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「古代中国の美人 祭文姫①」

2021-02-06 08:39:21 | 日本

◎祭文姫(幼い頃からすぐれた才能を発揮した才女で、文学・音楽・書に通じていた)

流れ ⇒匈奴 =祭文姫の子供 =曹操 =悲しみ

祭文姫(さいぶんひ)は祭エンとも言います。後漢・三国時代の詩人で河南省の人。文姫は字(あざ)です。父は後漢を代表する文学者かつ歴史学者・祭ヨウです。
幼い頃からすぐれた才能を発揮した才女で、文学・音楽・書に通じていましたが、後に数奇な運命をたどります。


◎蔡文姫の幼少時代の逸話

蔡文姫の子供の頃の逸話として有名な話が残っています。
彼女が幼い頃、父の蔡邕が琴(きん)を演奏していると琴の2番目の弦が切れてしまいました。すると他の部屋で父親の演奏を聞いていた蔡文姫が「2番目の弦」と言います。蔡邕が試しにわざと4番目の弦を切ると今度も正確に「4番目の弦」と言い当てます。
「偶然だろうな」と父親がつぶやくと「昔の人は音楽を聴いて国の興亡を知ったり、楽器によって戦の勝敗がわかったと言います。なぜ私が切れた弦を聞き分けることなどできないとおっしゃるのですか」と言い返し、父親をびっくりさせたということです。
蔡文姫は後に音律に通じた人になります。この話からも音感が鋭かったことはよくわかりますが、幼い少女の故事の知識やこの切り返し方もすごいですね。彼女は後にその雄弁でも知られることとなります。


◎蔡文姫の数奇な人生

大変な才女であった蔡文姫ですが、その人生はきわめて数奇で幸せとは言い難いものでした。
蔡文姫が最初に嫁いだ夫は結婚の翌年に亡くなります。父の蔡邕も董卓を倒した王允によって牢屋に入れられ、亡くなっています。打ち続く悲劇の後またしても悲劇が彼女本人を襲います。後漢末の戦乱の中、彼女は胡軍の騎兵隊に拉致されてしまいます。その後南匈奴左賢王に嫁がされ、胡の地で子供を二人もうけたとされています。
蔡文姫が嫁(か)した左賢王は匈奴の高官で、その妃ということになると相当な地位に思われますし、二人の間にはロマンチックな愛情もあったとする物語もあるのですが、史実は少し異なるようです。
後漢書に蔡文姫が匈奴の騎兵に連れ去られた出来事が記され、そこに「南匈奴の左賢王に没す」という文字が書かれているのです。この「没」という字は捕虜になったことを意味し、この字が使われている以上彼女の結婚は、漢代の王昭君のように武帝の娘の名義で匈奴の王に嫁したというような晴れがましいものではありません。

当時彼女は戦乱に逃げまどう難民の一人として匈奴に拉致されてしまうのです。つかまったのは彼女一人だけではありません。漢族のおおぜいの女たちも彼女と同じ運命をたどりました。
当時戦乱において敵の男の首を差し出せば褒美が得られ、女は戦利品としてそれを得た兵士のものになりました。こういう褒美が待っているからこそ兵士は勇敢に戦ったとも言えるのです。
こうした女たちの一人としてつかまった蔡文姫は、おそらくは彼女をつかまえた兵士の妻あるいは妾となったのでしょう。もちろんこの説もまた憶測の一つであって史実とは限りません。
蔡文姫はこうして胡の地に12年とどまったと言われます。その間子供を二人もうけたと言いますから、12年経ってもその子供はまだ十歳前後でしょう、母親が恋しい時期です。
拉致され胡兵の妻となって12年、蔡文姫に突然救いの手が差し伸べられます。彼女の父蔡邕と親しい間柄だった曹操が、匈奴につかまっていると聞いた彼女を思い出すのです。このままでは蔡邕を弔う者もいなくなってしまう、彼女を漢の地に戻そう…。
曹操は貴重な金の壁(へき)を用いて蔡文姫を匈奴から買い戻す交渉をします。
「贖買」(買い戻す)…後漢書に書かれているこの文字からも彼女がかの地の妃ではなかったことがわかります。一国の高官の妃を買い戻すことなどありえません。

こうして彼女は12年ぶりに漢に帰ってくるのですが、子供たちはどうなったのでしょうか?
蔡文姫が書いたとされる『悲憤詩』には「すすみて我が頸(くび)をいだき、母に問うにいずくにか之(ゆ)かんと欲すと」(我が子が私の首に抱き着いてきて「お母さん、どこに行っちゃうの」と聞く)という悲痛な詩句が書かれています。
また共に拉致されたほかの女たちは、漢の地に戻ることのできる蔡文姫を羨んだとも書かれています。
今から千年以上前の詩とは思えないほど臨場感と真情のこもった詩です。

蔡文姫が漢に戻ると曹操は彼女を部下の董シに嫁がせます。けれどもそれからまもなく彼は何かで死刑を宣告されてしまうのですが、これを聞くや蔡文姫は髪振り乱し裸足のままで宴会の真っ最中の曹操の元に駆け付け、とりなしてくれるよう頼み込みます。この時の彼女の雄弁ぶりで夫は無事戻ってくるのですが、この夫婦の縁も長くは続きませんでした。董祀はまもなく病で亡くなってしまうのです。
後に蔡文姫は4番目の夫と結婚するのですが、この結婚は長く続き、彼女の没年は明らかではないのですが寿命をまっとうしたようです。
ところでこの3番目の夫の命乞いに曹操の元を訪れた蔡文姫に曹操はこう尋ねます。

「お父上の遺された膨大な書物はどうされたかな?」
すると蔡文姫は
「戦乱の中ですべて焼けてしまいました。ただそのうちの四百余冊は私すべてをそらんじております」
「おお、それはそれは。それでは近いうちに人を数十人あなたの家にやってそれを書き写させたいと思うがどうか?」
「その必要はございません。私がすべて書き写せます。ところで楷書がよろしいですか?それとも草書の方が?」
蔡文姫は書家でもありました。
こうしてこの四百余冊はすべて蔡文姫の手で書写され、曹操に献上されます。その文字には一字たりとも誤字はなかったということです。


◎『胡笳十八拍』

この蔡文姫が書いたとされる長詩に『胡茄十八拍(こかじゅうはっぱく)』という作品があります。匈奴にとらわれその地で12年の月日を過ごし、子供を置いて漢に戻ったという悲痛な運命を18章の歌にしたものです。
胡笳とは西域の葦笛のこと。この詩は葦笛に合わせ琴をかき鳴らしながら歌います。
この作品は1950年代末に、蔡文姫の作品とする郭沫若と唐代の擬作とする劉大傑との間で大論争が起きましたが決着はつきませんでした。その後唐代の擬作説が有力になっています。
















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