アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

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 アフガン・イラク戦争も金正日もNO!!搾取・抑圧のない世界を目指して、万国のプレカリアート団結せよ!

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’07メーデー:我々に椅子取りゲームを押し付ける奴らをぶっ飛ばせ!

2007年04月30日 00時43分32秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
※以下、抜粋。確かに下記メーデー宣言の、言いたい事はよく分るし、今はもうこの趣旨に基本的に賛同します。以前は仕事観の部分でどうしても引っかかるものがあったが、昨今の格差拡大・違法労働蔓延状況を鑑みると、これぐらいのアンチ勤労観・企業観・「プロジェクトX」観でないと、はっきり言ってやってられない!
 しかし、この文章の硬さだけは、どうにかならないだろうか・・・。多分ウチの同僚が読んでも、このままでは一体何の事やらさっぱり分らないのではと。「まともに生活できるだけの賃金よこせ!休みを取らせろ!労基法通り休憩させろ!交通費ぐらい出せ!上司だからといって偉そうにするな!家賃下げろ!税金下げろ!こんなクソ高い保険料や医療費なんか払えるか!成果主義?ホワイトカラー・エグゼンプション?入社式や仕事始めに社歌と君が代?死ねアホンダラ!我々は会社や国の奴隷じゃないぞ!」ぐらいのノリでいかないと。


自由と生存のメーデー07──プレカリアートの反攻
──生きることはよい。生存を貶めるな!
──低賃金・長時間労働を撤廃しろ。まともに暮らせる賃金と保障を!
──社会的排除と選別を許すな。やられたままで黙ってはいないぞ!
──殺すことはない。戦争の廃絶を!
──メーデーを抗議と連帯と反攻の日に!

「格差」と「貧困」が社会的な課題としてにわかに取りざたされている。しかし雇用の流動化はさらに進められ、生きるための基盤はますます不安定なものへと置き換えられるばかりだ。政府は問題を「機会の不足」へと矮小化し、格差と貧困の責任を私たちの就業能力、起業能力の欠如に還元しようとしている。その帰結は、生存を「自立」競争の勝利者への褒賞に変えることに他ならない。

しかし、彼らが言うように未来なく不安定なこの生を自分のせいにされ、頭と体と感情をすり減らすことはない。働かない・働けないことへの侮蔑と嘲笑と同情におびえる日々を終わらせるための反攻はすでに始まっているからだ。労働を道徳と結びつけ、勝ち誇って人に生きる資格を問う者たちに、差別と排除で人々を切り分け敵対させる者たちに、私たちは全身で反対する。「ただ生きること」を肯定する私たちは、この社会にもたらされている「戦争」を拒絶し、侮蔑と不正に連帯で応じる。この自由と生存の日に!プレカリアートの反攻の日に!

2007年3月23日 「自由と生存のメーデー 07」実行委員会

〈運営上の確認〉 政治的立場の違いを暴力によって「解決」することを実践し、その行為と思想を正当化し続ける人びとの参加はおことわりします。

■日 時:2007年4月30日(月・振替休日)開場12時30分
■場 所:大久保区民センター4F多目的ホール
■集 合:12:00-12:30 大久保区民センター(新宿区大久保2-12-7)※JR新大久保駅から明治通り方向に約600m。ペアーレ新宿裏
■主 催:「自由と生存のメーデー07」実行委員会
■呼びかけ:フリーター全般労働組合
■連絡先:フリーター全般労働組合
〒160-0023 東京都新宿区西新宿4-16-13 MKビル2階
電話:03-3373-0180 e-mail:paff(at)sanpal.co.jp
(以下略)
 http://mayday2007.nobody.jp/

(追記:5月1日)
 上記メーデーの動画がYouTubeで配信されています。ビデオプレスTVのサイトで視聴出来ます。
 http://vpress.la.coocan.jp/vptv.html


