▼教育関係の委員に任命されて思うのは、国家(自治体)の最も基本にかかわることを論議するのに、熱心な討論にならないということだ。
▼というより、熱心な討論にならないような、同調圧力が蔓延しているような雰囲気があるのが、教育関係にかかわる会議だ。
▼教育に関する問題は、社会環境の変化とともに、年々大きな問題を抱えている。コロナのパンデミック以降、デジタル化が教育の根底を揺るがすほどの勢いで現場に押し寄せているに、そこへの対応がまったく遅れているように感じる。
▼つまり教育現場は、文科省(国家)の言いなりのまま動いているような気がする。下からものを言わせない構造になっているようだ。もっと単純にいえば、教育組織には「表現の自由」の自由はないような気がする。
▼「地方教育行政の組織運営に関する法律」の中の第26条に「教育に関する事務の管理及び執行の状況の点検及び評価等」というものがある。
▼26条は、‟教育委員会は”毎年、その権限に属する事務の管理及び執行の状況について、点検及び評価を行い、その結果に関する報告書を作成し、これを議会に提出するとともに、公表しなければならないとある。
▼問題は‟教育委員会は”という文言だ。点検の及び評価は教育委員会が自ら行うとある。その条文の解釈をその通り理解し、教育委員会は自らの業務の点検と評価を、教育委員会自らが行う。
▼だが自分たちの仕事を、自分たちが点検し評価するのは、常識的におかしいのではないかと一般市民の私は考える。
▼さらに点検及び評価の方法や結果について、学識経験者から意見を徴収する機会を設けるなど、各教育委員会で適切に対処することとある。
▼そこで函館市は、教育振興審議会(15名)を設置し、教育委員会が提出した報告書に、審議会が評価を加えるシステムがある。
▼メンバーは大学教授や学校長、PTA会長などの教育関係者。いわゆる学識経験者だ。公募は1名、その他「教育委員会が必要と認める者」ということで、市町会連合会の「青少年育成部長」の私も選ばれている。私の場合はいわゆる‟当て職”だ。
▼当て職といえど、私は組織代表としてそれなりの意見を申すべきだと考えている。組織代表でもあるが、教育問題は一市民としての意見だ。
▼つまりあくまでも個人として、審議会の委員を務めようと考えている。しかしそんな私のような考えを持つ者は『教育委員会が必要とする者』には該当しないようだ。
▼私は会議の席上「教育委員会が自分たちの評価するのは、常識的に見ておかしい」と発言した。だが26条に正当性は書いてあるという。
▼そこで私は家に帰り「教育基本法」を調べた。教育委員会や審議会議長の答弁は、条文解釈では間違っていないようだ。だが教育委員会の評価を行うのは審議会の中の9人だ。私は外れている。
▼次の会議はこの9人の「点検評価部会」で審議された内容を、全体で審議するというものだ。私にも事前に「教育委員会の事務の点検及び評価報告書」が渡されていたので、私はまじめに前年度分と比較しながら、疑問点をチェックしていた。
▼ところが次の会議は、15人全員で点検部会で評価したのを、承認するかしないかの採決だけだった。学識経験者が多い部会の評価が終わったものに、誰も反論は出ない。
▼私は事前に疑問点を洗い出していたので質問した。この会議はすでに点検部会で評価を終了しているので、質問は受け付けませんという。
▼たぶん審議委員の中には、私の意見に賛成する者もいたと思う。そこで誰かが私を擁護してくれれば、会議の流れも変わったと思う。
▼しかし誰も意見を述べない。こうなると審議会の仕組みを知らないのは私一人かと思い、私は言葉を失ってしまう。
▼会議終了後、私は車の中で反省した。審議会がこのような仕組みであれば「いじめ問題」など、絶対解決するはずはないと。
▼次の会議は議長の交代だ。たぶん「事務局一任」ということで終了だ。私は新議長に注文を付けたい。【「点検と評価」は部会に分けないで、15人全員で行ってほしい】と。
▼教育問題については門外漢の私だが、長く生きてきて、教育が戦争遂行に大きく寄与した事実は知っている。
▼学識経験者ばかりではなく、一般市民の声も反映するのが審議会だ。その審議会が、審議できない環境こそ、是正しなければならない。
▼こうなれば専門家の考えに耳を傾けなければならない。今からちょうど20年前に上梓された東大教育学部教授、刈谷武彦著「なぜ教育論争は不毛なのか」中公新書を読み返した。
▼審議会の委員などのように、学識者として行政にかかわるのではなく、政策評価という研究を通じて協力する関係を作り出す。行政が集めた統計データーの再分析や、新たな質問紙調査などの教養的分析があってもよい。という文言が目についた。
▼さらに刈谷は、論じ方を変えることは、教育の見方を変えることでもある。そして見方が変われば対処の仕方、評価の仕方も変わる。議論のねじれが、ねじれとして見えてくる。論じられない問題の中に重要な論点が含まれている。甘美で饒舌な言葉で形容されるスローガンに、中身がないこと、理想が現実を引っ張る力を失っていること。
▼ありきたりの論じ方によって思考停止に陥る教育論の不毛さに、すでに多くの人びとが気付いている。ただ気づいていても、どのように論じ方を変えればいいのか、そこまでは十分に示されていない,と結んでいる。
▼20年前の教育現場での論争の不毛さが、いまだに存在していることに愕然とする。先日新市長と話す機会があった。
▼ここまでは言及しなかったが、教育会議の回数をもっと増やすよう要望した。私が市民としてできることは、その程度だ。