今から41年前の10月。
北の港町のスキー場の麓にある中学校の音楽教室。
文化祭実行委員長になぜかなってしまった私には一つ細やかな野望があった。
高校の文化祭で流行っていたロック喫茶のまねごと。
大音量でスピーカーを鳴らして、自分の好きなアーティストのLPを1日中鳴らし続ける。
高校のお兄さん達は、校舎外れの誰にも迷惑のかからない教室に真空管アンプ、でかいダイヤートーンのスピーカーを持ち込み、マニアックなブリティッシュロックをガンガンならしていたが、受験前の中学生がレコード買うためにアルバイトなどできるわけも無く、「ロック好きの皆は好きなLP持ち込んで自由に回して良い!」という案内だけ流して、ロック野郎のマスターベーション大会を企画。
どうせ、身内のロック野郎しか来ないだろう・・・と、体育館のメインステージがプログラム通り進みそうなのを確認し、(時代の流れでここは合唱部とフォーク好きの演奏の場)、各教室の発表をざっと観て、ベートーベンやバッハの色あせた肖像が掛かっている音楽教室へ。
しかし、持ち込んでくる人は趣味多様で、高校生のお兄さん達とはやはりレベルに差が・・・でも、来る人は拒めない。
パープルのイン・ロック後にビートルズのホワイトアルバム、なんかは・・まだ、ふむふむ、となる。
ジェフ・ベックのブロー・バイ・ブローのあとに女子がチャーのスモーキー、これも、まぁ、いいんじゃない~~となるが、
ゼップの4thアルバムの後に熱狂的な女子がベイシティー・ローラーズを回す。さすがに、「S・A・TUR・DAY・NIGHT! ひぇ~~勘弁して~~」となる。
ここで男子が「こんなのロックで無い!!」女子が「これもロックだ!」と論争。
そこに、ロック通の某君が「これどうだ・・・」とクイーンの「戦慄の王女」の紫色のアルバムを回し始める。女子はきゃー~~と歓声・・私は、クィーン・・・クィーンって隠語だよね・・
当時、すでに、「オペラ座の夜」大ヒットした後でさすがにボヘミアン・ラプソディーは嫌でも知っていたし、「華麗なるレース」で手を取り合って~もラジオでガンガンやっていた。
しかし、当時、パープル、ゼッペリンと突き進み、ジェフベックの奇跡を追って、クリームまで興味が行っていた身としては、ブライアン・メイのリフよりエアロ・スミスのジョー・ペリーのリフの方が好きであったのもあり、フレディーの素晴らしいボーカルも心の琴線に触れることはなく、何でもこなす器用なバンド、という域は脱しなかった。
印象が変わったは、その年末にリリースされた「世界に捧ぐ」からで、正直、ウィ・ウィル・ロック・ユー、伝説のチャンピオンの楽曲、ボーカルの表現力にぶっ飛んでしまった。
以降、新作のシングルカットのヒット曲は追っていて、どんどんポップになってきているが、時代の流れを旨く吸収できるミュージシャンとして感心していた。ただ、フレディーの容姿がだんだん変化してきて、アーティストとしての根源の部分がどう変わって来ているのかが気になっていた。
時は流れ、中学の音楽教室から14年後の11月25日。マドリードの空港の朝。
新婚旅行の帰路の搭乗待ち合い室。私達の正面に座る紳士が広げた朝刊の第一面に痩せ衰えたフレディーの顔。スペイン語は読めないが多分そうなんだ、と思い、機内で英字新聞を拾い読み。
やっぱりそうだったか・・1991年11月24日 フレディー・マーキュリーは空に旅立った。
2011年にフレディーの生涯をまとめたBBCのドキュメンタリーが制作され、その後NHKでオンエアされたのを観ていたが、ここで初めて彼の音楽表現の根幹が初めて解った気がした。
映画評はたくさんの方がアップされいて、私が書いても同じような内容になるので止めておきますが・・・・
・・・オープニングの20世紀FOXファンファーレのブライアンのギターサウンドにぶっ飛び、ライブエイドのボヘミアン・ラブソディーに涙。
狂気じみた情動の発揮でも抗えぬ強烈な孤独に押し潰され悲劇を迎えるロックミュージシャンは多いですが、フレディーは愛する人に看取られ幸せだったのでは、と席を立ちました。
良い作品でした。