※実はウチの職場は5月連休中が年間繁忙期の一つのヤマで、私も5月6日まで休みがありません。今日も朝から出勤なので、メーデーは連合系の「STOP THE 格差社会」にも全労連・全労協系にも、この「自由と生存のメーデー」にも参加出来ません。しかし、そんな仕打ちには負けないぞ!
 ここに至るまでの約20年来の相次ぐ経済規制緩和と労働諸法制改悪で、「女工哀史」的状況が現代に復活し、「ネットカフェ・マクドナルド難民」やホームレスも増加の一途を辿っています。政府・財界は正に「朕はたらふく食ってるぞ、汝人民飢えて死ね」とばかりに我が世の春を謳歌していますが、その裏で貧民・プレカリアートの反撃も既に始まっています。無法・違法派遣職場のフルキャストやグッドウィルにも既に仲間たちの手で労働組合が結成され、フルキャストでは制服代名目でピンハネされていた分を団交で奪い返すという成果も上げています。愛国心や自己責任論では、いつまでたっても腹もふくれず、まともに休みも取れないという事に、徐々にみんなが気がつき始めています。こんな世の中が、いつまでも続くと思うなよ!

※そうそう、「椅子取りゲーム」で思い出したけれど、昨今は「機会の平等」という事がよく言われます。努力して金を稼ぐ人がいる一方で、働きもせず生活保護を受けている奴らが居るのは「悪平等」だ、こういう「結果の平等」ではなく、誰にもチャレンジの機会が与えられる「機会の平等」こそが実現されなければならない、という言い回しで。耐震・産地・日付偽装や粉飾決算や労基法破りで得た儲けも「正当な報酬」であるかのように言い募るその根性は大したものですが、それはまあ置いといて。
 「再チャレンジ」ナントカを推進している誰かさんも、この「機会の平等」という言葉がお好きなようですが、本当は、必要最小限の「結果の平等」が無ければ、「機会の平等」もあり得ないのです。
 ギャンブルなどの例で考えれば直ぐ分かります。パチンコや競馬などの公営ギャンブルや商品先物取引・株式投資などは、確かに成人なって元手さえあれば誰でも参加出来ますが、果たして本当に万人平等に参加出来るのでしょうか? 実際は、100円の元手しかない人間と1億の元手がある人間とでは、最初のスタートラインからして、全然違うじゃないですか。後者は、前者とは比べようも無いほど、余裕資金を自由に使う事が出来ます。情報入手も買い方も自由自在です。見かけの門戸開放とは裏腹に、実際には最初から金持ちに圧倒的に有利な仕組みになっているのです。そうであるにも関わらず、商品先物に手を出して身包み剥された人間をあざ笑う輩が、「再チャレンジ」何とかには何の疑問も抱かず尻馬に乗せられてしまう、この浅ましさ。
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灰谷文学の毀誉褒貶

2007年04月29日 23時48分10秒 | 一人も自殺者の出ない世の中を
 私のブログは、そもそもは「911テロとアフガンは何故起こったのか?」という事を出発点にして、その後の北朝鮮・拉致問題の発覚やイラク戦争開戦を経て、今の「戦争も人権抑圧もNO!」というスタンスに行き着いたのですが、改めて読み返すと、リストラや教育問題に関する記事が大半を占めている事に、今更ながら気付かされます。
 特に、「反リストラ・格差社会」「労基法・ホワイトカラー・エグゼンプション」「教育基本法」関連カテゴリーの記事などはほぼ全てがそうですし、その他の、例えば「北朝鮮・中国人権問題」関連記事にしても、その根底にあるのは、前述カテゴリーの「格差社会」批判記事と同じ、人権抑圧や差別・搾取に関する憤りです(だから、同じ北朝鮮や中国を批判する場合でも、国家主義的な立場からのものとは、どうしても相容れない部分がある)。私自身、「金八先生」「めだか」「ごくせん」などのアンチ差別教育モノや、「コーチ」「ハケンの品格」などのアンチ・リストラ・ドラマには、いたく共感を覚えたりします(但し、「ハケンの品格」に垣間見える派遣業界ヨイショには断じて容認出来ないが)。

