トリノ近郊ダマヌール・コミュニティ訪問動画 by Bappa Shotaさん - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
から:
2012年、私は夫とトリノからアオスタへ電車で日帰り旅行をしました。
この時、電車の乗り換えをしたのはイヴリアという駅。イヴリアのことは、昔TVでオレンジ祭り(オレンジを投げ合うという負傷者が多そうなお祭り)を観たことがあったので、名前を知っていたくらいでした。
「トリノ」は私にとっては「イタリア人の友人たちの住む町(二人とも、Japan guide comのペンパルサイトから私に文通を申し込んできてくれた人達です。なぜか「トリノ」の人からの文通申し込みを受けることが多くて、あとほかに2名の申込者がいました。)」でしかなかったのですが、偶然の後に興味を持って調べだしたイタリア人たちが「トリノがらみ(トリノ大学含む)」が非常に多いのです。
そのなかでも、「イヴレア出身」のオリベッティ家と、アドリアーノ・オリベッティ亡き後、オリベッティ建て直しをすることになり、後のローマクラブを作ったアウレリオ・ペッチェイ、この二人が、ダマヌールと関係しているように思えてなりませんでした。
マイノリティ出身の成功者-アドリアーノ・オリベッティ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
マイノリティ出身の成功者-カミーロ・オリベッティ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
最強コンピュータ「オリベッティエレア」の発明とアドリアーノ・オリベッティ氏とマリオ・チュー氏の相次ぐ死亡 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
「世界経済フォーラム」と「ローマクラブ」の違い - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
「ダマヌール」が「トリノ近郊」というので調べてみると、作られた場所は、イヴリアから10キロくらいの場所。
この時点で調べるのをストップしていましたが、今日調べてみると、ダマヌールはオリベッティから土地を買い、しかも彼らの中央会議場には「アドリアーノ・オリベッティ」の名前が書かれていると言います。
彼の英語版Wikipediaを読んでも(彼がシュタイナー支持していたとしても、)それがスピリチャル系であったかどうかはわかりませんが、「コミュニティ」面ではダマヌールを支持していたというのはあり得ると思います。
抜粋google翻訳:
アドリアーノ・オリベッティ [26] は、第二次世界大戦後 [27] 、資本主義と共産主義という 2 つの大国が体現する 2 つの政治イデオロギーが互いに対峙していた歴史的時代に、イタリアで新しくユニークな工場体験を作り出すことに成功しました。
オリベッティは、社会的連帯と利益の間のバランスを作り出すことが可能であると信じていたため、仕事の組織化には効率を生み出す集団の幸福という考えが組み込まれていました。
労働者は他のイタリアの大規模工場よりも良い環境で暮らしていた。より高い賃金を受け取り、工場の近くには環境の美しさを尊重する幼稚園や住宅があり、従業員は協定を結んでいた。 工場内であっても環境は異なり、従業員は休憩中に図書館を利用したり、コンサートを聴いたり、討論会に参加したりすることができ、技術者と作業員の間に明確な区別はなく、知識や技術が誰でも手の届くところにありました。
起業家アドリアーノ・オリベッティ[28]は工場には技術者だけでなく、創造性と感性で作品を豊かにする人材が必要だと考えていたため、同社はアーティスト、作家、デザイナー、詩人も歓迎した[29]。 アドリアーノ・オリベッティは、産業と農業、そして何よりも生産と文化の間の分断を克服する唯一の方法であるコミュニティのアイデアを信じていました。
実際、このアイデアは、経済的、イデオロギー的、政治的な違いを排除するために、株主、公共団体、大学、労働者の代表など、地域社会のさまざまな生きた力で構成される財団を創設することでした[30]。
彼の夢はプロジェクトを全国レベルに拡大できることであり、コミュニティが最終目標となった [31] 。 彼の考えが社会組織に関するルドルフ・シュタイナーの考えからインスピレーションを得たのか、それともさらに具体化したのかは、今日でも疑問が残っています。 これは、シュタイナー運動と人智学出版への彼の資金提供に関する証拠があるという事実に由来しています。
なお、オリベッティ親子は「フェビアン協会」(ロンドン大学発祥)の支持者でした。
参考:
オマケ: