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アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

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 アフガン・イラク戦争も金正日もNO!!搾取・抑圧のない世界を目指して、万国のプレカリアート団結せよ!

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五輪は中止だ中止!天皇制も廃止だ廃止!デモに参加して思った事

2021年06月29日 00時19分56秒 | 新型コロナ・アベノマスク
 
この間、コロナ禍でなるべく行動を自粛していましたが、いくらこちらが自粛しても、政府のコロナ無策が全然改まらないので、ネットで告知が出ていた反五輪デモに、自分から飛び入り参加して来ました。私が参加したのは、原発事故避難者や入管法改悪反対、リニア建設反対、あいりんセンターの建て替え反対の運動団体が中心になって主催した反五輪の集会・デモです。6月27日(日)14時に難波・湊町寄りの元町中公園に集まり、15時まで集会をやった後、16時まで難波周辺をデモ行進して来ました。このコロナのご時世なので、参加者は余り多くありませんでしたが、色んな意味で手作り感満載の楽しいデモでした。
 
 
以下、集会プログラムより抜粋。
6.27五輪反対デモ 五輪中止を早く決めろ!人と財源はコロナ感染対策と生活保障に集中せよ!五輪の損失補填に税金を使うな!
午後2時開会。司会挨拶、リレートーク(各分野からのアピール)、特別アピール(連帯労組)、集会宣言採択、デモの諸注意、等々。
午後3時デモ出発。公園を出て→千日前通りを西へ→桜川の交差点を北へ→道頓堀川を渡り南堀江へ→アメ村の横をかすめ→心斎橋で御堂筋へ→難波高島屋前をかすめ→再び公園に戻ってくる約1時間のコース。
デモ行進のスローガン(デモのコールでは表現が適宜変わるとの但し書きあり)。オリンピックは中止だ中止!安全・安心できないぞ!利権にまみれたオリンピックいらない!被ばく隠しの五輪を許さない!障がい者を差別するオリンピックいらない!(パラリンピックも障がい者差別になるのだろうか…?)住民追い出し忘れないぞ!巨大開発終わりにしよう!万博・リニアもいらないぞ!天皇の開会宣言は憲法違反!五輪より命!オリンピックやめて生活補償!
主催団体は東京オリンピック・パラリンピック反対!実行委員会。ゴーウエスト(原発事故避難者の集まり)、アタック関西(巨大開発に反対)、アジア共同行動(入管法改悪反対?)、労働者共闘(詳細不明も一応左翼なんだろう)、釜ヶ崎センター開放行動(あいりんセンターの建て替えに反対)、リニア市民ネット大阪などから構成される実行委員会が主催。
 
以下、各分野からのリレートーク要旨。
AWCユース:外国人収容者への人権侵害に抗議。はっきり理由も示されずに7年間も入管に収容される例も。(ついこの間も、DV逃れて警察に保護を求めたスリランカ人女性が、ろくに治療も受けられずに収容所で亡くなったばかりだ)
ゴーウエスト:原発事故避難者は福島出身者だけではない。関東にも多くのホットスポット(放射能汚染区域)が存在する。原発事故隠し・被曝隠しの五輪、偽りの復興を演出する為の五輪なぞ真っ平だ。(安倍は「アンダーコントロール」と平気で嘘をついた。)
労働者共闘:天皇が五輪に懸念を示したのは、決して国民の事を心配したのではない。その証拠に、天皇自身もJOC(日本オリンピック組織委員会)の名誉総裁に収まっているではないか。この”懸念”発言は、感染拡大した際の責任逃れの予防線に過ぎない。(なるほど、そういう見方もあったのか。たとえ五輪”懸念”発言であっても、天皇の政治的発言は許されない。これを認めてしまうと、五輪”懸念”から”賛成”に変節しても誰も咎められなくなる)
連帯労組:企業に生コン品質保持や暴力団排除を求めたら逆に警察に威力業務妨害で弾圧された。既に89名もの組合員が逮捕され、67名も起訴されている。警察権力による労働組合弾圧に抗議する。
リニア市民ネット:不要不急のリニア建設で静岡県の水がめである大井川の水源が枯れようとしている。知事選では自民党の妨害を跳ね返してリニア建設反対の知事再選を勝ち取った。不要不急の五輪開催強行でコロナ感染拡大したら一体誰が責任を取るのか?
 
ここで岐阜県から飛び入り参加された女性から発言あり。戦時中の強制連行の地下壕保存運動を地元でやっている女性からの発言でした。先日、NHKから取材があり放送予定も組まれたが結局、五輪で立ち消えになってしまった。オリンピックのお祭り騒ぎより歴史の真相解明の方が大事ではないか。
 
 
そして15時からデモ行進に移りました。約60名ほどの小規模なデモでしたが、自転車のデコレーションや阪神タイガースをもじった反戦タイガースの人達が華を添え、大変賑やかでした。ただ、少々気になる事が…。それは、コーラーの女の子も元気が良くてデモが盛り上がったのは大変良かったのですが、エキサイトするにつれ、本題の五輪反対からそれて天皇制廃止までシュプレヒコールしだしたのには、少し驚かされました。
 
確かに、現天皇がJOCの名誉総裁を務め、元皇族の竹田恆和もかつてJOCの会長に就任した事からも明らかなように、天皇家と五輪の関係は密接です。また五輪自身も、過去にベルリンオリンピックがナチスの宣伝に利用されたのを見ても分かるように、オリンピックは決して「平和の祭典」なんかではありません。むしろ、国家主義や軍国主義の宣伝に利用されたり、商業主義(スポンサー企業による金儲け、利権漁り)、競争至上主義(スポーツ環境の整った先進国の選手がどうしても有利になる)に偏ったりするおそれが多分にあります。
 
