函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

汚染水放出による常識の崩壊

2023年08月23日 08時27分28秒 | えいこう語る

 

常識=普通一般人が持ち、また持っているべき標準知力。専門的知識ではない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む(広辞苑)。

 

福島第一原発事故。メルトダウンした大量のデブリに地下水が流れ、それを直接海に放流すると、海は放射能汚染が広がり、風評被害が出る。

 

ここまでは、一般人が持つ標準知力の範囲内だろう。だが、IAEAの基準をクリアーしたからといい、放出するというのは一般人の常識外のことだ。

 

トリチウムというのは、水に溶けない放射性物質だというのも、一般人知っている。IAEAが安全と許可したからといい、それは専門的知識で、一般人の標準知力外だ。

 

直接仕事に携わる漁師が、猛反対している。だが政府はIAEAの基準を盾に、24日にも放出を始めるという。一般国民を無視する我が国の政府は、常識外の政権となったようだ。

 

あふれかえる汚染水放流などは、ほんの序の口だろう。国民全体は反対しないからだ。あふれるものは放流した方がよいというのが、国民の常識のようだからだ。

 

つまり政府ばかりではなく、国民の常識も変化してきているようだ。軍事費の増強など、政府の言いなりななっているのが、今の我々国民だ。

 

身近なウクライナ戦争で、世界の常識は「自衛のために戦う」というのに変化している。だが、我が国は「戦争を放棄」している。そこにもひび割れが起きている。

 

78年前の終戦の日、誰もが戦争のない国が「常識」であると自覚したはずだ。だが自国のみで、平和を保つことはできないという。そう人に言われ、戸惑うことはない。

 

常識を保つためには「矜持」が必要だ。昔の頑固おやじは、誰が何といっても自分の主張を曲げることはなかった。

 

「明治は遠くなりにけり」とはいうが、私の地域も人口は減少し、まもなく明治時代と同じ人口になる。

 

「ダメなものはダメ」と言い張る、近所の明治生まれの頑固おじをずいぶん見てきた。それが私の財産になるかもしれないというのに、今気づいた。

 

日本人の常識を守るため、これからは会議で自分の主張は一人でも「ダメなものはダメ」と、頑固ぶりを通そうと思う。

 

もしかして、それが今の時代「かっこいい」のかもしれない!?。汚染水放流で、常識ある国民についてを考えてみた、放流前夜だ。


移住政策の要点

2023年08月22日 15時30分16秒 | えいこう語る

都会から田舎に移住した一家が、周辺住民と仲良く交流し暮らしている番組に触れる。自然の中で優雅に暮らしているようにみえる。

 

私も田舎に生まれ田舎で暮らしているが、村社会は慣例がものを言い、よそ者の意見はなかなか取り入れてくれないところがある。

 

地元に生まれてもそう感じるのだから、ましてや移住者から見れば、窮屈そのものに違いない。単純に言えば「常識」の違いがあるからだ。

 

この常識の違いこそが、人間が生きていく中で、最も暮らしにくい環境を生むからだ。自分がよいと判断していても、地域では奇妙に感じられることがある。

 

そんなことはよくあるとは言うが、常識の価値観が全く違ったことが重なると、地域では住みやすい環境とは言えなくなる。

 

地元の者は多数で、移住者は少数だからだ。昔でいえば「村八分」などにつながる状況になりかねない。

 

関東大震災の時、千葉県福田村(現野田市)で起きた事件だ。香川県の被差別部落から来た行商団15名のうち、9名が地元自警団に殺害された事件がある。

 

殺害方法は残酷すぎる。死体を利根川に捨てたという。地元の言葉ではなかったので「朝鮮人」と決めつけたそうだ。

 

今は間違ってもこんな行為はないだろう。とはいっても戦争になれば、相手を容赦しない。ウクライナ戦争の敵国意識は、人間の根底に潜む残虐さは、いまだに残されているようだ。

 

人は群なすと、自分より弱いものを差別する。

私の子供時代(昭和30年頃)、地元に朝鮮半島出身の家族がいた。私の同級生もいて親しくしていた。

 

商売が成功しお金持ちだったので、大勢がお金を借りていたという。だが朝鮮人だと馬鹿にして、借金を返さなかったという。

 

やがて倒産し、借金は払わない人が多かったというのを、子供のころ大人が話していた。大勢から聞いたから間違いはないだろう。

 

その家族の私の友達も、大学を出て一時村に戻っていたが、灯油をかぶり焼身自殺をした。私は弔辞を読んだ。周囲の人たちが理不尽なことをしたのを内容にした。

 

弔辞の清書を習字の上手な私の父に頼んだ。母から聞いたのだが、清書しながら父は涙を流していたという。もちろん大正生まれの父は、息子の文章に涙を流したなんてことはいわない世代だ。

 

福田村の事件は、普通の人が群集化の末に、犯行をおこなったと、この映画を監督した森達也は言う。群集化に熱狂が加われば、良心などかき消されてしまう。

 

その小さな出来事が、戦争にもつながると、監督は主張しているように思う。9月には函館でも上映される。ぜひ観たい作品だ。

 

福島原発事故の汚染水の放出を、24日とした。政府は「一定の理解を得た」とはいうが、漁業者は反対している。私も海のまちに住んでいるので、反対だ。

 

IAEAの基準値もクリアーしている。余ったものは処理しなければみんなが困る。国家の判断に反対するのは、日本国民ではない。

 

現憲法には、国民の基本的人権が守られるのは「公共の福祉に違反しないことだ」とある。

 

自民党憲法改正草案には【国民が基本的人権が守られるのは「国益及び公ために服従する」こととある。

 

もし憲法改正がなされれば、汚染水海中投棄に反対する者や、高レベル核廃廃棄物の地下埋設に反対する者の「基本的人権」は、保証しないということだ。

 

憲法改正後の政治を見据えているような、汚染水海中投棄問題だ。さて表題の「移住政策の問題点」だが、移住してくる者は環境問題を重視している人が多い。

 

移住者が、周囲の群集化の中でどう生きるか、それが移住問題の重要な視点ではないかと考える。

 

 

単純に田舎は自然環境がよいというだけではない。「しがらみ」という、村形成以来の問題にも、真正面に取り組んでほしいものだ。


なぜ教育論争は不毛なのか

2023年08月21日 06時40分44秒 | えいこう語る

教育関係の委員に任命されて思うのは、国家(自治体)の最も基本にかかわることを論議するのに、熱心な討論にならないということだ。

 

というより、熱心な討論にならないような、同調圧力が蔓延しているような雰囲気があるのが、教育関係にかかわる会議だ。

 

教育に関する問題は、社会環境の変化とともに、年々大きな問題を抱えている。コロナのパンデミック以降、デジタル化が教育の根底を揺るがすほどの勢いで現場に押し寄せているに、そこへの対応がまったく遅れているように感じる。

 

つまり教育現場は、文科省(国家)の言いなりのまま動いているような気がする。下からものを言わせない構造になっているようだ。もっと単純にいえば、教育組織には「表現の自由」の自由はないような気がする。 

 

「地方教育行政の組織運営に関する法律」の中の第26条に「教育に関する事務の管理及び執行の状況の点検及び評価等」というものがある。

 

26条は、‟教育委員会は”毎年、その権限に属する事務の管理及び執行の状況について、点検及び評価を行い、その結果に関する報告書を作成し、これを議会に提出するとともに、公表しなければならないとある。

 

問題は‟教育委員会は”という文言だ。点検の及び評価は教育委員会が自ら行うとある。その条文の解釈をその通り理解し、教育委員会は自らの業務の点検と評価を、教育委員会自らが行う。

 

だが自分たちの仕事を、自分たちが点検し評価するのは、常識的におかしいのではないかと一般市民の私は考える。

 

さらに点検及び評価の方法や結果について、学識経験者から意見を徴収する機会を設けるなど、各教育委員会で適切に対処することとある。

 

そこで函館市は、教育振興審議会(15名)を設置し、教育委員会が提出した報告書に、審議会が評価を加えるシステムがある。

 

メンバーは大学教授や学校長、PTA会長などの教育関係者。いわゆる学識経験者だ。公募は1名、その他「教育委員会が必要と認める者」ということで、市町会連合会の「青少年育成部長」の私も選ばれている。私の場合はいわゆる‟当て職”だ。

 

当て職といえど、私は組織代表としてそれなりの意見を申すべきだと考えている。組織代表でもあるが、教育問題は一市民としての意見だ。

 

つまりあくまでも個人として、審議会の委員を務めようと考えている。しかしそんな私のような考えを持つ者は『教育委員会が必要とする者』には該当しないようだ。

 

私は会議の席上「教育委員会が自分たちの評価するのは、常識的に見ておかしい」と発言した。だが26条に正当性は書いてあるという。

 

そこで私は家に帰り「教育基本法」を調べた。教育委員会や審議会議長の答弁は、条文解釈では間違っていないようだ。だが教育委員会の評価を行うのは審議会の中の9人だ。私は外れている。

 

次の会議はこの9人の「点検評価部会」で審議された内容を、全体で審議するというものだ。私にも事前に「教育委員会の事務の点検及び評価報告書」が渡されていたので、私はまじめに前年度分と比較しながら、疑問点をチェックしていた。

 

ところが次の会議は、15人全員で点検部会で評価したのを、承認するかしないかの採決だけだった。学識経験者が多い部会の評価が終わったものに、誰も反論は出ない。

 

私は事前に疑問点を洗い出していたので質問した。この会議はすでに点検部会で評価を終了しているので、質問は受け付けませんという。

 

たぶん審議委員の中には、私の意見に賛成する者もいたと思う。そこで誰かが私を擁護してくれれば、会議の流れも変わったと思う。

 

しかし誰も意見を述べない。こうなると審議会の仕組みを知らないのは私一人かと思い、私は言葉を失ってしまう。

 

会議終了後、私は車の中で反省した。審議会がこのような仕組みであれば「いじめ問題」など、絶対解決するはずはないと。

 

次の会議は議長の交代だ。たぶん「事務局一任」ということで終了だ。私は新議長に注文を付けたい。【「点検と評価」は部会に分けないで、15人全員で行ってほしい】と。

 

教育問題については門外漢の私だが、長く生きてきて、教育が戦争遂行に大きく寄与した事実は知っている。

 

学識経験者ばかりではなく、一般市民の声も反映するのが審議会だ。その審議会が、審議できない環境こそ、是正しなければならない。

 

こうなれば専門家の考えに耳を傾けなければならない。今からちょうど20年前に上梓された東大教育学部教授、刈谷武彦著「なぜ教育論争は不毛なのか」中公新書を読み返した。

 

審議会の委員などのように、学識者として行政にかかわるのではなく、政策評価という研究を通じて協力する関係を作り出す。行政が集めた統計データーの再分析や、新たな質問紙調査などの教養的分析があってもよい。という文言が目についた。

 

さらに刈谷は、論じ方を変えることは、教育の見方を変えることでもある。そして見方が変われば対処の仕方、評価の仕方も変わる。議論のねじれが、ねじれとして見えてくる。論じられない問題の中に重要な論点が含まれている。甘美で饒舌な言葉で形容されるスローガンに、中身がないこと、理想が現実を引っ張る力を失っていること。

 

ありきたりの論じ方によって思考停止に陥る教育論の不毛さに、すでに多くの人びとが気付いている。ただ気づいていても、どのように論じ方を変えればいいのか、そこまでは十分に示されていない,と結んでいる。

 

20年前の教育現場での論争の不毛さが、いまだに存在していることに愕然とする。先日新市長と話す機会があった。

 

ここまでは言及しなかったが、教育会議の回数をもっと増やすよう要望した。私が市民としてできることは、その程度だ。


条文解釈は誰のために

2023年08月19日 19時14分50秒 | えいこう語る

憲法とは「国家の基本秩序」だと理解している。とても簡潔で明快な解釈だと思っている。だが「9条」の戦争放棄の条文があるのに、現在の自衛隊の軍事力と防衛費の拡大は、常識を逸している。

 

憲法は全く無視されているにもかかわらず、メディアは直接的に、憲法法違反と指摘する姿勢は見当たらない。

 

今日(19日)の北海道新聞も、キャンプデービットでバイデン大統領とキシダ総理が「新型迎撃弾開発合意へ」という見出しが載っている。ロシアへの対抗のためだという。

 

政府ばかりではなく、メディアや国民までも

、憲法をないがしろにする傾向が、拡大してきたのではないだろうか。

 

このことを身近に実感したのはコロナのパンデミックと、ウクライナ戦争の勃発だ。「緊急事態」という雰囲気の中で、国民の意識に「同調」しなければならないという「圧力」が植え付けられたのではないだろうか。

 

コロナ・ワクチンの何回もの接種が「同調圧力」を植え付けたのではないかと思う程の、国民の従順さだ。

 

さらに隣国ロシアの脅威が煽られ、我が国は「基本秩序の崩壊」をきたし、【憲法改正】に向かって進んでいるようだ。

 

戦後間もない頃から「戦力ではない小さな軍事力は許される」という解釈は、戦後78年を迎え、今や世界有数の軍事力を持つ国家となった。

 

「♪ちょっとだけよ」という甘いささやきが、「ちょっとだけ」では、済まされないところまで来てしまったというのが、今の我が国の現状だ。

 

「一線を越えてはならない」。つまり「侵入してはならない」という歯止めが、倫理観だ。我が国の政治には「倫理観の欠片もなくなった」というのが、アベシンゾウ内閣からの、我が国の政局ではないだろうか。

 

シンゾウの憲法解釈は間違いだとした、我が国の多くの憲法学者。それに対し「憲法学者こそが間違っている」と主張したシンゾウ。

 

そんな無知蒙昧な人間を、8年もの間首相の椅子に座らせていた国民の責任は大きい。「シンゾウ死して9条朽ちらす」の勢いだ。

 

アベ派の会長がいまだ決まらない。「9条を確実にぶっ壊す」そんな人物を会長に据えようとしているのだろう。次のアベ派の会長こそが「憲法改正内閣」を組閣させるのだろう。

 

「条文解釈は誰のため」。条文を政府のために、都合の良いように解釈するのが、国家の‟常識”というものらしい。

 

「国民のため」という政府の口癖は、一見民主的に見えるが、実は国民主権など考えていない。

 

それは国民自らが基本的人権を守るため【国民の権力】といわれる民主主義を盾に、政府が間違った条文解釈をしないよう、国民が監視し続けなければならない。

 

NO!といえる国民」にならなければならない、今の我が国の政治模様だ。ミサイル開発など、総理が単独で決めてきてはならない。

 

衆議院解散もまじかに迫っているような気配だ。自民党は勝たしてはならない。勝たせれば国民は【憲法改正」を容認したことになる。

 

国家の基本秩序が崩壊したとき、迫ってくるのは「戦争」だ。私はそう考えている。何が何でも自民党勝利だけは、現憲法下で生きる私たちは、阻止しなければならない課題のようだ。

 

残暑厳しい中で、意識だけは朦朧としてはならないように思うが、猛暑の続く75歳の夏だ。


堤未果の「ショック・ドクトリン」を読み終えて

2023年08月17日 15時47分15秒 | えいこう語る

新書で購入した堤の本を読み終えたら、まるで中学時代から使っている国語事典のように、よれよれになっていた。付箋はびっしり張られ、傍線だらけだ。

 

これからも何度も付箋がついた個所を、読み返すことになるだろう。コロナのパンデミック以来、政府の思惑がよく理解できず「ぼんやりした不安」を感じていた私に、的確な答えを与えてくれた内容だったと感謝している。

 

この本からブログを書こうと思えば、かなりの数の内容になるはずだ。だが町内会のお祭りと酷暑で疲れ果て、11日で満75歳を迎えた老体にとって、それは過酷だ。

(ここで妻の声が聞こえたような気がする。その割には、お酒の飲み量は減らないわネ!)。

 

「省略こそ長生きの秘訣」という、勝手な教訓に沿って、この本の「おわりに」という文章を引用させてもらいたい。

 

堤は2022年1月。台湾のデジタル担当大臣、オードリー・タンとオンラインで対談している。その際マイナー保険証に話になった。

 

台湾はコロナ禍の初期、オンラインで提供したマスクの在庫地図とアプリによって、買い占めパニックと感染拡大防止に成功している。(我が国のアベのマスクなど、笑止千万だ)。

 

その秘訣を聞くと、オードリーはこう答えた。【憲法の範囲内でやることです。緊急事態だからと言って、決して権力を集中させてはならない】と。

 

この言葉を聞き、堤は1946年7月21日の、第13回帝国憲法改正案委員会での、当時の憲法担当大臣、金森徳次郎の答弁を思い出したという。

 

【国家緊急権は緊急事態を理由に憲法が破壊される危険がある。緊急のときは、今ある法律で対応すべし】。なんとも腹の座った大臣だ。

(我が国のコウノタロー・デジタル大臣など、ハナタレ小僧だ)。

 

災害時に内閣に権力を集中させようと、成立に躍起になる【緊急事態条項】などは、政府が伝家の宝刀を簡単に使える体制になり、やりたい放題の総仕上げとなる危険な改正だと、堤は指摘する。もちろん私も同意見だ。

 

9:11の時ニューヨークにいて、現場を目の当たりにした堤は、その後の米国はテロとの戦いという、無期限の『緊急事態』を手に入れた政府と軍と警察の、やりたい放題になったという。

 

堤は一番大事なことは、どちらが正しいか間違っているかという善悪ではなく【おかしいな】と感じる自分の直感をキャッチする感性を持ち続け、最後まで「選択肢」を失わないようにすることだと締めくくった。

 

私は読書終了後、この本に拍手を送った。