晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

アルジェリア西部都市と、西サハラ大砂丘帯を行く <1> オランを訪れる

2018-02-28 21:25:14 | 旅行とレジャー

オラン『11月1日広場』 

 

 

一年ぶりにアルジェリアを巡ってきた。

 

短期集中連載でもやってご紹介しようかと思う。

 

 

アルジェリアは広大(283万㎢、世界で10番目)であるが、人口の90%は北の地中海岸に住んでいる。

 

地中海岸からすぐ背後には山並みが始まり、まとめて『アトラス山脈』と言われる1500mから3000mほどの山脈が三列ほど、連なって、南のサハラと隔てている。

 

首都アルジェは人口230万人、東のチュニジア近くコンスタンティーヌが70万人、西のモロッコ近くがオラン。

 

オランはアルジェリア第二の都市で、周辺人口入れると100万人を有する。

 

10世紀初頭に、イベリア半島を制圧していた『アンダルシア・アラブ人』によって建設された。

 

スペイン支配が長かったために、旧市街はスペイン時代の建物が多い。

街の中心部は、フランス統治時代の美しい建物が、数多く残っている。

今では相当傷んでしまっているけれど。

 

 

旧スペイン人街区

 

 

オランのオペラ座

 

フランス統治下の建設になる、ナポレオン三世様式に、地中海様式の香りを取り混ぜた立派で瀟洒なオペラハウスは、1905年に時のオラン市長イポリット・ジローのイニシアティヴで建設が始まり、2年の歳月をかけて完成した。

このジロー市長という人、かなりの教養人であったらしい。

アルジェのオペラ座より新しく、規模も小さいが、市立劇場としてアルジェリア西部スペイン文化圏における、重要なミューズの拠点となっている。

 

 

 

郵便貯金局かなんかであったこの建物は、目下修復工事中。

アール・デコの装飾が見事だ。

モール兼住居ビルになる模様。

 

 

ところで、西アルジェリアのあたりの地中海沿岸は、古代エジプト時代はヌミビア王国、マウリタニア王国を経てカルタゴ、ローマの支配下に入り、ローマ帝国滅亡後はヴァンダル族の徹底破壊を経て、イスラムの浸透による後ウマイア朝の分派の支配下に入り、アラブ・イスラムに反発したベルベル人イスラム政権と続き、1509年スペインの領土となった。

レコンキスタを成し遂げたイザベラとフェルナンドの孫『カルロス・キント(カール五世)』は、母親からイスパニア王位を受け継ぎ、父方の祖母からフランドル伯(ベルギー・オランダの辺り)、父方の祖父からオーストリア大公位を相続。それらの毛並みと、フッガー家の資金援助で神聖ローマ皇帝に選出。その神聖ローマ皇帝の権利としてのイタリア王、そしてアンダルシアの権利から「モロッコ王」を併せ持った。

そのスペインが、海上防衛のために要塞を築く。

そのあと、17年代初頭にオスマン・トルコ帝国の領土になるや、トルコ皇帝の兄弟の太守が、スペイン要塞のあとに宮殿を建設。オスマントルコでは、皇帝「SULTAN」の兄弟の太守は「BEY」と名乗った。

Palais de Bey (ベイ宮殿)が、町の中心からやや西側の地中海まで降った高台に、廃墟となって残っている。

 

ベイ宮殿

 

スペイン要塞時代の強固な城壁に、まず圧倒される。

 

 

トンネルの様な城門を抜けると、目の前に海が開ける。

 

 

そして、宮殿跡。

例によってのイスラム庭園。

 

 

 

砂漠の民にとって、「塀に囲まれた中の、緑が茂り、花が咲き誇り、甘い蜜の香りが漂い、水音と共に小さな泉水があって鳥のさえずりが聞こえる秘密の空間」が『天国』そのものを意味していた。

建物は、今後の復興を待つといった状態。

白大理石の瀟洒な円柱。

はめ板の彩色画も見事な天井。

扉の美しいはめ板。

往時の豪華さがしのばれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

このパティオは、深い貯水槽であった。

雨水と、山から引いた水がたたえられて、パイプで下の階の部屋の壁の中に導かれて「クーラー」の役を担っていた。

その後のフランス統治時代に、この宮殿が軍の司令部となり、貯水槽を塞いで浅いプールのパティオに作り替えられてしまったと言う。

 

厩舎の跡も残っている。

 

 

街中に戻ると、フランス統治時代の旧カテドラルがある。

 

 

19世紀後半にフランス本国ではやった、新ビザンチン様式の見事な教会堂であるが。。。

独立以後ながらく放置されていたらしいが、近年市立図書館の一部に利用されている。

 

 

 

 

教会堂は、普通は平面図が十字架の形をしている。

その交差部の大ドームは鳩が巣をかけて沢山住み着いており、その下は糞だらけ。。。

教会参事会席と聖歌隊席は見る影もなく、朽ち果てようとしている。

 

 

しかし、細部の装飾は見事で、ビザンチン様式の特徴の一つであるモザイクの文様が美しい往時の姿をとどめるため、時間に抵抗しているかのようだ。

 

 

外に出て一周すると、改めて建築の美しさが際立っている。

 

 

アルジェリアは、20世紀末の西欧諸国からの経済封鎖で経済が行き詰まり、21世紀にやっと10数年の停滞から再スタートを切って、今全国の再整備を行っているが、この手の建築物の修復の優先順位はあまり高くないのだろうと思うと、少し残念だ。

ところで、オランから南西へ200㎞ほど降ったモロッコ国境近くのトレムセン、そこから500㎞ほどなんかしたベジャールまで、フランス政府は貨物列車を通す鉄道を引いた。

 

南から石炭を運ぶ為であった。

北部海岸沿いの動脈以外に、内陸部に惹かれた最初の鉄道線であって、立派な駅舎を持っている。

 

 

外観からして素晴らしいオラン駅の駅舎。

 

 

内部も古色蒼然。

 

 

出札窓口の素敵な格子細工、壁の小窓はステンドグラス。

 

 

案内カウンターも情緒たっぷり。

 

 

そんな中で、電光掲示板が違和感と存在感とを誇示している。

 

 

キオスクはお約束通り。

 

 

さて、市場に行ってみようか。

 

 

どこに行っても、市場でまず目につくのは八百屋ですね。

 

 

店の主は必ず男の人。

 

 

海に面しているので、魚屋も活気がある。

少し遅めの時間だったから、商品は結構残り少なくなっていた。

 

 

 

ちょっと不気味だったのは。。

 

 

臓物屋。

 

そして、建物の入り口に何と猫の親子が。

 

 

 

どうやら、市場のみんなのマスコット的存在のようだった。

 

 

街の西のはずれに小高い丘がある。

 

 

その頂の要塞があたりを睥睨している。

 

 

16世紀スペイン領時代の、海上保安のための要塞で、フランス統治時代1860年に改築されてそのままフランス軍が地中海の守りとして使っていた。

『サンタ・クルーズ要塞』

 

 

城門

 

街のどこからでも見える、オランのランドマーク的存在である。

 

そして、そのすぐ手前にマリア様の像が立っている。

 

 

20世紀初頭、ペストが大流行した。

街の人々は、ペストの恐怖から神の助けを求めたくてバジリカ聖堂を立てた。

 

『サンタ・クルーズ教会』

 

もちろんアルジェリアはイスラム教徒が圧倒的多数で、フランス人が去った後は、キリスト教徒は一握りしかいない。

しかし、アルジェの『バジリカ・ノートル・ダム・ダフリック』とともに、ローマカトリックから神父t修道僧とが派遣され続けている。

 

後日ご紹介する予定だが、フランスの軍人からアルジェリアに住み着いて修道僧となり、サハラの遊牧民トウアレグ族と親交を深め、没後「ベアト(福者)」に列せられているシャルル・ド・フーコー師の築いた修道院にも、修道僧が赴任して活動している。

 

さらに、シナゴーグ(ユダヤ礼拝堂)もあった。

旧シナゴーグ

 

オランのユダヤ教徒のために1880年ごろ建設が始まるが、完成まで紆余曲折があり、完成は1917年。独立後は、モスクに転用されている。

建築としては、東方教会『ビザンチン様式』で、立派なものである。

 

 

最後に、オラン国立博物館をご紹介しよう。

 

正面玄関

 

自然史(恐竜骨格やら動植物の歴史)・先史時代(矢じり、骨格器、石器、土器云々)、古典文化(ローマ)、イスラム美術、民族史、美術などの分野に分かれて、結構多彩である。

 

小恐竜の全身骨格

 

なんだか、とってもレトロで懐かしい展示室の雰囲気。

 

昆虫見本

 

彩色アンフォラ

 

北部地中海沿岸山岳地方の土器

 

この土器は焼成してなく(粘土をこねただけ)、食品貯蔵に使われてきた。

 

アラビアのポット

 

ジョルジェ・ド・ラトウール『イエス生誕』

 

結構面白い。

 

中央の大通りに沿って、結構な規模の博物館であります。

 

本日はここまでにしよう。

次回は、トレムセンまで下って行く。

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする