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解放区という映画を観て来た

2019年11月06日 20時22分37秒 | 映画・文化批評
  
 
大阪の西成・釜ヶ崎(あいりん地区の旧称)を舞台にした映画「解放区」を観て来ました。
私の住むあいりん地区のホテル街では、「新今宮フェスティバル」と銘打って、音楽会や模擬店など様々なイベントが10月に行われました。そのイベントの最中に、この映画が11月から公開される事を知り、西成が舞台である事や、「解放区」という往年の学生運動を彷彿させるネーミングに興味を惹かれ、昨日観て来ました。

映画は学生運動とは何の関係もありませんでした。東京の映像制作会社に勤めるAD(アシスタントディレクター)のスヤマと、そのスヤマがインタビューした引きこもり青年のモトヤマ。この2人がこの映画の主人公です。(映画の公式HPではスヤマだけが主人公のようですが、私はモトヤマも含めるべきだと感じました)

引きこもりのモトヤマを取材する際の先輩ディレクターの強引なやり方に反発したスヤマが、先輩と喧嘩になった事で、会社の中に居づらくなり、かつて不良少年の取材に訪れた釜ヶ崎のドヤ街を再び訪れる所から、この物語は始まります。

確かに先輩ディレクターのモトヤマに対する取材姿勢は強引でした。せっかくスヤマがモトヤマと打ち解け始めた矢先に、いきなりモトヤマの部屋に闖入(ちんにゅう)し、自分達が勝手に思い描いたストーリー通りに、モトヤマを型にはめようとしたのですから。

しかし、その非をなじるスヤマ自身も、先輩ディレクターに負けず劣らず横暴で自分勝手な人間である事が、次第に明らかになっていきます。「俺と一緒に仕事しないか?」とモトヤマを大阪に呼び寄せながら、給料も払わず、逆に飲食費やドヤ代までモトヤマにたかるのですから。

スヤマは、西成で、かつて取材した不良少年の居所を突き止め、それを元に番組を完成させ、テレビ局に売り込む事で、ディレクターとして自立しようと考えました。それで、わざわざモトヤマを大阪に呼び寄せ、自分の助手として使おうとしたのです。

2人は、それぞれ別のドヤに住みながら、何とか不良少年の居場所を突き止めようと、新世界や釜ヶ崎、飛田新地一帯で人探しのビラを撒き始めます。しかし、一向に手がかりは掴めません。イライラを募らせたスヤマは、次第にモトヤマに当たり散らすようになります。

そのくせ、スヤマは行きずりの謎の女と意気投合し、ドヤでセックスした挙句に、女に財布を盗まれ、一文無しになってしまいます。そして、モトヤマから金を借りようとし、モトヤマから逆に給与支払いの催促を受ける羽目になります。

スヤマは、三角公園での炊き出しや、野宿者専用のシェルターを利用しなければいけない所まで、身を持ち崩してしまいます。そして、手配師の勧めで、建物解体の日雇い労働で働いている最中に、釘を踏んで足を怪我してしまいます。土木工事の親方からも「何が西成のリアリティーや?まず自分のリアリティーから見つめ直せ」となじられる有様です。

家族に黙って大阪までやって来たモトヤマも、弟に足取りを掴まれてしまいます。そして、大阪まで来た弟に、暴力的に連れ戻されそうになります。大阪には弟だけでなく前述の先輩ディレクターもついて来て、モトヤマをテレビ番組のネタにしようとします。弟の兄に対する暴力的な態度からは、兄への愛情が一切感じられませんでした。実際は兄の事を疎んじながら、兄弟としての義務感から、仕方なく大阪まで来たという感じでした。

その中で、「黙ってないで何とか言え」とけしかけるディレクター達に、モトヤマが発した次の怒りの言葉が、観客の心に突き刺さります。「若者のリアリティーを掴むとか何とか言って、弱者に寄り添うふりをしても、お前たちはただ上から俺たちを見下しているだけじゃないか!」と。私はここで、モトヤマもこの映画の主人公であると確信しました。

スヤマは、ついに覚せい剤にまで手を出してしまいます。それでも、ヤクザに連れられ、売人のマンションで覚せい剤を注射される場面を、ビデオに自撮りしようとしたのは、やはりディレクターになる夢をまだ諦めていなかったのでしょう。ヤクザがスヤマに「今まで色々ツラい事があったんだろう」と優しく声をかける場面も不気味でした。「こうして人は覚せい剤のとりこになって行くのだろう」と戦慄を覚えました。
 
最初はスヤマの自撮りを承諾したかの様に思えたヤクザですが、そんな自分の身を危険に晒すような事をヤクザが承諾する筈もありません。注射を終えマンションを出たスヤマに、手引きの男が外でネガを返せと凄みます。それをスヤマが振り切って逃げる所で、この映画は終わります。
 
この映画のテーマを一言で言えば、さしずめ「正義ヅラした偽善」という所でしょうか。それはそれで辛辣(しんらつ)な問題提起です。この世の中には似たような事が他にも一杯あります。しかし、そこだけに留まっていたのでは、単なる冷笑にしかなりません。ただのドキュメンタリーならそれでも良いでしょう。ドキュメンタリーの役割は、あくまでも真実の追及にあるのだから。でも、これは一応ストーリー(物語)です。ストーリーやドラマである以上は、単なる冷笑・皮肉だけでは、「身も蓋もない」で終わってしまいます。

それは映画「万引き家族」と対比すればよく分かります。あの映画も、一見貧しい一家が寄り添い助け合っているかの様に見えて、実はとんでもない家族であった事が、後に判明します。それは、親父は万引き稼業で生計を立て、幼い息子に真似させていただけではありません。その息子も実の息子ではなく、母親がさらって来た他人の子どもでした。おまけに祖母は亡くなった祖父の年金を死後も掠め取り、娘は家族に黙ってイメクラで小遣い稼ぎに精を出す。

しかし、たとえそんな家族でも、近所のDV被害者の女の子をかくまう中で、家族としての絆を深めて行きます。一時は息子を捨てて一家総出で夜逃げを企んだりしましたが、最後には万引き親父が、実の家族の元に帰る息子を追って別れを惜しむ場面で終わります。いかに「正義ヅラした偽善」であっても、そこに幾ばくかの正義がある限り、正義としての価値が損なわれる事はない...。そのメッセージが「万引き家族」の観客を勇気付け、パルムドール(カンヌ国際映画祭最高賞)受賞に結びついたのです。残念ながら「解放区」にはそれが余り感じられませんでした。
 
 

西成にもそんな「正義」はあるはずです。西成には確かにヤクザや覚せい剤の売人も多いですが、それに抗する人達も決して少なくはありません。年がら年中、炊き出しが行われ、年末には「1人の凍死者・餓死者も出すな」と見回り活動が繰り広げられる。そういう意味では、決してただの「お先真っ暗闇」のスラムやゲットーではない。

今秋、あいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」に対して、一旦は認められた助成金交付が、「展示が反体制的だから」という理由で覆された事がありました。政治的メッセージが強く、公民館では展示を渋るような作品にも、芸術的価値があるからこそ、展示しようという企画だったにも関わらず。

実は「解放区」もそんな映画でした。当初支給されるはずだった映画助成金が、大阪市の反対で支給されなくなりました。「引きこもりや覚せい剤取引の場面が、引きこもり患者や西成への偏見を助長する」というのが、助成金支給見送りの表向きの理由でした。ところが実際は、それは単なる口実に過ぎませんでした。「臭い物に蓋」「寝た子を起こすな」...これが当局の本音でした。その辺は、「風評被害が福島差別を助長する」という口実で、放射能汚染の実害が隠蔽されようとしている構図とよく似ています。

しかし、この映画から、引きこもりや覚せい剤取引の場面をカットしてしまったら、映画そのものが成り立たなくなります。そこで、助成金には頼らず、自費とカンパだけで映画製作が続けられました。

主人公のスヤマ自身も監督が演じています。薬の密売人も元密売人が演じています。このような手弁当での悪戦苦闘の中から、ようやく映画公開にこぎ着ける事が出来たのです。折角、セミドキュメンタリー映画としては、これまでにないリアルな作品に仕上がったのだから、偽善の告発だけでなく、それを乗り越えようとする展望も指し示す事が出来たら、この映画はもっと素晴らしい物になると思います。

後で思い返せば、この映画にも、実はそういうメッセージが含まれていたのかも知れません。炊き出しや越冬まつりの場面が、映画に頻繁に出てくるのも、その一つの現れではないかと思います。少なくとも、単なる観光客向けのイベントに過ぎない「新今宮フェスティバル」よりは、よっぽど深みのある映画に仕上がったのは確かです。しかし、私にとっては、それはいつしか後景に退けられ、「偽善告発」のイメージだけが印象に残る「身も蓋もない話」で終わってしまいました。まさに「画龍点睛を欠く」という想いです。

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