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『狂った血の女』という邦題をつけられたイタリア映画

2024年03月20日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

『狂った血の女』という、とんでもない邦題をつけられた映画を視聴。

本当に欧州映画の『邦題』には、センスの前に、嫌がらせにさえ見えるものさえあります。

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この邦題だと、とてもこれが「無実で殺された女優」が主人公の映画で、しかも、監督が『フォンターナ広場』の監督とは思わないで素通りしてしまう人は多いでしょう。

WOWWOWではこの邦題を『女優ルイザ 快楽の女』に変えて放映したそうですが、これはもっとルイザを冒とくした題名。

(『狂った血の女』という題名は、原題が『狂った血(Sanguepazzo)』である分はまだましというだけ。
なお、「ルイザ」が「狂った血」を持っていたわけではありません。映画の中でオズワルドが話す自分たちをモデルとした架空の映画のタイトルが「狂った血」。実際は「戦争」を皮肉った言葉だと思います。)

 

Wikipediaにあらすじも、映画を単なるルイザと2人の男との三角関係のようにとられてしまい、オズワルドについての誤解を読み手にさせるところがありますが、おおざっぱにとらえるにはよいので貼り付けさせてもらいます。

狂った血の女 - Wikipedia

抜粋:

1936年夏、ファシスト党による一党独裁政権下にあったイタリアで、人気俳優だがセックスとコカインに溺れた自堕落な生活を送っているオズワルド・ヴァレンティは新人女優ルイザと出会い、2人は深い仲となる。一方、ルイザは上流階級出身で紳士的な新進監督ゴルフィエロ・ゴフレディに見出され、ルイザ・フェリーダとして人気女優となる。ルイザはゴルフィエロに惹かれつつも、オズワルドとの関係を続け、事実上の妻となる。

第二次世界大戦が始まり、ローマでの映画製作が難しくなる中、オズワルドは誘われるままに精鋭部隊デチマ・マス(イタリア語版)師団の中尉となる。しかし、戦争で劣勢となり、ファシストらの降伏が時間の問題となると、1945年4月20日(イタリア解放の5日前)、ミラノでオズワルドはルイザと共にパルチザン(イタリア語版)に投降する。ファシスト党の広告塔となり、殺人や拷問に加担した疑いのあるオズワルドとルイザに対し、パルチザンは処刑を命じるが、パルチザンに加わっていたゴルフィエロはルイザを救うために2人に裁判を受けさせようと、命令に背いて2人を連行する。

ところが結局、2人はろくな裁判を受けられないまま、4月30日未明、逃がしてやるとの部隊長ベロの言葉に従って街中に出たところをベロの命令により射殺され、遺体は路上に放置される。遺体の脇には看板が立てられ、そこには2人が処刑されたことが記されていた。

 

Une histoire italienne | bande-annonce (youtube.com)

Une histoire italienne — Wikipédia (wikipedia.org)

Sanguepazzo (2008) - IMDb

 

この映画を見つけたのは、アドリアーノ・オリベッティの映画があるか探して切るときに見つけたものです。

アドリアーノ・オリベッティの映画が見つからなかった代わりに、映画でアドリアーノを演じたルカ・ジンガレッティが出ていた映画がこの映画でした。

ルカ・ジンガレッティ - Wikipedia

 

さて、この映画の主人公ルイザのイタリア語版Wikipediaから-

Luisa Ferida - Wikipedia

抜粋google翻訳:

ファシスト政権時代、二人の俳優は自らの政治的立場を公に表明しておらず、ヴァレンティがドゥーチェを模倣することはローマ社交界で有名で、一般の笑いを引き起こし、さらに、女優はパートナー同様に会員カードPNFを取得することはなかった。 しかし、休戦後、フェリダとヴァレンティは、白電話映画(ファシスト映画の時代を通常そう呼ぶ)の数少ないスターの一人としてイタリア社会共和国に加わった。 こうして彼らはローマとチネチッタを離れ、R.S.I.の新しい映画センターであるチネヴィラッジョに移動した。 大臣フェルディナンド メッツァソーマの命令で設立されたヴェネツィアの教会は、最も有名な推進者の 2 人になりました。

(中略)

1944年の春、ヴァレンティがユニオ・ボルゲーゼ指揮下のX MASフロットッリアに中尉の階級で加わった後、二人はミラノに移った。 デシマMASの連絡担当官として、ヴァレンティは悪名高きピエトロ・コッホ・ギャングと接触があったが、多くの歴史家によれば、これらの関係においてフェリダは無関係であり続けた、なぜなら彼女はまさにその時期に起訴された自動車事故で入院していたからである[9]。

(中略)

1963年の有名な著書『家族辞典』の中で、ミラノのトリステ邸に投獄されている友人でヴィットリオ・フォアの妻でパルチザンのリゼッタ・ジュアの尋問を行ったのはフェリダであり、幸運にもファシストの手から逃れることができたのはフェリダであると主張した。 [16]。

 

銃撃による死亡

 イタリア社会共和国崩壊直後の数日間、女優はヴァレンティとの情事に関連した悪名を命をかけて償った。ヴァレンティはX MAS小隊のファシスト戦士であり、おそらくミラノのヴィラ・トリステの常連だった。コッホギャングの本拠地。 1945年4月30日、31歳のルイーザ・フェリダは妊娠4ヶ月目で[17]、共謀以上の罪で告発された略式裁判の後、ヴァレンティとともにミラノのポリツィアーノ通りでパルチザンに射殺された。すべてコッホ一味との関連があり、取り調べは、女優が捕虜として自発的にパルチザンに自首したヴァレンティの元に到着した後、4月21日から22日にかけてミラノ近郊の農家で行われた[18]。

マロジンの裁判

銃殺隊による処刑の責任者はパスビオ師団長ジュゼッペ・マロジン [20] 、ノム・デ・ゲーレ・ヴェロであり、後にパルチザンや民間人に対する殺人を含む他の様々な犯罪で告発された [21] 。

その犯罪で彼に対する刑事訴訟手続き中に、マロージンは次のように宣言しました。「フェリダは何もしていません、本当に何もしていません。 しかし、彼はヴァレンティと一緒にいた。 革命はすべての人を圧倒する。」[22]。 マロジンはまた、自らの無罪を証明するために、フェリダとヴァレンティの処刑を進める命令はC.L.N.A.I.から直接出されたものだと主張した。 サンドロ・ペルティーニは次のように宣言している。「その日、1945年4月30日、ペルティーニは私に3回電話して、「彼らを撃て、時間を無駄にするな!」と告げた[22]

再びマロジンによれば、ペルティーニは、ヴァレンティが投獄中に書いた弁護覚書を読むことを拒否した。その覚書には弁護側証人や支援した多くのパルチザンの名前が記載されており、これにより2人の容疑はすべて晴れたが、銃撃は無罪となった。この有名なカップルは象徴的な懲罰的報復を決意した[23]。

 

ルイザと夫オズワルドが死刑になったのは、見せしめのためだったかどうか。

この映画ではオズワルドを「自堕落に見えるけど真面目で愛情深く、時代のためファシストの仲間とされた悲劇の人」 という描き方をしていますが、実際はどうであったのか。

わからないことがたくさんですが、オズワルドの経歴を見ると、彼はただの俳優であったかどうか、とも考えたりします。

Osvaldo Valenti - Wikipedia

抜粋google翻訳:

オスバルド・ヴァレンティは、1906年2月17日、当時オスマン帝国の首都であったコンスタンティノープル(1931年に正式にイスタンブールと改名)で、メッシーナ出身の裕福な商人でシチリアの男爵ミケーレ・ヴァレンティの息子として生まれた。絨毯や貴重な東洋の品物、そしてキプロス大司祭の娘で裕福なギリシャ系キプロス人女性(ただしベイルート生まれ)であるイデルティ・カリクロプロスの作品も展示されています。 1915 年、第一次世界大戦が勃発すると、家族はトルコを離れることを余儀なくされ、イタリア、最初はベルガモ、次にミラノに移りました。 スイスのザンクト・ガレンとバイエルン州ヴュルツブルクの高校を経て、19歳でミラノ・カトリック大学法学部に入学した。 しかし 2 年後、彼は学業とイタリアを捨てて、まずパリ、次にベルリンに移り住みました。

 

オズワルドとルイザの処刑を支持したペルティー二と実行したマルツィンのwikipedia。

アレッサンドロ・ペルティーニ - Wikipedia

Sandro Pertini - Wikipedia

Giuseppe Marozin - Wikipedia

オズワルドが加わったネオファシストリーダー。

Junio Valerio Borghese - Wikipedia

ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ - Wikipedia

ボルゲーゼ家 - Wikipedia

 

ロッジP2 - Wikipedia

コメント
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