放し飼いのブタ、野生のイノシシ、その合いの子のイノブタの野生化した物と、家畜化したイノブタ、など多くの山の幸二恵まれて、ドライソーセージの類いが豊富です。

      
     各種ドライソーセージは絶品。

     
     ワインもチーズも豊富です


ユニークなお店発見。
サーモンを、直火で炙りながら食べさせてくれます。

      

     


それに何と、『キャビア』の屋台まで有った。

      

     
     紅茶の<サモワール>の横にはロシア美人。


そして、絶対に外せない、定番にして極めつけが「焼きソーセージ」の屋台でしょう。

     


どうです?
お腹のムシが、グウーグウー鳴いて来たのでは?


     
     ヌガーの店も、一ひねり。

でも、元来クリスマスは「救世主の御子」の生誕を祝うお祭りで有る事を忘れずに、はめを外しては、なりません。

   

本日12月19日のパリは、数日来の寒波で、午前中は雪が舞っていましたが、午後になると回復し、日差しすら見え隠れしていました。

シャンゼリゼのイリュミネーションも、寒空に輝いています。
ぜひ、一度お越し下さい。


コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネチアより、謹んで初春のお喜びを、申し上げます。

2010-01-07 21:19:30 | 四季の風景



明けまして、おめでとうございます。



今年は、故あって新年をヴェネチアで、迎えました。

例によっての<潮位の上昇>で、カウントダウンは長靴なくしては不可能な状態でした。
『サン・マルコ』広場は30センチ以上もの冠水状態にもかかわらず、人でぎっしりと埋まり<花火>を堪能しました。

しかし、寒いのと、海水面の上昇とは、<地球の温暖化>と、どう兼ね合いがとれるのだろう、と新春早々頭を悩ますスタートになってしまいました。


ことしも、相変わらず<グチ>と<怒り>とで、好き放題書き続ける羽目になりそうです。


どうか、ご愛読を、お願い申し上げます。
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1963年の皆既日食と、1999年のとを見たゾ!

2009-07-23 07:26:30 | 四季の風景
本日2009年7月22日に<皆既日食>は、残念ながら日本に居なかったため、見る事が出来なかった。。。


でも、前回の46年前のを、見ていました。

1963年、わたくしは、紅顔可憐(?)な小学生。

今と違って、皆<黒の下敷き>を買って準備したものでした。

私は、親に教わって<ガラス板>の表面をローソクの火(!)で舐めてススをつけて黒くしたもの、を使ってみた様な気がします。

その後、目を<患った>とか<失明した>とかと言う様なニュースは、無かったと思います。

当時の人々の方が、今の人間よりうんと<タフ>だったのかしらん?

その現象の<本当の価値>が解っていたとは到底思えないものの、学校が午前中で終わり、午後全員わくわくしてその時をそれぞれの場所で待っていたのでした。

その瞬間の事は、残念ながらあまり良く覚えていません。

ただ覚えている事は、一陣の風が吹いたような、なんだか<怪しげな>雰囲気に満たされて、自分がこの世の何処にも居ない様な、逆に自分は今どこに居るのか解らない様な、不思議な感覚だった様な気がします。

昼なのに暗く、しかし<夜>の暗さとは全然違う<不思議な暗さ>で包み込まれ、周りの<音>が一切無くなって、下半身がザワザワするような、なんとも言えない奇妙な感覚に包まれた様な、そんな記憶がよみがえって来ました。

再び姿を表した<太陽>がまるで<三日月>のように見えて、ふと足下に目をやると、今見上げていた<三日月型の太陽>と同じ形が、地面に沢山映し出されていました。

実はすぐ近くに木が生えていたのですが、頭上に延びた枝に繁る葉っぱの隙間を通して地面に届く光が、ことごとく三日月型をしていたのです。

その事に気がついた時、得も言えぬ感覚に捕われました。

なんて事を、実に46年ぶりに思い出したのですが、<その次の皆既日食>が今日だった、なんて全く知らなかった。


それから、わたしは<20世紀最後>の皆既日食も見る事が出来る幸運に恵まれました。

1999年8月11日。

午前の早い時間に、南イングランドで始まった<それ>は、英仏海峡を渡ってダンケルクあたりに上陸(!)し、パリより北側を移ろって東進し、シャンパーニュ地方からアルザス地方に進んで、ラインを渡ってドイツに抜けて行く、と言うコースであったと思います。

パリに住む者として、この千歳一隅のチャンスを逃してなるものか。

日本から招いた人をジュネーヴで待ち受け、アヌシー湖におもむき、アルザスに入って<日食>を拝んで、ブルゴーニュに抜ける旅、を思い立ったのでした。

アルザスといえば、西ローマ帝国が滅びて、フランク王国が出来て以来、その帰属がドイツとフランスとの綱引きにもてあそばれた、数奇な運命をくぐり抜けて来た所です。

一見ドイツ風。
でも、あのドイツの様な<そっけなさ>が無くて、どこか<艶っぽい>光景は、明らかにフランス。

     
そのアルザスの首都<ストラスブール>の旧市街『プティット・フランス』地区の艶姿は、<世界遺産>に登録されています。


私たちは、少しでも良い条件で<日食>を観測するべく、<高い所>をめざして、ストラスブール郊外の『サント・オディール山』に登りました。

その辺りが<神聖ローマ皇帝領>だった頃の、その辺りの城主のお姫様のロマンティックにして悲しい逸話に基づく、『聖女オディール』の為に建立された大修道院が、山の頂きを占め、その修道院のテラスに多くの人々が集まって、その瞬間を待ち受けました。

    
  『サント・オディール大修道院』の建物。          テラスに集う人々。

    
  テレビ・クルーも、親子連れも。


    
  10分前。そろそろ<異様な>雰囲気が漂い始めた。    結局<皆既日食>に全員大満足でした。



ただ<ダイヤモンド・リング>の瞬間は、写真に撮るより自分の目で見極めたかったので、あえて写さなかった。。。




興奮冷めやらぬまま下山した私たちは、やや遅めのお昼ご飯にありつきました。

    

  ストラスブールの<木梁>の家と、例えばコールマールや、その他数々のオモチャの様に美しい村々のそれぞれが、梁の組み合わせ方、色使い、みな違うのです。

そして<アルザス>といえば、発酵キャベツとソーセイジ類の盛り合わせ『シュークルート』が名物料理として有名です。
ドイツの<ザウアー・クラウト>と同じ言葉で、見た目も一緒ながら、その実態は全く別もの。
ドイツのそれより<遥かに>おいしい!

それから、日本ではほとんど知られていない(たぶん)名物料理に、この写真の『ベーコフ』があります。

かわいい絵付けの陶器のなべに、タマネギのスライス、ラム肉、ジャガイモのスライス、チキン、又タマネギと幾重にも層にして、アルザスの銘酒<リースリング>ワインをどかどか注いで、蓋をパン生地で目地を埋めて、オーブンで5時間蒸し焼きにするのです。

美味いのなんの!


        

ちなみに、ストラスブールの広場にたたずむこの銅像は、『グーテンベルグ』。

この町で過ごす間に<何やら>考えついて、出資者が得られなかった為にアルザスを去って、その直後アムステルダムで<活版印刷機>を稼働させる事に成功しました。

残念。


ストラスブールと、65キロ南のコールマールの間の葡萄畑に沿って、愛らしい村々が続き、『アルザス・ワイン街道』と呼ばれています。

イッテルスヴレール、ミッテルベルグハイム、リックヴィール、カイゼルスベール、リボーヴィレ等々、絵の様に美しい村の連続は、一度訪れると絶対に病み付きになるほどの魅力です。
        

サント・オディール山とは別の山の頂きにそびえる『オー・コーニグスブール城』の天守から見下ろすアルザス平野は、格別です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バレンタイン・デーは『聖ヴァランタン村』で過ごそう!

2009-02-14 06:04:37 | 四季の風景
今日2月14日は、ご存知<バレンタイン・デー>ですね。

ところで、フランスの中央部に、その名も『バレンタイン村』というのが有るのを、ご存知でしたか?

ヨーロッパの、特に古代ローマ文化圏においては、キリスト教の聖人の名前の市町村が多いのです。
人の名前もそうなのですが、古代ローマ帝国で公認され、国教となって、帝国の歩みと共に発展して行ったキリスト教が、こんな形でも、今日までその足跡を印しているのですね。

ワインで名高い『サン・テミリオン』
松井大輔の居る『サン・テティエンヌ』
隠れた高級リゾート『サン・トロペ』
等々。

セント・ローレンス河しかり。
サンクト・ペテルブルクしかり。

サン・ジャン(聖ヨハネ)や、サン・ピエール(聖ペテロ)や、サン・ポール(聖パウロ)の如く、特に名高い大聖人の名を冠する町はあちこちに沢山有り、<××川に沿った。。。>とか<○○山沿いの。。。>などと形容が付くもの数知れず。

当然『聖ヴァレンティヌス(サン・ヴァランタン)』という聖人の名の町が有ってもおかしくない。

で、パリから南下し、ロワール河をオルレアンで渡りしばらく行くと、ベリー地方に至ります。
フランス王国時代の由緒有る土地柄で、ヤギのミルクのチーズで知られた田園地帯です。
中心都市は<シャトールー>

その一角に、ひっそり『サン・ヴァランタン』(バレンタインは英語読み)村が有ります。
人口わずか260余名。

その村が、その名にちなんだイヴェントで村おこしを試み、いまやフランスを越えて、かなり各国でも知られた存在となりつつ有ります。

そもそもバレンタインデーの由来は、ローマ帝国の時代にさかのぼると言われています。

当時、キリスト教非公認のローマでは、2月14日は女神ユノの祝日でした。ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもありました。
そして翌2月15日が、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭の始まる日だったのです。

所で当時は、若い男女たちの暮らす空間と環境とは別々で、ほとんど接する機会が無く暮らしていました。

祭りの前日に、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていて、翌日、男たちは桶から札を1枚引くことになっていたのです。
ひいた男と札の名の娘が、祭りの間のパートナーとして一緒にいることと定められていたのだそうです。
そして当然の流れとして、多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚したのです。

ところで、ローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれています。
キリスト教司祭だったウァレンティヌス(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させていたのですが、捕らえられ、処刑されてしまいました。
処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれました。
ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという訳です。

殉教した為ウァレンティヌスは後に<聖人>に列せられ、キリスト教徒にとってもこの日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論のようです。

キリスト教を国教とした帝国内で、古くからの宗教(=邪教)の痕跡を断ちたかったローマ・カトリックが、未だキリスト教が公認される前のストーリーを上手く結びつけて利用した、と言うあたりが<宗教政治学的>解釈のようです。


話を現代に戻すと、高速を離れて、県道12号線で村に着くや、<村名表示板>に(姉妹都市のオーストリアと日本!)の村の名前と共に、誰がいたずらしたか<白ペンキ>でハート・マークが誇らしげです。


この村で、毎年2月14日に一番近い週末の土日に、『恋人達の為のイヴェント』を催していて、すっかり有名になったのです。

そしてこの時期の<役場>は、何と巨大なハートを掲げています。


村の教会の裏の公園が、『恋人達の公園』と名付けられています。


その公園が、当日は<イヴェント会場>になります。
ハートの葉っぱをそよがせる<愛の木>が立っていたりします。

    

今年のプログラムは以下の通り。

=2月14日土曜日=

>午前中役場で『恋人証明書』の発行と記帳。
>正午、教会において恋人達への<祝福>
>12時半より役場で<愛のワイン>が振る舞われます。
>13時より『バレンタイン・デー特別ランチ』要予約、参加費一人25ユーロ。
>10時~18時の間、村の公民館に<出張郵便局>が開設せれ、記念スタンプで投函出来ます。
 特に結婚の決まっているカップルは、<招待状>をこの記念スタンプを捺印してもらって投函するのが流行。
 役場では、<愛>にちなんだ作品の<特別展示会>が開催されます。
 今年はさらに、山高帽の彼とかわいいドレスの彼女の恋人同士が主人公で名高いマンガの作者『レイモン・ペイネ』展でが呼び物です。

=2月15日日曜日=

前日と同じ催しに加えて、
>11時より、教会において<恋人達の為のミサ>

>村の通りでは<ハート>がモチーフの青空市。
15時から18時まで、イヴェント会場にて、イタリア『ベラドーネ劇団』によるオリエンタル・ダンスの公演。

今年の<公式ポスター>です。



食事会で供される、<恋人達の為のケーキ>


そして村を、特別仕立ての<馬車>でのんびり走る、何てのも一興。。。


ただ、日本の様に<バレンタイン・デー>が社会現象になったりはしません。
せいぜい、チョコレート屋さんや、ジュエリー店のウインドーに<ハート>があしらわれる位なもので、一般的に<そんな日>知らない、というフランス人も結構居る様ですよ。
もちろん、<女子>から<男子>へ告白する、なんて皆聞いたら目を丸くしてびっくりします。

<恋人達の聖人>の日は、ごく普通に<恋人達の日>という訳で、カップルで<食事>をしたり、お互いにプレゼントを交換したり、と言うのが<一部>に人達の間で行われているに過ぎません。

パリのチョコレート屋さんのウインドーをご紹介しましょう。

『メゾン・デュ・ショコラ』
   

一番の老舗『マルキーズ・ド・セヴィニエ』
   

『フォーション』                     私が<一番美味しい>と思っている『レジス』
   
いずれにしても、とっても<ジミ>です。


さあ、日本の愛し合う幸せなお二人さん、来年のバレンタイン・デーはフランスの<サン・ヴァランタン>に、『恋人証明書』を貰いに来ませんか!?

最後に<耳寄り(?)>な話を一つ。

イタリアでは、バレンタイン・デーは、男性が相手の女性に<真っ赤な下着>を送るんですと。
イタリアの下着屋さんのウインドーは、この時期<赤い下着>で溢れていますよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする