龍の声

龍の声は、天の声

「天台宗を学ぶ④」

2019-11-22 22:41:57 | 日本

◎「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す」

道心(どうしん)とは道を修めようとする心、仏教においては仏道を究めようとする心です。この道心をもって生活することができる人が国の宝であると示されています。

例えば、自分の仕事を自己に与えられた天命と心得て、打ち込む人こそ道心の持ち主でしょう。どんな仕事でも、このような人は限りない喜びを仕事の中に見いだし、生き甲斐を仕事の中に感じることができるに違いありません。「自分という人間はいかにあるべきか」を追究し、自己の理想や目標を定め、その実現に向かって努力すること、そのような人生の道を歩む心といえるでしょう。
このような人が国中に充満すれば、国は栄え、社会は浄化され、物も心も豊かになる世界が実現します。したがって、伝教大師の御心は、一個人の完成のみならず、道心ある人々を育成し、国全体、ひいては世界中に及ぶことを願っているのです。


◎「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」

また、道心について伝教大師は「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」ともおっしゃっています(『伝述一心戒文』巻下)。
道心がなければ、いくら恵まれても無意味です。道心があればこそ恵まれた心と生活になるといえます。
真剣に道を求め、その道に打ち込む人は、生活が成り立たないはずがありません。必要最小限の衣食住は自然と備わります。しかし、衣食住に執着し、ぜいたく三昧の生活を志向する人は、私欲に心が奪われて仕事もなおざりとなり、道心は湧いてくるものではありません。
「衣食足りて礼節を知る」(生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえられるようになる)という故事成語があります。もし衣食が足りなくなり、生活に困る事態になってしまったら、礼節を忘れる心になるのでは、人間としていかがなものでしょうか。
また一方、今日の日本では科学技術の進歩や高度経済成長を経て、衣食住の基本的な生活条件が満たされているはずですが、物の豊かさとは裏腹に、心豊かな人間性というものが置き去りにされるような時代になっていないでしょうか。
伝教大師は、「道心の中に衣食あり」と、裕福や貧乏にかかわりなく、いかなる事態にあっても、どんな職業であっても、目の前の利益にとらわれることなく、道心をもって生活することを説きます。人間は動物と違い、自分の欲を管理する知恵をもっています。ただお金のために、物のために生活しがちな現代人や現代の物質文明社会への警鐘ともいえるでしょう。
伝教大師のおっしゃるように、自己を高めて道を修めようとするには、まずは自己を謙虚な姿勢で振り返り、心を柔軟にするための覚悟や戒めを持ち、努力することが大切なのです。


◎「径寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ則ち国宝なり」

「径寸十枚」とは金銀財宝などのことで、「一隅」とは今自分がいる場所や置かれた立場を指します。
お金や財宝は国の宝ではなく、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代えがたい貴い国の宝なのです。
演劇の舞台も主役以外に脇役や裏方など、たくさんの役者がそれぞれの担当をしっかり果たしてこそ、観客が満足する舞台を上演することができます。また、国も総理大臣だけで成り立っているのではありません。国民一人ひとりが持ち場を守り、仕事をしっかりとすることによって国が成立しています。
会社における上司と部下、家庭における親子の関係など、それぞれにおいて使命を自覚し、自分の仕事や生活に励むことが人間としての基本です。
一人ひとりがそれぞれの持ち場で最善を尽くすことによって、まず自分自身を照らします。そしてこれが自然に周囲の人々の心を打ち、響いていくことで他の人々も照らしていきます。そうしてお互いに良い影響を与え合い、やがて社会全体が明るく照らされていきます。
「一隅を照らす」ということは、各々の仕事や生活を通じて、世のため人のためになるように努力実行することで、お互いが助け導き合い、あたたかい思いやりの心(仏心)が自然と拡げられていくのです。


◎「悪事を己に向かえ好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」

比叡山延暦寺の根本中堂に奉安される不滅の法燈は、開創以来、1200年の時を越えて輝き続けている。
私たち人間は往々にして自分本位に考えてしまいがちです。しかし、自分のことはさることながら、他の人のために尽くすことが最高の慈悲であると、伝教大師はおっしゃっています。

自分自身が幸せになることももちろん大事ですが、周りの人々も幸せを求めているに違いありません。周りの幸せのために生きることが自らの幸せであり、お互いがお互いの幸せのために力を出し合ってはじめて世の中みんなの幸せが得られるのではないでしょうか。
実は、一隅を照らすということ(自行)と、他のために行動すること(利他)は、表裏一体なのです。自分の利益を顧みずに他のために全力を尽くせば、皆が「あの人は立派だ」ということで、厚く信頼されるでしょう。みんなが感謝と尊敬の念を持つことでしょう。これは「照らす」行いの反射です。照らさなければ反射は起きません。結局、一隅を照らすということは皆の模範となり、鏡になることです。
伝教大師は比叡山に「不滅の法燈」を灯され、1200年の時を経て今日まで連綿と受け継がれてきました。この不滅の法燈のように、各自の心の中に慈悲の光を持ちましょう。自分を燃やしながら光っているロウソクのように、我が身を燃焼し、自分の使命を達成するために一所懸命に努力しましょう。このひたむきな努力が光を発するから、皆がその光を慕い、集まってきます。今度はその集まった人たちが、それぞれ灯火(ともしび)となって輝き、その光が集まって膨大なものになり、必ずよい世の中になると説かれています。
「己を忘れて他を利する」という忘己利他(もうこりた)の精神を私たちの日常生活で発揮し、大勢の人々の心に確実に溶け込ませていくことは、安心(あんじん)にあふれる平和な世の中(仏国土)の実現に繋がることになるのです。


◎第253世天台座主・一隅を照らす運動総裁 山田恵諦猊下ご講話

第253世天台座主で一隅を照らす運動総裁でもあられた故・山田恵諦猊下の講演録(平成3年の東京大会)をもとに編集された『一隅を照らす6つの約束』を紹介します。
比叡山で修行する僧侶の心得に「六念」というものがありますが、この六念を檀信徒や一般の方々に向けて「六つの約束」としてわかりやすく講話されたものです。家庭における日々の暮らしを見直す指針としてどうぞ生かしてください。

昭和44年に我が天台宗が宗祖伝教大師の思し召しを伝えるために、ぜひ一隅を照らす運動を始めたいという念願を時の天台宗宗務総長が起こし、「どのようにすればよろしいでしょうか?」という相談を受けました。その時に、「一隅を照らす運動の基本をはっきり皆が認識した上で進まなければ、その効果は乏しくなる。同時に、今一つ大切なことは長く長く続けることであり、急いではいけないということである」と、この二つをその時に申しました。そして、「どのような理念でいけばよろしいですか?」ということに対しては、「二つの柱を持ちなさい。二つの柱をみんなの心に持つことです」とはっきり申しました。
では、一隅を照らす運動の二つの柱とは何か。

まず第一番が「仏性の開発」。仏性(ぶっしょう)とは、生まれながらにすべての人に具わっている御仏様の心をそのまま自分の生活の基本にするということであります。これが一つ。もう一つの柱は、「浄仏国土の建設」。仏の住む国土をこの地球上につくることであり、すべての人が仏教精神を尊重し、信頼しあえる世の中とすることです。
この二つの柱を目標にして進むのであって、倫理運動でもなければ慈善事業運動でもありません。根本からすべての人々の心を入れかえることが第一番目の柱(仏性の開発)であり、同時に世界は一つという大きな眼をもって対象にするということ(浄仏国土の建設)が第二番目の柱であります。

仏性とは一体何かといえば、仏の性質と書き、何でもないことのようでありますが、ともすると私たちと御仏様はかけ離れたものであるというふうにすぐに取ります。大聖釈迦牟尼世尊がお説きくださった教えというものは、決して理想ではないのであります。現実の人間をつくりだす、しかも、その目標においてすべてが仲良くするという一つの共通理念のもとに人間が進んでいくということにならなければ、この地球を守っていくことができません。
つまり、すべてのものの一番に支配権を持つのが人間でありますから、この人間が善き心を持つか、悪しき心を持つかによって、地球に住むすべての動物、植物にまで影響してしまいます。ぜひとも正しい人間でなければならないということを私は皆に教えたい、これが仏教の基本であります。


<完>











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