◎日本の集団的自衛権をめぐる動きには「様子見」
このような観点から、7月1日に日本政府が行った憲法9条の解釈に関する閣議決定に対する米国の反応を見ると興味深い。1日の閣議決定により、集団的自衛権行使への道が開かれたことに対して、ヘーゲル国防長官は同日に発表した声明の中で「日本が今後、地域や世界の平和と安定により多大なる貢献をするための重要な一歩である」と称賛し、また今回の決定は、現在進行中の日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しに代表されるような同盟の近代化の努力にも合致するものである、と述べた。1日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙でも、今回の閣議決定については中国からの脅威を考えると止むを得ない措置である、と社説で述べるなど、おおむね好意的な見方である。
その一方で、「様子見」の雰囲気が根強く存在するのも事実だ。安倍政権発足当初に「2013年秋ごろ」と言われていた閣議決定の時期が何度も延期されて今に至っていること、今後整備が必要とされる法律の審議を今年秋の通常国会で本当に開始することができるのかが依然として不透明なことに加えて、閣議決定前に総理官邸前に多数の人が集まって抗議行動が行われたことや、集団的自衛権に抗議して男性が焼身自殺を図ったことなどがアメリカでも報道されているため「国民の間でのコンセンサス形成にはまだほど遠い。閣議決定は数の力に任せて自民党が押し切ることができたが、法律改正や新法制定など、国会での審議を得なければならないプロセスは、簡単には進まないだろう」という見方が広がっていることも関係しているようだ。
もともと、米国は、日本の「集団的自衛権行使」そのものについては、意外と冷静だ。もちろん、集団的自衛権の行使ができるにこしたことはないのだが、現在の憲法の制約下で日本が十分できるはずのことで、できていないこともかなりあるため、そういう活動ができるように法整備をしてもらうほうが、同盟の実質的機能の向上にはつながる、という考え方だった。今回の閣議決定についても、「集団的自衛権を日本が行使できるようになる」ことよりも、その結果、日本が日米同盟の枠組みの中でできる活動の幅がどれくらい広がるのかを注視している。
日米防衛協力の指針(ガイドライン)見直しに対する熱意も日本と米国では温度差がある。尖閣諸島をめぐり中国との緊張が高まる中で、日本がくどいほどに米国に「日米安保条約第5条適用」へのコミットメントを求め続けていることで、米国では「日本は、尖閣諸島をめぐる中国の対立に、自力で対応する真剣な努力をすることなく、米国を巻き込もうとしているだけのではないか」という懸念がその温度差の根底にはある。
日米防衛協力の指針の見直しについても、「安保条約第5条に基づく米国の関与の幅を拡大するのであれば、日本は安保条約の第6条で想定される事態や、平時からの防衛協力などで、コミットメントを拡大してほしい。憲法を盾にあれもできない、これもできない、というのはもうやめてほしい」という雰囲気だ。つまり、米国にとっては、ガイドラインの見直しは、日本が集団的自衛権の行使が可能になることで、自衛隊の活動の範囲を拡大する意思と覚悟を示して初めて、真剣に議論する意味があるものなのだ。つまり、「集団的自衛権行使」はあくまで今後の日米防衛協力のあり方を考えていく上での、議論の入口に過ぎないのである。
◎ガラパゴス化した日本の安全保障議論
しかし、今回の閣議決定に至るまでの議論を見ていると、戦後70年が経とうとする今でも、日本国内の安全保障に対する考え方はほとんど進歩を見せていない。議論の最大の焦点が、いかに集団的自衛権行使の解釈範囲の拡大に「歯止め」をかけるかであったことが、日本の安全保障論議を巡る環境が未だに世界の常識とかけ離れた状態から脱却できていないことを象徴的に表している。
そこには、日本が現在直面する安全保障環境や脅威の質的変化の結果、「前線」と「後方」、「戦闘地域」と「非戦闘地域」のような人為的な線引きができない状況が生まれていることに対する理解もなければ、軍事・準軍事力を使って日本や東南アジアに圧力をかけてくる中国や、北朝鮮のような「今そこにある危機」に今のような体制で対応できるのか、このような状況の中で日本が国家として生き延びるためにはどうすればいいのか、ということに対する冷静な議論をする余地はない。「集団的自衛権の行使を認めれば日本は望まない戦争に巻き込まれるのではないか」という情緒的な懸念が議論の焦点になり、日本が逆に自国の紛争に他国を巻き込む可能性があることについては議論にも上らない。相変わらず日本の安全保障論議を取り巻く環境は「ガラパゴス化」した状態のままなのである。
1日の閣議決定はスタート地点でしかない。これからの防衛法制整備やガイドラインの見直しの成否は、日本が安全保障上の「ガラパゴス化」から脱却し、地に足のついた安全保障論議を政治家が国民の前でして見せることができるか否かにかかっている。自分を棚に上げて米国の内向き傾向を批判している時間は、日本にはないのである。
<了>