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明知鉄道タイムトラベル

2021年11月23日 22時22分47秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
先週末の連休を利用して岐阜県の明知鉄道に乗って来ました。土曜日早朝に大阪を立ち、明和鉄道乗換駅の恵那には午前9時過ぎに着いたのですが、沿線の花白温泉がボイラー故障であいにく休業中。沿線には他に銭湯はなし。明智や岩村の街中にはあるだろうと思っていたが甘かった。後は1日数本のバスを乗り継いで山を越えた先に温泉が1軒あるのみ。そこで恵那峡近くの宿に日帰り入浴で立ち寄っていた為に、恵那駅に戻ったらもう昼過ぎになっていました。
 
昼食はコンビニのお握りとお茶で済ませ、食堂車が併設された大正ロマン号に飛び乗り、終点の明智まで向かいました。今の時期、食堂車ではキノコ料理が振る舞われていました。でも、松茸のフルコースならいざ知らず、普通の田舎料理しか出ない食堂車に乗るだけで、何故5500円も払わなければならないのか?私は食堂車は予約せず、千円の1日フリー切符で乗車しました。食堂を利用しない乗客は最後尾の普通車にしか乗車出来ません。
 
 
上記は明智駅構内に停車中の列車です。将来的にはSL(蒸気機関車)の動態保存も検討中だそうです。
 
終点の明智は製糸業で栄えた町です。近代化の波がいち早く及び、町中には洋風建築の建物が立ち並びました。それを保存して「日本大正村」として宣伝しています。明智では大正浪漫亭でコーヒーとパイのセットを注文し、漫画「鬼滅の刃」最終巻を流し読みした後、大正路地から大正村役場(旧明智町役場)、大正ロマン館(村にゆかりのある女優・高峰三枝子や力士の春日野部屋の遺品展示)、大正村資料館(大正時代の銀行蔵を改装)、大正時代館(大正時代の歴史・生活展示)を巡りました。
 
大正浪漫亭(左上)、浪漫亭の中の漫画コーナー(右上)
 
大正村役場(左上)、大正ロマン館(右上)
 
大正歴史資料館(左上)、大正時代館(右上)
 
漫画「鬼滅の刃」大ヒットの影響で、大正時代に世間の関心が集まっています。しかし、大半の人は「きらびやかなレトロモダンな服装がはやった時代」ぐらいのイメージしか持っていないのではないでしょうか。実は大正時代は、時代館の次の年表にもあるように、大きな歴史の転換期でした。(年号の元号は全て西暦に換算。…以下は年号記載の出来事に対する私のコメントです)
 
・第一次世界大戦勃発(1914年)…一国の紛争が最悪、世界戦争になる時代に。反戦世論も空前の広まりを見せるようになる。
・ロシアで社会主義革命(1917年)…8時間労働制や植民地の民族独立運動が広まるきっかけに。但しロシアでは共産党独裁に徐々に移行。
・スペイン風邪が大流行、死者2500万人(1918~19年)…今のコロナ大流行の先駆け。パンデミック(感染爆発)の教訓から何を学ぶか。
・関東大震災発生、死者・不明10万人以上(1923年)…今の阪神淡路大震災や東日本大震災にも多大な教訓残す。
・全国で米騒動、焼き打ち相次ぐ(1918年)…当時の新聞は当局の報道管制に逆らっても米騒動の事実を伝えるだけの気概をまだ持っていた。果たして今の新聞・テレビにそんな気概があるか?
・初の本格政党内閣の原敬内閣誕生・原首相暗殺(1919-21年)
・大正政変、民衆が軍閥政治倒す(1913年)
・普通選挙法と治安維持法の同時成立(1925年)
・吉野作造が「民本主義」を提唱、大正デモクラシーの理論的支柱(1916年)
…要するに、今まで財閥や軍閥に抑えられていた民衆が、次第に歴史の表舞台に登場してきた時代だったのです。
翻って現代はどうか?安倍や菅が公文書改ざんしてもお咎めなし。選挙の投票率も5割台の低空飛行。折角勝ち取った権利を再び手放すのか?今や安倍・麻生などの世襲議員が政界を跋扈。民衆が閥族政治を倒した大正時代の方が、まだよっぽどまともじゃないか。
 
明智の日本大正村を見学した後は、その日泊まる予定の岩村に移動しました。岩村は古くからの城下町で、町並みも当時のまま保存されています。そのせいか、町の雰囲気もしっとりと落ち着きがあり、ハイカラな明智とはまた違った印象を受けました。岩村に着いたらすっかり日が暮れて、商店街もほとんどの店がしまっていました。その中でまだ開いている喫茶店を見つけ、夕食を注文しました。その喫茶店は純喫茶で、食事のメニューはありませんでしたが、ママがメニューには無い桜えび入りの焼き飯を作ってくれました。その素朴な味に魅了され、帰ってからも自分で作るようになりました。
 
岩村で泊ったのはゲストハウスです。本当はもう少しまともなホテルに泊まりたかったのですが、どこも満室で、もうそこしか空いていませんでした。ゲストハウスなので素泊まりのみです。バスもシャワーだけです。しかも、私が泊ったのは、その中でも最低ランクの一泊3千円の部屋だったので、エアコンもなく、電気ストーブで暖を取りました。岩村は標高500メートルの盆地にあるので、夜は結構寒かったです。
 
喫茶店で食べた桜えび炒飯(左上)、ゲストハウスの寝床(右上)
 
 
岩村城下町の町並み(左上)、岩村歴史資料館横の紅葉(右上)
 
翌日・日曜日の午前中は、町はずれの岩村城跡に上りました。岩村城は日本でも有数の山城で、標高717メートルの高地にあります。戦国時代のお城なので、守りを固める為に、山頂にお城を築いたのです。お城の建物は戦で全て焼けてしまい、今は城跡の石垣だけが残っています。
 
岩村城はまた、「おつや」という女性が城主をしていた事でも有名です。この「おつや」ですが、元々は遠山景任(かげとう)という人の嫁でした、ところが、景任が先に病気で亡くなってしまったので、未亡人の城主として城を治めていました。そして、織田信長の五男で、まだ5歳だった御坊丸を養子にもらったりしていました。
 
そこに隣の信州を支配していた武田信玄配下の秋山虎繁が攻めて来ました(1572年)。おつやは信長の支援を頼りに籠城作戦に出ました。ところが、信長はその当時、長島一揆の鎮圧に手間取り、岩村城に援軍を派遣出来ませんでした。籠城は3ヶ月に及び、城内の食糧も次第に底を尽きかけて来ました。これ以上の犠牲は忍びないと、おつやは虎繁と結婚する事を条件に、無血開城する事にしました。
 
おつやは虎繁の妻になってからも、善政を敷き、領内の人々から慕われました。しかし、長篠の戦で織田信長が武田勝頼を打ち破り、形勢は逆転します(1575年)。織田信長は岩村城にも攻めて来ました。信長もおつや・虎繁に無血開城を迫ります。おつやは、虎繁と自分の命を助けてくれる事を条件に、無血開城を受け入れます。ところが、信長は助命の約束を反故にしてしまい、おつや・虎繁を逆さ磔(はりつけ)の刑にして殺してしまいました。これが、岩村城の女城主「おつや」の悲劇です。
 
私は、麓の岩村歴史資料館を訪ねた後、岩村城跡を目指しました。朝が寒かった事もあり、秋の軽装で標高700メートル以上もの高所にある城跡に登れるのか不安でしたが、急坂を登るうちに身体が温まって来ました。当日は地元でスタンプラリー開催中なのか、ゼッケンを付けた老若男女が大勢登っていました。
 
城跡入口の急な上り坂(左上)、城内の井戸の一つ「霧ヶ井」。岩村城の別名「霧が城」の基になった。(右上)
 
城跡の石垣。六段壁(左上)と長局埋門(ながつぼねうずみもん)跡(右上)
 
山頂の城跡碑(左上)、そこから岩村の城下町を望む(右上)
 
そして岩村の市街地に戻り、朝モーニングを食べた喫茶店で昼食を食べた後、岩村駅で列車交換の様子を撮影。その後、駅で電動自転車を借りて、レンタサイクルで花白温泉と山岡の駅も撮影して来ました。1時間に1本しかないダイヤで列車撮影していたのでは、満足な写真撮影は出来ませんから。お陰で効率良く撮影出来ました。
 
山岡駅では併設の寒天レストラン兼資料館で地元の寒天製造の歴史を学び、寒天ラーメンを購入しました。海で採った寒天を何故、山間の山岡までわざわざ運んで寒天にするのか?山岡の寒くて乾燥した気候が、心太(ところてん)を凍らせ乾燥させ寒天にするのに丁度良いからです。寒天ラーメンもヘルシーで腹持ちが良いと聞いたので、醤油味と豚骨味のラーメンを土産に買いました。
 
岩村駅の駅名標・おつや人形・鉄じい(明知鉄道のゆるキャラ)(左上)、岩村駅での列車交換風景(右上)
 
花白温泉駅と駅前の温泉施設
 
寒天ラーメン(左上)、山岡駅と併設の寒天レストラン兼資料館(右上)
 
ところで、明智の地名は明智光秀の生誕の地と伝えられるからですが(他にも生誕地とされる場所は幾つかある)、それが何故、旧町名は明智ではなく明知になったのか?まだ調べ切れていませんが、私が思うに、時の権力者から、光秀と関係があると思われるのを嫌ったからではないか?
 
明智光秀は後に本能寺の変で織田信長を殺しています。その為に、日本人の間では謀反人のイメージがこびり付いてしまっています。実際は、織田信長の方が、比叡山延暦寺の焼き討ちで僧侶を大量殺戮する等、もっと酷い事しているのに。
 
ところが、日本人の間では、その後の権力者の印象操作によって、謀反人=無条件で悪人のイメージが広められてしまいました。その為に、わざわざ町村名を明智から明知に変えたのかも知れません。
 
ウィキペディアで調べたら、明治の市町村制施行で誕生したのは明知町で、それが戦後に明智町に改名されていました。その後、恵那市に吸収合併されて現在に至ります。明知鉄道だけが戦前の名称を引きずっているのです。
 
以上、土日と明知鉄道に乗って、大正時代(明智大正村)と戦国時代(岩村城下町)をタイムトラベル(時間旅行)で追体験して来ましたが、2日間とも盛況でした。
 
まず観光列車の大正ロマン号に関して言えば、土曜日は前2両の食堂車が満席、後1両の普通車も半分ぐらい席が埋まっていました。
 
日曜日は更に混雑していて、前3両の食堂車が満席の上、後1両の普通車もすし詰めの状態でした。それ以外の車両も、1両編成が基本ですが、私が見た限りでは半分ぐらいの座席が埋まっていました。
 
とても旧国鉄から切り捨てられ、県や地元市町村が経営を肩代わりする事で、ようやく経営を維持している第三セクター鉄道とは思えない盛況ぶりです。
 
しかし数字は冷酷です。地元市町村の下記データを見ると、第三セクターに転換してからも、ずっと利用客数の落ち込みが続いています。1986(昭和61)年には年間89万人の利用客があったのが、2017(平成29)年には38万人にまで減っています。如何に平日の利用が少ないか分かると思います。特に近年は通学定期利用客の落ち込みが目立っています。
 
 
通学定期利用の落ち込みは、少子高齢化の進展によるものです。こんなもの明和鉄道の経営改善努力だけでどうにかなるものではないでしょう。正社員を非正規雇用に置き換え、社会保障費や消費税もどんどん値上げし、結婚・出産も出来ない低賃金・長時間労働の拡大に、政府が有効な対策を打てずに来たからこうなったのです。はっきり言って、これは政府の責任です。
 
その中でも、2006(平成18)年以降は利用客数の下げ止まりが見られ、年によっては微増に転じたりしています。これは、大正ロマン号の運行が始まり、食堂車を使用する人が増えたからだと思われます。政府がデフレに有効な手を打てない中でも、鉄道会社の努力と地域住民の支えによって、実際に雇用を生み出し、住民生活の向上が図られているのです。
 
明和鉄道で名古屋に出るには、一旦恵那に出て中央本線に乗り換えなければなりません。それなら、岩村や明知から国道を西に下って名古屋に向かう方がはるかに便利です。明和鉄道自体も、山間地を縫う為に、急カーブや急勾配の連続で、列車のスピードアップもままなりません。
 
しかし、だからと言って、鉄道を廃止してしまったら一体どうなりますか?明和鉄道のディーゼルカー保有台数は計6台。内訳は定員94名のアケチ10系が4台、定員119名のアケチ100系が2台。駅のホームには4両まで停車できるスペースがありますから、94×2+119×2=最大426名まで一度に輸送する事が出来ます。これをもし廃止してしまったら、一体何台のバスが必要になるでしょうか。
 
最近は異常気象の頻発で、地球温暖化の危機が叫ばれています。サステナブル(持続可能)な社会を作り上げる為にも、地域の活性化の為にも、鉄道は欠かせない存在です。目先の利益だけで、明和鉄道が廃止されてしまわない事を切に願います。
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北加賀屋ウォールアートの謎を解け

2021年11月17日 21時18分59秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
以前、所用で大阪市住之江区の地下鉄四ツ橋線北加賀屋駅付近を歩いていると、倉庫に見事な装飾が施されているのに気が付きました。その時は別に気にも止めませんでしたが、後で調べたら、アートで町おこしをしようという試みである事が分かりました。
 
北加賀屋は木津川沿いにある名村造船所を中心に発展した街でした。しかし、その後の産業構造の変化によって、造船所も撤退してしまい、街は寂れてしまいました。
 
それが、21世紀に入り、名村造船所の遺構が近代化産業遺産に認定されたのを機に、アートで町おこしを図ろうという機運が盛り上がりました。それを機に、倉庫や工場の壁にウォールアートが施され、空き家も改装されて、次第にアーティストが集まるようになりました。
 
 
この地域には、他にも装飾が施された場所が一杯あります。例えば、この人々が手を繋いだ形のウォールアートも、名村造船所の跡地に出来たクリエイティブセンター大阪(CCO)の壁に施されたものです。
このCCOやMASK(MEGA ART STRAGE KITAKAGAYAの略で、アート作品の貯蔵庫)では、今年も10月から先週11月14日まで、芸術作品の展示などが行われていたようです。但し、造船所の跡地に進出し、今も操業中の工場敷地内にあるので、イベントのない日は関係者以外は中には入れません。
 
 
この近くにある3軒並びの文化住宅(白馬荘、乗鞍荘、穂高荘)も、昔は名村造船所の従業員寮でした。この文化住宅には今も人が住んでいます。この住宅の家賃が初期費用なしで月1万8千円余りと超格安なのも、企業福祉の名残りなのかも知れません。長崎県の軍艦島アパートも昔はこんな感じだったのでしょうか?
 
でも、残念ながら、町おこしのイベントの恩恵が、この文化住宅に住んでいる人にも及んでいるとは、とても感じられませんでした。装飾が施された工場や倉庫も、普通に営業はしているのですが、とても賑わっているようには見えませんでした。
 
私がそれまで住んでいた西成のあいりん地区でも、アートで町おこしをしていました。南海電鉄の高架下にも、そのようなウォールアートが施された場所があります。でも、それを見て喜んでいるのは、外から来た観光客だけでした。観光ブームに湧いていたのも、新今宮駅前を走るあびこ筋沿いのホテル街だけで、ホームレスや日雇い労働者の人達は、それを冷ややかに眺めていただけでした。
 
ウォールアートが無駄だとは言いません。しかし、それだけでは、地域の活性化は無理だと思います。アーティストの人達だけでなく、文化住宅に住むお年寄りや、工場勤務の人達も、楽しめて明日も頑張ろうという気になる、そして実際に給料も上がる、そんな取り組みこそが求められているのではないでしょうか。
 
 
ところで、最初に紹介した倉庫のウォールアートですが、一体何と書いているか分かるでしょうか?英国のベン・アイルというアーティストの方の作品ですが、全てアルファベットの大文字で書かれている上に、ピリオドも省略されているので、文章の切れ目が分からず、読み解くのに一苦労します。
 
SUCHAPERF ECTDAYIMG
LADISPENT ITWITHYOU…と書かれています。これをまず文節ごとに区分けしなければなりません。
 
私も色々調べた結果、半日がかりでようやく正解にたどり着きました。私の解読結果は後ほど公開しますが、皆さんも一度解読に挑戦されてはいかがでしょうか?はっきり言って、超難問です。(ヒント:別の歌手が歌っていた歌詞の一節です)
コメント (1)
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今回の衆院選で感じた違和感

2021年11月11日 19時42分32秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
 
この前の総選挙。「今度も自公与党が過半数確保」「野党で勝ったのは維新だけで野党共闘組は敗北」とマスコミで報じられてきた。でもなんか違う?そう思って、これまで9年間の衆院選結果を時系列で追ってみた。すると、マスコミ報道とは違い、与党は議席をずっと減らし続け、逆に野党が議席を増やしていた。維新も今回躍進したとは言っても、それでも9年前と比べたらまだ負け越している。
今回、多くの選挙区で与野党が接戦にもつれ込み、選挙予測が二転三転した事からも、野党共闘は確実に自公与党を追い詰めていた。しかし結局は競り負け、維新に「漁夫の利」を奪われてしまった。それに対する感想が下記の私のツイートだ。
 
衆院選過去9年間の議席推移
総定数480→465(▲15)の内訳
自公与党325→293で▲32
民主政権与党67→現立憲96で+29
左派野党(共社れ)10→14で+4
中間野党(国民民主)0→11で+11
保守派野党(大半維新)73→41で▲32
無所属5→10で+5
何だかマスコミ報道と大分違う。投票率が上がればもっと変わる
 
 
政党分類別に更に詳しく見ていく。まず自公与党から。公明党=創価学会で、それ以外の票の出入りがほとんどないので、自民党の党勢がそのまま議席の増減となって現れる。
 
2012年 325議席
2014年 326議席 前回比+1
2017年 313議席 前回比▲13
2021年
公示前 305議席 前回比▲8
選挙後 293議席 前回比▲12
差引▲32議席
 
岸田首相は今回選挙の勝敗ラインを自公で過半数の233議席に設定していた。公示前の305議席から72議席も少ない目標設定に、何と志の低い事かと呆れたのを覚えている。わざと低めに設定して、「敗北を最小限に食い止めた」と言い逃れるつもりだとしても、余りにも低過ぎる目標設定だ。
 
この様な異常に低い目標設定をしたのも、実は小選挙区での野党の候補者一本化で、自民党が予想以上に追い詰められていたからだ。最終盤での巻き返し、金に物を言わせての物量作戦で、からくも逃げ切る事が出来たが、勝った選挙区の多くも、数千票差の際どい勝負だった。
 
 
次にリベラル野党。このリベラル野党に限らず、政党分類の基準そのものが、ごく大雑把なものである事は予めご承知おきたい。今の立憲民主党の母体となった旧民主党自身も、元自民党や元社会党出身者からなる寄合所帯だった。それが離合集散を経て、次第にリベラル色を鮮明にしていく中で、今の立憲民主党が形成されて来た。
 
2012年 67議席
2014年 75議席 前回比+8
2017年 55議席 前回比▲20
2021年
公示前 109議席 前回比+54
選挙後 96議席 前回比▲13
差引+29議席
 
民主党政権が当初掲げた公約を次々と反故にする中で、2012年に自民党が政権に返り咲いた。この時は野党らしい野党は旧民主党の67議席しかなかった。今から思えば、よくこれで憲法改正が強行されなかったものだと思う。
 
しかし、アベノミクスの化けの皮が剥がれる中で、次第に民主党の党勢は回復していく。2014年の議席増は、基本的には維新や自民からの移籍組によるものだろう。そして、2017年に小池百合子がリベラル派排除を目論んで結成した「希望の党」が瓦解する中で、立憲民主党が自民党の対抗軸として浮上して来る。
 
しかし、この立憲民主党も、旧民主党と同様の寄合所帯だった。リベラル政党を自称しながら、右派の萩原仁や泉健太も票欲しさに擦り寄る中で、当初のリベラル色は次第に色あせていった。
 
自民党も表向きは「新自由主義の見直し」や「格差是正」を言い始める中で、立憲民主党と自民党の違いが次第に曖昧になって来た。どちらも表向きは「格差是正」を公約を掲げる中では、より大きい政権与党に票が流れるのは避けられない。今回の自民党との競り負けは、ある意味必然であったと言える。
 
 
今は衰退傾向の左派野党にも、昔は輝いていた時代があった。50年代から60年代にかけての安保闘争・沖縄返還闘争・ベトナム反戦運動の高まりや、70年代の公害問題など高度成長の歪みに対する批判を背景に、社会党や共産党が躍進した。
 
しかし、これらの党も、90年前後に起こった天安門事件やソ連崩壊を機に、次第に人気を失うようになる。「幾ら良い事ばかり言っても、中国・北朝鮮みたいな国になる位なら、今の自民党政府の方がまだマシだ」という事で、幾ら自民党の悪政が酷くても、政権批判票が左派野党には流れず、維新などの保守系野党(自民党の補完勢力)に流れるようになってしまった。
 
共産党は、アベ政治への批判を背景に2014年には8議席から21議席に増やす事が出来たが、新たに立憲民主党やれいわ新選組が反自民の受け皿として登場すると、浮動票は全てそちらに流れてしまった。社民党はそれ以上に衰退し、もはや泡沫政党と化してしまっている。
 
しかし、今の資本主義では、格差拡大も環境破壊も押し留める事は出来ないのは明らかだ。成長一本槍、競走一本槍のままでは、貧富の差は極限まで拡大し、最後には地球温暖化などの環境破壊によって、いつか地球は滅んでしまうだろう。
 
元々マルクスが「資本論」で主張したのは、一握りの金持ちが富を独占するのではなく、共同で管理し分配する共同社会の実現だった。それが社会主義本来の意味なのに、「共同体」を意味するコミューン(commune)から来たコミュニズム(communism)の概念を「共産主義」と訳してしまった為に、何でも国有化すればそれで良いのだと、ソ連や中国の指導者が誤解してしまったのだ。
 
だから、本来は共同社会の実現を目指した思想が、それとは正反対の、一部の特権官僚が国の富を独占し、個人の自由を抑圧する社会を生み出してしまったのだ。
 
社会主義本来の理想を実現する為にも、共産党は党名変更も含め、今までの在り方を変えなければならない所に来ているのではないか。幾ら共産党が頑張って立憲民主党に票を流して野党共闘の勝利に貢献しても、立憲民主党の票は共産党に流れず、自民党や維新に流れてしまっている。その状況を変えない限り、野党共闘は成功しない。
 
 
2017年衆院選を前に旧民主党が希望の党に再編され、それに反発したリベラル派が立憲民主党を結成。その希望の党が国民民主党と名前を変えて今日に至る。国民民主党を支えているのは連合(日本労働組合総連合会)だ。
 
連合は、名前こそ日本を代表するナショナルセンター(労働組合の連合体)だが、その中身は大企業正社員中心の御用組合だ。電力会社と一緒になって原発の再稼働や新増設を主張する電力総連なぞ、その最たるものだ。だから、連合は共産党を目の敵にし、共産党と引っ付く位なら、まだ自民党や維新と引っ付く方がマシだと、国民民主党を野党共闘から離反させたのだ。
 
しかし、内部には野党共闘を志向する人達も決して少なくはない。立憲民主党に合流する前は国民民主党に籍を置いていた、小沢一郎や森ゆうこがそうであったように。
 
国民民主党も、党幹部は反共で凝り固まっているが、下部党員や下部組合員は必ずしもそうではない。連合内部にも非正規労組が少なからずあり、ワーキングプアやシングルマザーの人権擁護の為に孤軍奮闘している。その為に、政党分類では維新の様な保守系野党(自民党の補完勢力)とは区別して、中間野党として位置付けた。
 
 
2012年に保守系野党として衆議院に議席を有していたのは、維新の会54議席と、みんなの党18議席、新党大地1議席の計73議席だった。
 
それが2014年には、維新41議席と次世代の党2議席の計43議席に激減している。減少分は多分、旧民主党に吸収され(57→73議席で+16)、残りは棄権に回ってしまったのだろう(投票率59%→52%で▲7ポイント)。
 
そして2017年には希望の党に流れ、維新は11議席と大敗。今年2021年衆院選で維新が11議席から41議席へと約4倍増と躍進したのが話題になったが、何の事はない、ただ単に失地回復を果たしただけだった。
 
2012年 73議席
2014年 43議席 前回比▲30
2017年 11議席 前回比▲30
2021年 41議席 前回比+30
 
それもマスコミの力を借りての「大躍進」だ。それが証拠に、維新の支持者に何故維新を支持したか聞いてみるが良い。大抵は「大阪府知事の吉村がイケメンで、コロナ対策に成功したからだ」と答えるから。
 
しかし、実際は全て嘘だ。コロナの医療崩壊が全国で最初に始まったのは大阪で、重症患者率や死亡率が全国最多を記録したのも大阪府だった。コロナ対策給付金の支給が断トツに遅れたのも、維新代表の松井が市長を勤める大阪市だ。
 
ところがマスコミはその事実を全然報道しない。大阪府市の行政を牛耳り、安倍政権とも仲の良い維新に遠慮して、御用報道に終始して来たからだ。
 
その様な「虚構人気」に支えられての維新の躍進である事を、まず見抜かなければならない。その上で、維新人気が、庶民の反エリート意識や差別意識に根ざした根深いものであり、決して侮れないものである事にも注意しなければならない。
 
どういう事か?維新は、地元で直接対峙する自民党大阪府連は批判しても、安倍・菅政権は絶対に批判しない。東京を見返す為に始めた大阪都構想も、担当部署名が「副首都推進局」である事を見れば分かる様に、東京の単なる猿真似に過ぎない。
 
維新は、地元の自民党大阪府連は批判しても、中央の自民党政府は決して批判しない。批判しても「福祉バラマキ反対、規制緩和で更なる成長を」と、自民党がこれまでやって来た福祉削減、規制緩和策を更に煽る様な事しか言わない。
 
大阪都構想も、東京一極集中を批判しているようで、実際は東京への権限集中、地方との格差を認めた上で、東京の「副首都」として「格差のお零れ」にあやかろうとしているに過ぎない。
 
本当の巨悪とは対決せず、それどころか逆に弱い者虐めの先陣を切る事で、No.2の位置を確保しようとしているだけだ。ジャイアンに媚びへつらい、のび太を虐めるスネ夫が、いわば維新の正体だ。
 
本当に日本を改革する気があるなら、ジェンダー後進国で外国人差別も強い日本で、女性解放やシングルマザーの権利擁護を主張してこそ、真の改革者と言えるのではないか。
 
しかし、維新が実際やっている事は、高校統廃合や福祉予算の削減、労働規制緩和=非正規雇用拡大、ブラック企業野放しなどの弱い者虐めばかりだ。それどころか、生活保護も失業保険も月数万円支給の「名ばかりベーシックインカム」に統合(縮小)しようとしている。
 
その挙句に、憲法9条は無くして逆に天皇を元首化すると主張している。こんな物は改革でも何でもない。単なる時代錯誤の戦前復古に過ぎない。
 
維新こそが最悪の自民党別働隊だ。池田のサウナ市長を始め、維新議員に不祥事の噂が絶えないのも、維新の体質が自民党と何ら変わらないからだ。マスコミの維新ヨイショの報道に騙されてはいけない。
 
以上、今回の衆院選での自民党の「持ち直し」は、実際は薄氷の辛勝でしかなかった。維新の「躍進」も、実際は自民党の別働隊でしかないのに、まるで反自民のホープであるかのように宣伝するマスコミ報道に支えられての、「虚構の勝利」である事を見抜かなければならない。
 
今回の衆院選と同じ時期に行われたドイツの総選挙では、地球温暖化防止、気候格差是正が争点になった。そして、6割台後半の投票率で、中道左派の社民党が保守のキリスト教民主同盟に勝利した。
 
それに引き換え日本はどうか?未だに時代遅れの新自由主義に囚われ、「成長か、分配か」の堂々巡りに落ち込んだ末に、「分配する為にも経済成長が必要だ」と言いくるめられてしまっているではないか。今まで散々格差を拡大して来た側が、少しばかり「格差是正」を言い出した途端に、また自民党に投票してしまう愚を繰り返している。庶民も現実の貧困に目を奪われるばかりで、気候格差是正は争点にもならなかった。「貧すれば鈍する」の格言そのままだ。
 
はっきり言って、余りにもレベルが低過ぎる。とても先進国の選挙だとは思えない。自分さえ助かればそれで良いのか?
 
何故そんな事になってしまうのか?有権者が諦めて投票に行かなくなってしまったからだ。
 
かつては7割台あった投票率が今や5割台。その上、選挙制度も大政党に有利な小選挙区が中心で、比例区も地方ブロックに分割。だから、得票率で見れば、リベラル票や左派票も合わせれば約31%と、そこそこあるにも関わらず、それらの票は全て分散され死票となり、数で勝る与党票や保守票に負けてしまうのだ。
 
 
ただ希望がない訳ではない。右も左も無党派層に切り込めない中で、唯一、れいわ新選組だけが無党派層にも切り込んで、今回も200万票以上集め、比例区で3議席を確保した。2019年参院選で初めて登場した新党故に、不慣れな面や疑問に思う点もないとは言えないが、それでも自民党や維新と比べたら遥かにマシだ。
 
もし仮に、れいわ新選組の山本太郎が共産党委員長に就任すれば面白い事になるのではないか?今のれいわ新選組代表の仕事については、共産党と統一会派を組む中で、共同代表に就任してもらえば良いのではないか?
 
発信力がピカイチの山本太郎に、野党の中では組織力に勝る共産党が加われば、鬼に金棒となるかも知れない。共産党も、本当に日本を変えたいと思うなら、これぐらい思い切った手段を取って欲しいものだ。
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ネット業者撃退法

2021年11月07日 20時46分00秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
ネットサービスの乗換えで少しトラブルになりました。
 
最近のネット業者は、マンションの家主と先に法人契約結んでから、割引料金を餌に、新しい入居者に営業攻勢かけて来ます。私も、8月に今のマンションに越して暫くしてから、AU光の営業攻勢に遭いました。
 
これまで私はパソコンのインターネットはベイコムのサービスを使っていました。このベイコムも西成の前のマンションで、同様の手口で加入させられたものです。
 
今のマンションにもKDDI(AU光)への加入を勧めるチラシが投函されましたが、転居の度にサービスを乗り換えるのは面倒なので、もうそのままにしていました。
 
しかし、業者の方が何枚も上手です。幾らそのままにしていても、業者の方から未契約者宅に勝手に戸別訪問にやって来ます。遂に私も根負けし、話を聞くだけならと、AU光の営業マンを部屋の中に引き入れてしまいました。
 
営業マン曰く「ベイコムはケーブルテレビの放送網を使ってネットの電波を流しているので、テレビの受信状態によっては繋がりにくかったりします。それに対し、AU光は、NTTの電話回線を使うので、ベイコムよりも遥かに繋がりやすい。しかも、ケーブルテレビ業者は地域によって違うので、転居の度にサービスを変更しなければならない。それに対し、AU光はNTTの回線を使用するので、全国どこに転居してもサービスが使える」
 
確かにベイコムは電波状態によっては繋がりにくかったりします。それに転居する度にネットサービスを乗り換えるのも手間です。そこで私もAU光に乗り換える事にしました。今日がそのネット接続工事日でした。
 
ところが、回線接続工事を始めてから、AU光に接続出来ない事が分かりました。私のマンションは、外からは見ただけでは分かりづらいですが、実は手前と奥側の2棟に分かれています。NTTの回線が使えるのは、そのうちの手前の棟だけでした。
 
ところが、営業マンも工事業者も、その事実を知らずに、工事を始めてから、初めてネットが使えない事が分かりました。NTTのフレッツ光などは、もしこんな場合でも、自前でネットのケーブルを繋いで接続してしまうのですが、AU光はそこまではやらないようです。
 
しかも、今日来た工事業者は、KDDIから回線工事を請け負っただけなので、事前に送って来たAU光のモデムやルーターを持ち帰る事が出来ません。結局、後日送られて来る返品用の箱に、私がそれらを詰め込んで、着払いで送り返す事になりました。
 
確かに、お金の面では、別に損した訳ではありません。それでも、貴重な休日の1時間を、工事の立ち会いに無駄に費やさなければならなかったのも、立派な損失です。しかも、こちらが何もしなくても、業者は家主から手に入れた新入居者のリストを手にして、戸別訪問して来ます。
 
それを防ぐにはどうしたら良いか?色々考えた末に、「完全無知」を装う事にしました。相手が喋り出す前に、「ワシはネットなぞ一切やらない」と宣言してしまうのです。下手に話に乗るから、相手の土俵に乗せられてしまうのです。それを防ぐには、サービス自体に興味がないと言い切ってしまう事です。
 
そう言えば、もうだいぶ前に辞めてしまいましたが、バイトの中に岩原さん(仮名)という人がいました。彼はパソコン、スマホどころかガラケーも持っていませんでした。通話は全て固定電話でした。私が一度彼に「何で携帯持たないのか?」と聞いた事がありました。彼はこう答えました。「わしゃあ、あんな毛唐(けとう)の持ち物なぞ好かん」と。よし、これで行こうw
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エス・コヤマと生協のやりがい搾取

2021年11月04日 20時27分00秒 | 当ブログと私の生い立ち

衆院選が終わった後なので本当は選挙の総括も書きたいのですが、党派別比例区得票数の推移集計に予想以上に手間取り、記事作成になかなか踏み出せないでいます。その代わりに、兵庫県三田市にある人気スイーツ店エス・コヤマの長時間労働について、私がつぶやいたツイート(ツイッターでのつぶやき投稿)を下記にまとめました。最初の私がツイートに対して、ケツメドJPさんという方からリプライ(返信ツイート)があり、それに応える形で、私が更にツイートしています。以後のツイートも、一応ケツメドJPさんへのリプライの形にはなっていますが、私自身としては、むしろ自分自身に言い聞かせる感じでつぶやきました。以下紹介します。末尾に(ケツメドJP)とあるのがその方のツイートで、それ以外の末尾に何も付いていない投稿は全て私のツイートです。

兵庫県の人気スイーツ店で月100時間以上の残業が常態化。労基署から2度も是正勧告。やりがい搾取が背景にあると識者がコメント。薄給のバイトや社員にパティシエの心構えを求める事自体が間違っている。幾ら美味しいケーキが作れても人が過労死していたら何もならない。仕事もやりがいも命あっての物種

社員の中には月のサービス残業が200~300時間超えの人もいたらしいです。 300時間と言ったら30日間は休みなしで1日10時間も残業するレベルです、過労死するレベルを超えている残業です。 1度目の是正勧告をしても、もし改善されない場合は営業停止や事業停止処分等の法律が必要です。(ケツメドJP)

実は私も残業が月100時間超えの時期がありました。生協勤務時代の末期です。慢性的なバイト不足の上に、正規職員の仕事を派遣など外部委託する為の業務マニュアル作成に追われる様になった為に。しかもその残業のほぼ全てがサービス残業。今から思えば私もやりがい搾取に洗脳されていたんだと思います

バイト不足の為、私が午前7時から出勤して冷凍庫の中で少ないバイトと一緒に検品・仕分け作業。仕分けが終わらず午後6時位まで現場作業がずれ込み。そこから慣れないパソコン作業でマニュアル作成。帰りはいつも終電車で時々泊まり込みも。もうやりがい搾取どころか奴隷労働。ほうほうの体でやっと退職

やりがいを感じられるうちはまだ良い。奴隷労働のレベルになると、まともな考えが出来なくなる。ただ過労死させられるだけでは癪だからパワハラ上司と差し違えて死んでやるとか、妄想が頭をよぎる様になる。別にそんな事しなくても、賃金不払いは犯罪行為なんだから、労基に告発すれば良いだけなのに

