レンブラント作品: 『アブラハムとイサク』
『アブラハムは、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子をほふろうとした。』
そのとき、天から主の御使いが言った。
『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』
創世記22章9~12節
今日は、今年最後の、聖書通読の会。
通読箇所は、有名な、『アブラハム、イサクを捧げる。』箇所。 人生の真髄です。
参加者の感想
「神が、本当に、独り子をささげろなんてむごいことを、言われるだろうか?」
「私が要求されても、決してささげません。」
「私が要求されたら、私が身代わりでよろしいでしょうかと、神様にたずねます。」
・・・親として当たり前に持つ感想。前後にもっと複雑な話をされました。
「神に聞き従うことが、信者にとって、一番大事なことである。」
「神にゆだねる信仰を貫くことは、並大抵のことではない。」
・・・信者として直面する葛藤を述べる感想。
司祭の感想
「ここは、本当の神との出会いが書かれていると思います。
神が、無条件で、一人一人を愛しておられ、必要を満たして下さる方であるという経験をする時は・・本当の神との出会いがあると思います。
アブラハムは、大切な息子を、神を信じて、捧げました。
息子をほふろうとした時に・・神が別のささげものを準備してくださるという、神の愛の経験をします。
神との本当の出会いは、自分を完全に捨てきった先にあるということ。だと思います。」
・・・神との出会いは、自己放棄をせまられるほどの事態に遭遇し、自己放棄を選択したその先にあるということ。生ぬるさの中では難しい。ということでしょうか。
参加者の感想
「信仰が足りない私には、信仰深いアブラハムに与えたようなつらい試練が与えられることはないでしょう。
聖書には、耐えられない試練を与えることはない。と書かれているのですから。」とも。
アブラハムは、神からの要求で子をささげものとする。信仰の試練に直面します。
善良な市民が、予期せぬ災害などで子を喪うという人生の試練もあります。今年の津波や地震や大雨のように。
今年も・・
大切な子や家族を失う、という悲しくつらい大事が沢山にありました。
どんな大事の時も・・
神や周りの人々から頂く暖かいなぐさめによって、立ち直ることが出来、生き続けることも出来るのでしょう。
『試練の先に、必ず、『光』がある』
『光』を信じて生きる自分。『光』を信じて悲しむ人に寄り添う隣人。
そんな自分と隣人としての人生を送りたい。私の感想の一部でした。
どこに愛があるんでしょうか?
そしてこれが父親だからこうなるのであって、大部分の母親は自分が犠牲になることを選ぶのではないでしょうか?
愛が、子殺しを親に描かせるなんて矛盾してませんかね?
息子の顔を隠し、己も蒼白になる父親…
エルミタージュの説明では、天使が現れたとていきなり気持ちが変わるものではなく、いかに辛く厳しい選択をアブラハムが迫られたか、と。
どうかこれ以上、神がこんな残酷な試練を思いつきませんように。