 
右:公園を出て、左:千日前通りを行くデモ隊。
 
「そんな物に人や金を使うぐらいなら、コロナ対策に回せよ」というのが、庶民の素朴な感情です。でも、そこにいきなり「オリンピックは中止だ中止!天皇制も廃止だ廃止!」とコールされると、あくまで「五輪反対」で参加した私としては、面食らってしまいます。勿論、私も本音は、今の天皇制には(象徴天皇制も含めて)反対です。たとえ「象徴」であっても、「天皇」と言う特別な身分を温存する事は、「法の下の平等」を謳った民主主義の原則に反するからです。
 
左:アメ村付近を行くデモ隊、右:反戦タイガースの面々。
 
しかも、その「天皇」のせいで、かつての戦争も、「神聖不可侵の天皇が決めた事だから」国民は一切反対できませんでした。「アジアを白人の植民地支配から解放する」(大東亜共栄圏)という名目で、実際は日本が欧米の代わりにアジアを植民地支配しようとしただけの戦争。そんな無謀な戦いに国民が巻き込まれ、中国・朝鮮・台湾を始め、多くのアジア人を殺害し、日本人にも多くの犠牲が出ました。その責任を天皇家は今も取っていないではないですか!
 
左:心斎橋大丸前、右:南海難波高島屋前を行くデモ隊。
 
だから、将来的には、私も天皇制は廃棄すべきだと思います。そして、日本が「普通の共和国」になる事で、初めて天皇も、職業選択の自由などの基本的人権を認められ、普通の市民として暮らしていけると思います。映画「ラストエンペラー」の溥儀のように。前天皇(昭和天皇)の戦争責任を追及出来ないまま、前天皇を死なせてしまった事については、かえすがえすも非常に残念に思いますが。少なくとも戦後生まれの今の天皇については、戦争責任を直接問えない以上は、もう天皇の戦争責任を云々するよりも、天皇制という制度自体を廃棄してしまう方が、よっぽど理にかなっています。
 
大体からして、今の日本で、「天皇陛下万歳!」なんていまだに言っているのは、年寄りと一握りの右翼だけです。その他の人々は、天皇の事に関心なんてほとんどありません。自民党や右翼が余りにもうるさいので、崇拝しているふりをしているだけです。それが証拠に、年号表記に元号(昭和、平成などの和暦)を使用する人も、履歴書記入や住民票申請の際には和暦を用いなければいけないから渋々使用しているだけで、別に天皇を崇拝しているからではありません。「そういう縛りさえなければ、1989年と西暦で通す方が、昭和64年を平成元年に読み替える手間も省けて便利だ」と、和暦派の人自身も言っています。

ネトウヨ(ネット右翼)が天皇崇拝の真似事をするのも、多くの場合は、単に左翼への「当てつけ」でしかありません。ネトウヨが本心から天皇を崇拝しているなら、「日本をトリモロス」なんてふざけた安倍人形を、神聖な(?)靖国神社の土産物屋で喜んで買ったりしないはずです。「そんな事よりコロナ対策を何とかしてくれよ!」と言うのが、国民の大多数の本音だと思います。その中で、コロナに直接関係ない「天皇制廃止」のスローガンに、デモ主催者が何故そこまで固執するのか私には理解出来ませんでした。
 
「天皇の五輪開会発言は憲法違反」「天皇のお言葉で政治に介入するな」というコールならまだしも、いきなり「五輪は中止だ中止!天皇制も廃止だ廃止!」とまでコールしてしまったら、何も知らない沿道の見物人はドン引きしてしまうと思うのですが…。右翼の「天皇陛下万歳!」にも違和感感じる代わりに、反五輪デモの「天皇制廃棄」にも違和感感じる、そんな沿道の見物人にも理解出来て支持してもらえる様なシュプレヒコールにする必要があるように感じました。
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西成の住宅崩落事故に思う

2021年06月26日 13時35分49秒 | 西成南京虫騒動
 
昨日発生した大阪市西成区天下茶屋東の住宅崩落現場へは、私の住むマンションからも徒歩15分ぐらいで行ける事が分かり、早速現場の様子を見て来ました。
 
 この記事の要約:6月25日午前7時過ぎに住民から水漏れの通報あり。その15分後にまず1棟2軒の住宅が崖下に崩落。ここには親子が住んでいたが、家のきしむ音がして2人とも6時半に避難して無事だった。次いで10時半頃、隣の1棟2軒も崩落。こちらは空き家だった。崖下の老人福祉施設建設工事との関連は不明。今も崩落やガス爆発の危険があり、警察が住民に注意を呼びかけている。
 
新世界のジャンジャン横丁から動物園前商店街を南下し、飛田新地を横切り料亭「鯛よし百番」の先で阪神高速のガードを潜り、天下茶屋東の地先に入ると、もうすぐ先に崩落現場がありました。崖沿いを走る道がちょうど西成区と阿倍野区の境界です。その崖沿いの道に面して、4軒ほど民家が立ち並んでいました。崖の急斜面に石垣を築き、その上に家が建てられていました。崖の下にも民家が立ち並んでいました。
 
グーグルマップで確認すると、つい数日前までそこには2棟4軒の住宅が崖上に並んで建っていたはずですが、既に4軒とも跡形もなく崩落していました。残る1軒も土台が流され、いつ崩落してもおかしくないほど危険な状態にありました。
 
 
報道では、崖下で施工中の老人ホーム建設工事による影響が指摘されていますが、私が見た感じでは、それ以前に、もともと急斜面に住宅を造った事自体に無理があるように思います。
 
崩落事故があった崖は上町台地の一部です。事故現場は昔から一部の地質学者の間では湧水が出る場所として知られていました(下記参照)。上町台地には、この他にも「清水谷」や「清水寺」「清水坂」の地名もあります。「清水寺」の境内には「玉出の滝」もあります。滝と言うよりもむしろ掛樋ですが。崖下の湧水地(湧水が出る場所)は、住民に清涼な生活用水を提供する一方で、災害時には鉄砲水や土砂崩れを引き起こす危険が今までもたびたび指摘されて来ました。上町台地自体も、超一級の活断層である上町断層が台地の下を走っており、地震の際には甚大な被害が出る事が予想されます。
 
 この記事からも、崩落事故現場は上町台地の中でも今でも湧水が出る場所として知られていた事が分かります。
 
「清水坂」の道標と「玉出の滝」。
 
もっと言えば、上町台地自体が「格差の象徴」でもありました。台地の北端には大阪城が周囲に睨みを利かし、谷町筋沿いには府庁を中心に官庁街が形成され、大手前・天王寺高校、星光学園、清風高校などの進学校が軒を連ねます。それとは対照的に、崖下の災害常襲地帯には飛田新地やあいりん地区、未解放などの被差別民の生活空間が広がります。あいりん地区から天王寺に向かってあびこ筋の坂を上ると、台地に差し掛かるあたりで風景が一変します。それまでの低層住宅から、いきなり高層住宅に変わります。その先にはあべのハルカスがあります。あべのハルカス最上階のレストランでは一番安いカレーライスでも900円もします。とても我々には手が出ません。
 
あいりん地区から天王寺のあべのハルカスを望む。飛田新地の時計台から崖上の阿倍野再開発地区マンション群を望む。
 
昨日の崖下崩落現場も、崖上の民家の標高こそ台地と同じ高さでしたが、すぐ横には阿倍野斎場の墓地が広がっていました。崖下には一般の住宅や保育所が建っていましたが、中には老朽化して空き家みたいになった家もいくつかありました。
 
奇しくも同じタイミングで、米国フロリダ州マイアミ近郊にある12階建てマンションが崩落する事故がありました。このマンションは1981年に建てられました。私の住むマンションも、1987年(昭和62年)に建てられてから既に30年以上経ちます。廊下には雨漏りする場所もあるので、とても心配です。
 
 この記事の要約:6月24日午前1時半(日本時間同日午後2時半)、米国フロリダ州マイアミ近郊の海沿いにある12階建てマンションの一部が崩落した。少なくとも4人が死亡、11人が負傷、居住者ら159人の安否が不明。マンション136戸のうち55戸が崩落に巻き込まれた。既に30人以上を救助したが、海浜リゾート地に建つマンションで季節滞在者も多い為に、いまだに連絡の取れない住民も少なくない。
 
今、大阪市は「新今宮ワンダーランド」と称して、新世界や西成のあいりん地区を「人情あふれる下町」として宣伝する観光キャンペーンを展開しています。しかし、その裏では、商店街は寂れ、昔からの老舗がどんどん居酒屋に置き換わっています。一歩路地裏に回れば老朽化した民家も目立ち、民泊業者による地上げも本格化しています。大阪市は今回のコロナ禍でも医療崩壊を引き起こし、持続化給付金や休業・時短支援金の支給も遅れに遅れました。観光キャンペーンよりも先にやらなければならない事が、他にいくらでもあるはずです。
 
大阪市に本気で西成を「人情あふれる下町」にする気があるのなら、観光キャンペーンに血道を上げるよりも、実際にそこで暮らす住民の生活環境や住環境の改善を図る方が先決ではないでしょうか?
 
老朽化した崖下の住宅、民泊に衣替えする路地裏の住宅。
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空襲から市民の命を救った大阪の地下鉄

2021年06月20日 11時38分30秒 | 映画・文化批評

先日、本屋に立ち寄ったら一冊の本が目につきました。坂夏樹・著「命の救援電車-大阪大空襲の奇跡」(さくら舎)です。1945年3月14日未明の大阪大空襲で、深夜で動いていないはずの地下鉄がその日は動き、市民を安全な場所まで運んだ…という逸話について調べた本でした。私もそういう話がある事は知っていましたが、公式記録は一切残っていません。地下鉄自体は空襲の被害を免れたとしても、空襲であたり一面焼け野原となった大阪で、電車を動かす余裕なぞあろう訳がありません。私は今まで、これは単なる「都市伝説」だろうと思っていました。ところが、実際にその証言を集め、真偽を確かめた本が、こうして目の前にあります。思わず購入し、2日間で一気に読み終えました。

実際に、「3月14日の未明も地下鉄だけは動いていた。その為に、都心の心斎橋から梅田・天王寺方面に、電車に乗って避難できた」という証言が、数多く存在し、新聞やNHKの朝のドラマでも取り上げられて来ました。その一方で、そのような公式記録は一切存在せず、真相は闇の中でした。その中で、本書は数々の証言を繋ぎ合わせる事によって、救援電車の全体像を浮かび上がらせる事に成功しました。

大阪の地下鉄は、1933年に梅田・心斎橋間で開業したのが最初です。そして、大阪大空襲の頃までには、梅田から天王寺まで繋がっていました。当時、地下鉄が開通していたのは東京と大阪だけです。東京の地下鉄は民間の手によって開業し、既存の道路に沿って建設が進められました。その為にカーブが多く、トンネルも浅く掘られた為に、空襲では大きな被害が出ました。それに対し、大阪は、御堂筋の建設など、当時の都市計画に沿って、大阪市主導で建設が進められました。その為に、幹線道路沿いにまっすぐに伸び、トンネルも深く掘られたので、空襲下でも電車を動かす事は可能でした。

しかし、それでも疑問は残ります。①空襲があったのは前日の深夜から未明にかけてです。普段でも送電は止められている時間帯です。ましてや空襲の混乱の中で、どのようにして送電が行われたのでしょうか?②当時の地下鉄路線は、梅田・天王寺間と、途中の大国町から枝分かれして花園町まで一駅の区間しかありませんでした。いずれも都心部で、どこも空襲の被害を免れる事は出来なかったはずです。どこにそんな「安全な場所」なぞあったのでしょうか?③当時の国民は防空法という法律で、空襲下においても初期消火の義務が課されていました。空襲だからと言って、簡単に避難なぞ出来なかったはずです。

それに対し、本書では次のように答えています。①大阪市の幹部の中には、3月10日に東京、12日に名古屋が大空襲に見舞われた事から、次は14日に大阪が狙われると予想していた人もいました。その為に、当日は夜も地下鉄への送電を止めないよう極秘指令が出ていたのです(当時は電力供給も大阪市が担っており、自前の変電所も所有していました)。②大阪大空襲では、米軍は市内の東西南北4ヵ所に照準を定め、逃げ道をふさいで市内を絨毯(じゅうたん)爆撃する焦土作戦を展開しました。そうする事で、戦意喪失を狙ったのです。しかし、その中で、北区扇町付近に設定された照準点だけは、他の3ヵ所とは違い、延焼範囲は小幅に収まりました。多分、梅田のビル街で延焼が食い止められたのでしょう。その結果、梅田方面に逃げた人は助かったのです。

上記は「命の救援電車」に掲載された空襲当時の大阪市街図。◎印の4ヵ所の照準点のうち、北区扇町の照準点(図中の爆撃中心点4=赤枠で囲った部分)のみ延焼範囲が小さい事が分かる。

勿論、戦時下の事ですから、地下鉄もダイヤ通りの運行なぞ出来るはずありません。車両が故障しても直す部品がなく、整備不良のままで地下鉄を運行していたので、常に事故の危険とは隣り合わせです。動かせる車両も限られ、間引き運転が常態化していました。空襲警報が発令されれば、もうそこで運転は取りやめです。そうやって前夜に運転を打ち切り、途中駅に止まっていた車両や、送り列車(始発電車を運転する運転手と車掌を運ぶ回送列車)や始発電車などが、救援電車として走ったようです。

③避難民を地下鉄の駅に誘導したのは駅員だけではありません。警察官や憲兵の中にも、少なくない人たちが避難民を駅に誘導しています。初期消火もせず逃げ出した市民なぞ、彼らからすれば、取り締まるべき「非国民」に過ぎないはずなのに。ひょっとしたら、彼らも、焼夷弾の威力を目の当たりにして、初期消火の非を瞬時に悟ったのではないでしょうか?燃えるガソリンが空中で一杯炸裂してあたり一面に降り注ぐ。それが焼夷弾です。消防車ですら手も足も出ないのに、初期消火の「バケツリレー」なんかで、焼夷弾に対応できる訳がないでしょう。

戦時中はマスコミは完全に統制されていました。この3月14日未明の大阪大空襲すら、実際は米軍のB29が274機もの大編隊で大阪に襲い掛かり、市内を焦土と化した挙句に、ほとんど無傷で生還しているのに、大本営発表では「90機中11機撃墜、60機以上に損害を与えた」事になっています。大阪大空襲の日の朝も、空襲の被害に遭わなかった梅田駅では、普段と変わらぬ服装で乗車し、心斎橋駅から乗ってきた避難民と遭遇して、初めて大空襲があった事を知った人もいたようです。その日、救援電車が走った事も、公式記録からは抹殺されました。

当時、国民には「時局防空必携」という冊子が配られ、「焼夷弾なんて発火する前に庭につまみ出せば大丈夫」「それよりも延焼を防ぐために焼夷弾の落ちた周囲に水を撒け」という、もうトンデモとしか言いようのない指示が、政府や軍部から出されていました。その為に、東京大空襲では10万人もの都民が焼け死ぬ事になってしまったのです。大阪大空襲の死者も、公式には4千人とされていますが、実際には数万人に上るだろうと言われています。

上記は大前治・著「逃げるな、火を消せ! 戦時下『トンデモ防空法』」(合同出版)に掲載の当時の防災ポスター。「焼夷弾の火を消すよりも周囲の延焼を防げ」と、トンデモな解説をしている。焼夷弾の火がついた瞬間、周囲の全ての物が黒焦げとなるのに。

これは何も戦時中の大阪の地下鉄だけに限った話ではないでしょう。今も、多くのコロナ重症患者が、医療崩壊で病院に入院も出来ずに、自宅待機のうちに亡くなっています。マスコミで報じられる毎日の感染者数や陽性率も、PCR検査もろくに行われない中で、少なく見積もられた数に過ぎません。ワクチン接種も、諸外国と比べ、遅れに遅れまくっています。その中で、五輪だけは小学生も動員して歓迎行事が行われようとしています。この隠ぺい・ゴマカシ・弱者切り捨て体質こそ、戦時中の「大本営発表」「時局防空必携」と瓜二つではないか!

その戦時中のマスコミ統制の中においてすら、大阪大空襲の日時を正確に言い当て、防空法違反に問われるのも承知の上で、市民に避難を促した人たちがいました。「非国民」であるはずの防空法違反者を地下鉄に誘導して、市民の命を救った警察官や憲兵も少なからずいました。ところが、空襲の夜に救援電車が走った事は、もはや隠しようのない事実なのに、いまだに公式記録からは抹殺されたままです。抹殺の理由については、戦後の戦犯追及を逃れるためだと言われていますが、私はそれだけではなく、防空法違反に問われるのをおそれたからでもあると思います。今からでも遅くはないから、史実の掘り起こしと関係者の表彰を行うべきです。

マスコミも「大本営発表」ばかり垂れ流さず、もっと真実を報道すべきです。市民もいたずらに「大本営発表」だけに頼るのではなく、自分でも真相を知ろうと努力し、行動すべきです。自身と仲間の命を守り、日本の民主主義を守る為にも。

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ティファニーで朝食を。釜ヶ崎と非正規の解放を。

2021年06月14日 20時55分18秒 | 貧乏人搾取の上に胡坐をかくな

前回記事で紹介した例の旅行記ですが、今から思うと甘めの評価でした。旅行記がネットに公表された後、元ホームレス当事者の方の感想など読む中で、自分もいかにあいりん地区の事に無頓着であったか思い知らされました。

例えば、あいりん地区にやって来た旅行者の女性が、ひょんな事から野宿者の方と仲良しになり、一日限りのデートで彼に食事やたばこをおごる話の中でも。女性から自分の特技を聞かれて、「九九」や「ドッジボール」と答える野宿者の反応を見て、私もつい笑ってしまいました。当初はほほえましいエピソードにしか思わなかったその場面も、小学校の授業で習う「九九」や「ドッジボール」しか、彼には良い思い出が無かった事を思うと、笑って済ませられる話ではないのに。

そもそも、最初の居酒屋で見知らぬおっちゃんがこの女性に2千円おごったのも、彼女と楽しい時間が過ごせたからです。そのお礼の意味をこめておっちゃんは2千円払ったのです。多分、その場の勢いもあったのでしょうが。おっちゃんにとっては、あくまでフィフティ・フィフティのつもりで払ったのです。

それに対し、野宿者の方は、濡れタオルを入れるビニール袋を渡しただけなのに、890円の定食に560円のたばこ、130円の缶コーヒーまでおごられたのでは、もう女性に何も言えないじゃないですか。もう頭が上がらない。言いなりになるしかない。

そうやって、女性の言いなりになるしかない野宿者の人に、「缶コーヒーおごってやった代わりに私をほめてくれ」と、この女性は言ったのですよ。今までの人生の中で、ほとんどほめられた経験のなかった人に。見ようによっては、これほど残酷な事はありません。

しかも、よりによって「ティファニーで朝食を」という映画の名前を記事の題名にして(「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」)、ネットに公開してしまいました。この映画は、往年の大女優オードリー・ヘップバーンの名演技でヒットしましたが、その内容は新人女優の成り上がり物語です。おそらく、この女性は、そんな映画のあらすじとは無関係に、松のやの定食に引っ掛けて、この名前を記事の題名にしたのでしょう。しかし、それが更に油に火を注ぐ結果となってしまいました。「あんた、何を女優気取りでおんねん。しかも、野宿者を自分の引き立て役にして」と。

だから、元野宿者の方から、「珍獣扱いするな!」と、猛抗議を受ける羽目になってしまったのです。

でも、この旅行者の女性だけが悪いのでしょうか?一番悪いのは、この女性をここまでミスリードに追い込んだ、「新今宮ワンダーランド」「新世界・西成ワンダーランド!」の観光キャンペーンそのものではないでしょうか?

何故そう思うのか?ここで一つ質問します。皆さんは、どこからどこまでの範囲が「あいりん地区(釜ヶ崎)」だと思いますか?

そう聞かれると、大抵の人は「JR・南海と堺筋に囲まれた南北に細長い地域」と答えるはずです。住所で言えば、大阪市西成区萩之茶屋1・2・3丁目です。そのほとんどが日雇い労働者のドヤ(簡易宿泊所)街です。それに加え、堺筋より東側の太子1・2丁目も、民家の中にドヤが点在しているので、「あいりん地区」に含める人が多いはずです。

どちらにしても、JRより北側の新世界は含まれないはずです。あいりん地区とは違い、新世界にはドヤはありませんから。そもそも新世界は、浪速区の一部であって、西成区ですらありません。そういう、あいりん地区とは本来全く異質な地域であるにも関わらず、「優しい街、下町の人情が残る街」という多分に情緒的な言葉で、あいりん地区と一括りにして、大阪市の観光キャンペーン対象地域に含まれてしまいました。

左:あべのハルカスを動物園前商店街から望む。右:星野リゾートがJR新今宮駅北側に開業予定のOMO7(オモセブン)と、その横に建つ低所得者向けの大隅アパート。

※上図は、大阪商工会議所が阪南大学の研究室と共同制作した「新世界・西成食べ歩きマップ」。「新今宮ワンダーランド」観光キャンペーンの為に作られたものの一つだが、最初の曼陀羅の地図(同キャンペーンPR地図)とは違って、堺筋・阪堺線以西のあいりん地区はほとんど無視されてしまっている事が分かる。この事から、いくら同キャンペーンであいりん地区の歴史や日雇い労働の現状について力説しようとも、観光の重点はあくまで堺筋より東側の新世界・動物園前商店街にある事が、はからずも証明されてしまった。

だから、この旅行者の女性も、「優しい街、下町の人情の残る街」とホンワカ気分で、野宿者の人に接してしまったのです。野宿者の人にとっては、餓死や凍死と背中合わせで、不良少年の襲撃からも身を守らなければならない、およそ「優しさ」とか「人情」とは無縁の、生きるか死ぬかの毎日なのに。

大阪市は、何故そんなミスリードを誘発するような観光キャンペーンを敢えてしたのか?あいりん地区だけでは観光にならないからです。今から15年ほど前までは完全なスラム街で、麻薬の密売買も横行し、暴動もしょっちゅう起こっていた地域に、昔は観光に来る人なぞほとんどいませんでしたからね。今も年配の人は、この地域に近づこうとはしません。

ところが、交通の便が良い、宿泊代も安いという事で、外国から観光客が押し寄せるようになり、今までスラム街だった所が観光地に生まれ変わりました。近くには繁華街の新世界もあります。難波や天王寺のターミナルにも近い。行政や企業からすれば、まさに「ひょうたんから駒」です。だから「人情の街」というキャッチで、新世界もあいりん地区もお上の都合で全てぶっこみにされ、一大観光キャンペーンが張られた為に、旅行者の女性のミスリードを誘発してしまったのです。

確かに、あいりん地区にも「優しさ」や「人情」はあります。しかし、それは単なる「下町情緒」なぞという甘っちょろいものではありません。もっと過酷な、それこそ生きるか死ぬかのギリギリの所から生まれて来た処世訓です。

あいりん地区に「来たらだいたい、なんとかなる」(新今宮ワンダーランドのキャッチコピー)のは、そうしなければ、誰も生きて行けないほど、過酷な環境下にあるからです。早朝の午前4時に起きて5時にはあいりんセンターで職探しをしなければならない。その職種も、キツい、汚い、危険な建設現場の土工やとび職が大半です。そんな所には食い詰めた人しか来ない。雇う方も雇われる方も、従業員や仕事をえり好みなぞしていられない。それが「西成に来さえすれば仕事にありつける」「えり好みさえしなければいくらでも仕事はある」という事の本当の姿です。

そんな中では、お互い助け合わなければ生きていけない。ドヤには敷金も保証金も不要で一日の宿泊費さえ払えばすぐ泊まれるのも、住所不定の食い詰めた客ばかりだからだ。雑貨屋も、早朝から動き出す労働者の動きに合わせて、朝6時には商売を始めなければならない。ほとんどの住民は、風呂もトイレもない、洗濯機も室内にはおけないドヤ住まいだ。それを当て込んで、銭湯やコインランドリーが街中に乱立するようになる。工事現場の飯場を渡り歩き、狭いドヤには自分の荷物も置けない人も多い。それを当て込んでコインロッカー屋も乱立するようになる。単身者のドヤ住まいで、部屋の中にはキッチンも満足になく、自炊が難しい人も多く住む。それを当て込んで、弁当屋も乱立するようになった。

それを何も知らない観光客が見て、「ドヤは敷金も保証金も不要で、その日から泊まれる。店も朝早くから開いている。何て便利な街なんだ」「あちこちに弁当屋や銭湯があるとは、何て下町情緒にあふれた優しい街なんだ」と勝手に感動して、「人情味あふれる下町」神話が出来てしまったのです。

実際には、観光客で潤う表通りの小洒落たホテルと、その恩恵を受けない裏通りの古い福祉アパートやドヤという形で、あいりん地区内にも格差が広がっているのに。

本当にあいりん地区の事を知りたいと思うのであれば、新世界の串カツ屋や、あいりん地区の居酒屋だけ見るのではなく、野宿者支援の炊き出しや夜回りにも参加したら良いのです。あいりん地区では、いくつもの団体が、炊き出しや夜回りに取り組んでおられます。そこまで無理だと言うのであれば、見るだけでも良いです。

野宿者の人に中途半端に飯をおごって、その人に惨めな思いをさせてしまうくらいなら、まだその方がよっぽど為になります。そのどちらも嫌だと言うのであれば、もう西成なんかよりも有馬温泉にでも行ってくれた方が、観光客にとっても良いだろうし、地元の私達も珍獣扱いされなくて良いです。

何も見てくれの良い上辺だけ見せるのが観光キャンペーンではありません。幾ら見てくれの悪い「地域の負の遺産」でも、歴史的価値や社会的価値があるなら、それは立派な観光資源です。現に、原爆ドームや沖縄のチビチリガマも、そうやって観光地に立派に脱皮できたではないですか。あいりん地区の貧困も、その原因と対策を知る事で、派遣切り対策やブラック企業対策に活かせるなら、それは立派な観光資源となります。そこまでやってこそ、初めて「新今宮ワンダーランド」の観光キャンペーンをやる価値があると思います。

左:あいりん地区内にも建ちだしたオートロックのホテル。右:昔ながらの一泊500円のドヤ。

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ティファニーで朝食を。やられたらやり返せ。

2021年06月09日 12時31分00秒 | 貧乏人搾取の上に胡坐をかくな

 

ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」という旅行記があります。大阪市のあいりん地区観光キャンペーン「新今宮ワンダーランド」の協賛記事です。最近、本屋の店頭に並ぶようになった「新世界・西成ワンダーランド」という雑誌で、このキャンペーンが盛んに宣伝されています。そのキャンペーンの為にかかれた旅行記がネットで炎上してしまいました。

…新今宮ガード下の立ち飲み屋で見知らぬおっさんと意気投合し、おごってもらった上に、行きずりの銭湯でも、入浴客のおばちゃんからシャンプーまで借りる事が出来た。ここは何て優しい街なんだ。次からは借りた分だけお返ししなければ。
 
そう思っていた矢先に、ジュースが漏れて鞄が濡れてしまった。タオルで鞄を拭いていたら、通りがかりの野宿者が、濡れタオルを入れるビニール袋をくれたが、代わりに「ラーメン代に100円恵んでくれ」と言われた。
 
よし、この野宿者の人にお返しをしよう。そうして、野宿者の人にあいりん地区のツアーガイドをやってもらう代わりに、「松のや」の定食と煙草と缶コーヒーと銭湯代をおごる事にした…という形で、話は進んでいきます。それが「ホームレスを見世物にしている」と叩かれたのです。
 
 
しかし、私には、この町がそんなにフレンドリーだとは、とても思えません。確かに、この街は優しいです。何せ、銭湯が街中に9軒もあり、早朝6時から営業しているのですから。コインランドリーもあちこちにあり、中には洗剤無料(ご自由にお使い下さい)の店もあります。
 
その一方で、日雇い労働者のドヤ(簡易宿泊所)を観光客向けにリニューアルしたホテルに住んでいた時には、廊下に人糞が落ちていたのを目撃したし、共同浴場でヤクザが暴れ回っている場面に遭遇した事もありました。
 
挙句に、隣人との騒音トラブルに巻き込まれ、部屋の壁がベニヤ板造りの安普請である事を知り、遂にホテルを解約し、今の賃貸物件に住むようになりました。
 
あいりん地区では、1961年から2008年までの間に、24回も暴動が起こっています。そのうちの10回ぐらいが、野宿者と近隣の商店主、パチンコ店、簡易宿泊所、病院等とのいざこざが原因です。
 
最後の2008年に起こった暴動も、野宿者が鶴見橋商店街のお好み焼き屋で邪険に扱われたのを怒って、警察に通報されたのが原因です。この旅行記を書いた女性が、銭湯でシャンプーを借りる事が出来て、優しい街だと感動した。その銭湯のある鶴見橋商店街が、暴動の発火点になっているのです。
 
あいりん地区の町中には、「居酒屋で覚醒剤を売るな」という標語が、今もそこかしこに掲げられています。これは脅しでも何でもありません。過去には実際にそういう事が行われ、今もこうして撲滅キャンペーンが張られているのです。旅行記の女性がおっちゃんにビール代をおごってもらい、街の優しさを実感した、居酒屋のまた別の一面がそこにはあります。
 
 
実際のあいりん地区の住民は、よそ者を極端に敬遠します。よそ者と目があっただけで、「何メンチ切ってんねん!」と言われかねない近寄りがたさがあります。その一方で、一旦親しくなれば、今度は打って変わって馴れ馴れしくなります。両極端で中間がないのです。
 
その雰囲気は、競馬場やウインズ(場外馬券売り場)のそれとよく似ています。競馬場やウインズでは席取りや馬券購入の順番を巡るトラブルが日常茶飯事です。その一方で、「馬券が外れた」と思わず呟いたら、隣にいた見ず知らずのおっちゃんから「おっ、兄ちゃんもか」と声をかけられ、意気投合し、帰りに居酒屋で酒を酌み交わす事も珍しくありません。
 
上記のTシャツは、私が数年前に、あいりん地区の夏祭りで買ったものです。表には「黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ」、背中には「釜ヶ崎解放」の文字が踊ります(釜ヶ崎:あいりん地区の旧称・通称)。
 
数年前の夏に、これを着て、上からジャケットを羽織り、会社に出勤しようとしたら、動物園前駅の前で、見知らぬおっさんから声かけられました。
 
「兄ちゃん、そのTシャツ、カッコいいな!一体何て書いてあるねん?何々、黙って野垂れ死ぬな、やられたらやり返せ…おう、その通りや!黙っとったらあかんねんでー!」と、そのおっさんは、私をなかなか離してくれませんでした。
 
私はこれから会社に出勤しなければならないのにw。このままでは電車を乗り過ごしてしまう。この時は、話を振り解くのに一苦労しましたw。
 
「何メンチ切ってんねん!」と「おう、その通りや!」の両極端で、その中間がない。つまり「裏表がない」のです。だから、こちらも余計な事に気を使わずに済みます。「空気を読め」とか「忖度(そんたく)する」とか、そんな「相手の顔色を伺い、言いたい事も言えない」最近の風潮とは無縁の世界がそこにはあります。
 
これこそが、あいりん地区の最大の魅力だと思います。私は、大阪市内の他の下町にも、賃貸物件の下見に訪れたりしましたが、そこでは大なり小なり、ある種の疎外感を感じざるを得ませんでした。
 
どんな疎外感か?まず街に活気がありません。ほとんどの商店街がシャッター街と化してしまっています。平日の休みに訪れたからかも知れませんが、若い人をほとんど見かけませんでした。そして、老人や貧乏人は、肩をすぼめて街の片隅を歩いている…そんな感じが、どうしても否めませんでした。
 
他方で、あいりん地区も、他の下町と同様に、住民の高齢化が進んでいますが、前述の疎外感は露ほども感じません。それは何故なのか?
 
他の下町にはなくて、あいりん地区にだけあるもの。それは暴動の歴史です。前述した様に、あいりん地区では過去に24回も暴動が発生しています。そのきっかけは、野宿者と近隣住民とのトラブルや、失業・低賃金、賃金をピンハネし暴力を振るう土建業者や手配師とのいざこざが原因でした。
 
その中でも、特に1970年代には1年に何度も暴動が起こっています。これは、当時、大学紛争を主導した新左翼系の学生が、あいりん地区に入り込み、ある種の窮民革命論を掲げて、暴動を扇動したからだと言われています。
 
確かに、そういう側面はあります。前述のTシャツに書かれた「黙って野垂れ死ぬな」の文言も、そんな新左翼の活動家が残した言葉だと言われています。
 
 
でも、「火のない所に煙は立ちません」。新左翼の扇動は、1972年の連合赤軍あさま山荘事件に見られるように、惨めな失敗に終わりました。過去のあいりん地区の暴動も、その大半は単なる暴発に終わり、数日後には収まっていきました。しかし、その中で、ヤクザ支配を跳ね返し、後の権利獲得に繋がる闘いに発展した暴動がありました。それが1972年5月の第14次西成暴動です。
 
1972年5月に、あいりんセンターで見つけた求人に応募した労働者が、話が違うと飯場から逃げ帰って来ました。勤務地が市内と求人票にあったので、てっきり大阪市内の求人だと思い、応募したら奈良の西大寺まで連れて行かれたそうです。そこで抗議したら「奈良市内も市内やないか」と脅されて、逃げ帰って来たのだそうです。
 
日雇いの求人なので、交通費なんて出ません。たかだか数千円程度の日当で、遠方まで連れて行かれて現地解散では、大した稼ぎにはなりません。そう思って逃げ帰って来たものの、センターの求人しか仕事はないので、翌日センターでまた新たな求人を探しているうちに、前日の業者とばったり鉢合わせになってしまったのです。
 
その業者は鈴木組というヤクザでした。そして就業先も、賃金ピンハネや暴力がまかり通る悪名高きケタオチ飯場でした。「貴様、昨日はよくもトンズラしてくれたな。ヤキを入れてやる!」と言う事で、危うく拉致されかけましたが、寸での処で仲間に救出されました。
 
怒った鈴木組は、今度は30人がかりでセンターに乗り込んで来ました。しかし、300人の労働者に取り囲まれ、すごすごと引き上げざるを得ませんでした。
 
今までヤクザの言いなりだった労働者が、ヤクザを追い出す事に成功したのです。この事件をきっかけに、釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)が結成され、各地の現場で、賃上げや労働条件の改善が進められるようになりました。最初は新左翼が主導した闘いでしたが、そのうちに労働者が個人で勝手に釜共闘を名乗るようになり、新左翼もその動きを把握できなくなってしまいました。
 
でも、所詮は労働組合にも加入しない日雇労働者の自然発生的な運動にとどまってしまったので、釜共闘自体も数年のうちに雲散霧消してしまいました。
 
しかし、何も成果がなかった訳ではありません。その闘争がきっかけで、あぶれ手当(注1)や特掃(注2)などの、失業対策事業が進められるようになりました。
 
(注1)あぶれ手当(日雇い労働求職者給付金)…労働者は1日働いたら自分の日雇手帳に収入印紙を業者に貼ってもらう。そうすると、もし翌月仕事に就けなくても、印紙の枚数に応じて規定の失業手当(あぶれ手当)を受け取る事が出来る。
 
(注2)特掃(高齢者特別清掃事業)…55歳以上の日雇労働者は、通常の日雇労働とは別に、あいりんセンターの委託先で、街の清掃や公共施設の補修、警備の仕事に、輪番制で就く事が出来る。
 
 
「新今宮ワンダーランド」のような官製キャンペーンの中だけでは、そんな歴史は分かりません。だから、こんな上澄みだけすくったような、いいとこ取りの、底の浅い旅行記になってしまったのです。
 
敢えてキツい事を言いますが、この旅行者にとっては、野宿者も所詮は「借りを返す対象」でしかなかったのです。もし、旅行者が貸し借りゲームに興じていなければ、野宿者に飯をおごる事もなかったはずです。
 
それでも、この旅行記は、読み物としては大変面白かったです。特に、九九やドッジボール、旅行者の女性が男湯に突進してしまった場面では、私も思わず笑ってしまいました。この旅行者の女性が、ここまで野宿者と交流出来た事については、ある意味凄いと思います。私にはとてもこんな真似は出来ません。
 
折角そこまで交流出来たのであれば、あいりん地区の歴史についても是非学んで欲しかったです。そうすれば、単なる「上澄み」だけでなく、もっと深みのある旅行記が書けたと思います。同じ飯をおごるにしても、わざわざ遠くの「松のや」まで行って、脂っこいチェーン店の定食を食べなくても、もっと近くに美味しい料理を味わる店が、いくらでもあるのですから。
 
例えば、釜ヶ崎の夏祭りで食べたカレーなぞもお勧めです。具が一杯入っていて大変おいしかったです。百円払えば野宿者以外の方も食べる事が出来ます。この女性にも、それを是非味わってほしかったです。
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清掃業者とトラブルの一部始終

2021年06月02日 20時19分13秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
先日の冷蔵庫の霜取りの件の続報です。実は清掃(霜取り)業者との間で少しトラブルになりました。幸い穏便に収まりましたが、今後の為に今までの経過を時系列でまとめておきます。
 
5月26日(水)
冷蔵庫に霜がこびり付いてなかなか取れなかったので、「冷蔵庫の霜取り」で検索して「ミツモア」という見積もりサイトにたどり着く。
そこで5軒の業者を紹介され、料金の一番安い「E社」に依頼。
ついでに浴室とトイレの清掃代金も見積もって貰うと、全部で2万1千円もする事が分かり、基本オプションの冷蔵庫の清掃(霜取り)9千円分だけメールで依頼。料金支払いもカード引落しではなく現地決済(現金払い)で。
 
 
5月30日(日)
行きつけの実家近くの鍼灸治療院で、先生との雑談の中で霜取りの話が出る。
先生から自力で霜取りする方法を聞き、その日のうちに百均で道具(食品仮保管用の氷とクーラーバッグ)を買い揃え、冷蔵庫の電源を落とす。
お陰で、あれほど頑固だった霜も、2時間余りで削げ落ち、霜取りが完了。
その日のうちにミツモアに依頼キャンセルのメールを送る。
 
 
6月2日(水)
私の外出中に、E社の担当者から電話が入る。「今、部屋の前にいるけど、留守で誰もいない。どこにいるのか?」。
「ミツモアに依頼キャンセルのメールを出した」と言っても「忙しくて見れなかった」。
しかも、「冷蔵庫の清掃代金だけでなく、オプションの浴槽とトイレの清掃代金も見積もりの中に含まれているので、それも含めて払って貰わなければ困る」と言って来た。
「それはないだろう。こちらはミツモアに冷蔵庫の清掃だけお願いしますとメールして、後でそれも来訪数日前にキャンセルする旨メールしている」と抗議。
すったもんだの挙句に「ミツモアのホームページ上で改めて依頼のキャンセルを出して欲しい」という事になり、支払い方法確定後のキャンセルだったので、ホームページの指示通り、ミツモア事務局にキャンセル依頼のメールを送る。
夕方、ミツモアからメールが来て、「正式にキャンセルを受け取り了承された」と報告を受ける。
 
 
以上がこれまでの経過です。
 
しかし、E社とのやり取りの中で、「問い合わせはミツモアのメールでも可能」とありました(最初のメール画像の赤線部分)。
こちらは業者の電話番号も分からないので、仕事の打ち合わせについては、ミツモアのサイト上で、メール交換するしかありません。
今回はたまたま私が外出中に業者が来たので、キャンセルを押し通す事が出来ましたが、もし在宅中に強引に部屋に入られたら大事になっていました。
 
相手がたまたま良心的な見積もりサイトと清掃業者だったので事なきを得ましたが、業者の連絡先電話番号も分からない見積もりサイトで仕事を依頼する場合は、くれぐれも慎重に行動すべきです。支払いはなるべく業務終了後の現金払いとし、それでも不安なら最悪、当日ドタキャンするのも場合によってはありだと思います。
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