だから、従業員がケーキ職人になる事を夢見て長時間労働を受け入れて来た話も、決して他人事とは思えないのです。たとえ長時間のサービス残業やパワハラが横行する職場であっても、我々は生協運動やってるんだと。違法労働やパワハラが横行する時点で、金儲け主義のスーパーとも何ら変わらないのに

仕事にやりがいを求めるのは決して間違ってはいない。同じ仕事をするなら、やりがいが感じられないより感じられる方が良いに決まってる。しかし、命を削ってまで求める仕事ややりがいなぞは無い。そんな物は新興宗教のお布施ノルマと同じで、ブラック企業搾取の常套手段だ

私のブログの下記記事に、その当時の事が書かれています。今初めて明かす、いずみ生協問題 - アフガン・イラク・北朝鮮と日本 (goo.ne.jp)

このいずみ生協にも労働組合はありました。しかし、その労組も今から思えば生協の「企業内組合」だった様に思います。生協運動を頑張る中で労働者の権利も守って行く、みたいな。しかし、ハラスメントが横行する様な職場に、真のやりがいなぞある筈がない。仕事にやりがい求めるより先にパワハラ無くせ

私が今の会社で、バイトの組合のない職場でも、1人からでも入れる労働組合に入って、おばちゃん委員長と2人で会社幹部4人相手に団交に臨んだり、会社の労災揉み消しと闘えたりしたのも、もう二度と生協勤務時代の様な惨めな事は繰り返してはいけないと、痛切に思ったからです ※この件の詳細については次の記事参照。11.24団交の到達点を改めて再確認しておこう - アフガン・イラク・北朝鮮と日本 (goo.ne.jp)

この最初の団交は散々な結果に終わりました。会社が備品の台車を買う金ケチった為に、わざわざ台車が空くまで待って、重たい荷物を空の台車に積み替えなければならなくなった。その証拠写真を団交の場で会社に突き付けたら、逆に勤務時間内に組合活動した、果ては機密漏洩だと突っ込まれた。(続)

団交は失敗に終わったと皆思った。しかし実際は翌日の朝礼で、無理に一人で積み替えなくて良くなった。1人では無理なら2人で、2人でも無理なら誰か出来る人に。無理させて怪我させたら会社の責任になるから。これが団交の威力です。(続)

そこから次の手が見えて来る。法律には荷物の重さに制限はないと会社は言った。確かに労働基準法には重量制限の規定はない。しかし、労基法第1条にはそれに代わる条文がちゃんとある。この法律に定める基準は最低限のもので、定めがないからと言って基準を緩める様な事をしてはならないと。(続)

写真撮影がダメならスケッチで代用すれば良いのです。勤務時間も勤務場所も休日も皆バラバラ、これでは団結なんて無理と思っても、駅前の集合場所で送迎バス待つ間ならビラの一つ位撒けるじゃないか。勤務時間外に社外で何しようが個人の自由なんだから。最初から諦めていたら何も出来ない

ウチは大手スーパーから仕事を貰って、それで食っている下請け企業だ。仕事をくれるスーパーには逆らえない?いいえ、私達は只の下請けではない。そのスーパーの商品を買う消費者でもある。消費者を蔑ろにするようなスーパーには不買運動で対抗する事も出来る

その後の労災揉み消し事件についても述べておく。改装工事中の見通しの悪い作業場で、私が台車を運んでいる際に、前の作業者の後ろ足に台車を当ててしまった事があった。そいつは私に治療費と慰謝料を請求して来た。会社に労災申請しても、従業員の不注意による事故では労災降りないと言われて(続) ※この件の詳細については次の記事参照。これは俺だけの責任か? - アフガン・イラク・北朝鮮と日本 (goo.ne.jp)

確かに第三者行為(従業員の不注意)による事故には労災は適用されない。でもどんな不注意にも労働問題が絡んでいる。運転手の居眠り運転にも過労運転が背景にある様に。それを全て自己責任にしてしまったら労災なぞ画餅に終わる。改装工事に伴う障害物除去や注意喚起を怠った会社にも当然責任はある

それらを外部労組の援助も受けながら会社に労災申請したらあっさり認められた。脅かしに屈したらそこで負け。何でもゴリ押しすれば良いと言う物ではないが、ここ一番と言う時には絶対に引いてはいけない。自分で自分を追い込んで自殺してしまったり、京王線の犯人の様に暴発してしまっては絶対にダメだ

それともう一つ大事な事。何事も他力本願ではダメ。私が生協にいた時も労働組合員で、しかも共産党員だった。でもどこかに組合や共産党が助けてくれるという意識があった。常に相手頼みで、自分の意志はそんなに強くなかった。しかし、実際は組合も「企業内組合」で、共産党も職場のパワハラは黙認

幾ら労組や共産党でも、所詮はサポート役に過ぎない。肝心の自分が動かない事にはサポートも出来ない。それが分かったからこそ、今の職場では腹据えて闘えたのだ。その後、私は組合からも共産党からも抜け、今はしがない下請け企業の一バイトに過ぎない。でも生協時代より今の方が遥かに充実している

そうすると面白いもので、仕事でも評価されるようになった。職場にベトナム人のバイトが急に増え出し、仕事のやり方教えるにも一苦労。そこで写真入り、漢字振り仮名付きのマニュアルを作業場に掲示したら、仕事の引き継ぎが上手く行く様になった。どんな困難な事態にも打開策はきっとある

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