 そういう中で、ある時にある人から読むように勧められたのが、灰谷健次郎氏の著作でした。この方は、去年お亡くなりになられた方ですが、「兎の眼」「太陽の子」「せんせいけらいになれ」などの一連の児童文学作品で、その名を知られています。私は、この人の名前は知っていましたが、書いた物はまだ一度も読んだ事がありませんでした。
 その中でもとりわけ勧められたのが、前二者「兎の眼」「太陽の子」です。私はその両方を読みましたが、とりわけ前者の「兎の眼」の方に、最初に読んだという事もあってか、より強いインパクトを感じました。但し、世間の評価では、逆に後者の「太陽の子」の方が、より完成度が高い作品だという事の様ですが。

 そしてその「兎の眼」ですが、もう面白いの何のって。前述のアンチ差別教育やアンチ・リストラ・ドラマと同じ目線の作品なのです。こんな作品が既に70年代に世に出ていた事に、私はそれをつい最近読むまで知りませんでした。
 「兎の眼」のあらすじは、関西地方の下町の小学校に赴任してきた新米女性教師の小谷先生が、ゴミ焼却場で働く家庭の子ども達や、風体はパッとしないが子ども達には絶大な人気を誇る足立先生との交流の中で、次第に成長していく物語です。今風に言えばTVドラマの「めだか」に近いノリかな。一昔前のドラマで言えば、村野武範主演の「飛び出せ青春」とか、竜雷太主演の「これが青春だ」辺りになるのかも。

 その物語の中では、鉄三という子どもが、とりわけ、もう一人の主役として登場しています。この子は、先のゴミ処理場の家庭の一人で、小谷先生の受け持ちの子どもでもあるのですが、何と処理場のハエをペットとして飼っているのです。勉強が出来ず身なりは汚い上にハエまで飼っているので、他の多くの先生からは疎ましく思われている、そういう子どもです。小谷先生は、そんな一癖も二癖もある慣れない職場で、子ども同士のものすごい喧嘩を目の当たりにして卒倒してしまったり、親から掴みかかられて翻弄したりする中で、やがて鉄三につきっきりで字を教えるようになり、そこからゴミ処理場の子ども達や足立先生とも付き合うようになります。
 小谷先生は、ハエを飼っている鉄三にも平等に給食当番をさせて他の先生から顰蹙を買ったり、知恵遅れの転校生みな子を普通学級に引き取って他の父兄から「勉強が遅れる」と睨まれたりするのですが、そんな中でも、ゴミ処理場の子ども・親たちや足立先生たちの力もあって、小谷学級の子どもは次第に成長していきます。鉄三も、近くのハム工場のハエ駆除に一役買って表彰されたりしました。
 そんな中で最後に、ゴミ処理場の移転話が一方的に持ち上がり、小谷先生たちが反対の署名集めをしたり、足立先生が抗議のハンストに打って出たりする中で、その反対署名を最初は疎ましく思っていた父兄たちも、次第に協力するようになっていく所で、物語は終わります。

 それを、児童文学の平易な文体で、さり気なく書かれているので、私はそれに引き込まれて、いつも読んだ後にはドラマ「めだか」を見終った時と同じ余韻を味わっていました。しかし、その一方で、そういう灰谷健次郎の文学作品に対して、批判的な見解が表明されている事も、やがて自分の知る所となりました。例えば、清水真砂子氏による灰谷文学批判などが、そうだと言うのです。
 この「灰谷批判」についてですが、実は私自身未だにその正確な内容を把握出来ていません。関連本についても読もうと入手を試みたのですが、先の清水氏の批判本「子どもの本の現在」にしても、既に絶版になっていて手に入りませんでした。また、その他の関連本にしても、どんなものがあるのか調べてみましたが、よく分りませんでした。そんな状況であるにも関わらず、ネットで得られた断片的な知識のみを基に「灰谷」批評や「灰谷批判」批評をするのは、聊かおこがましいのではないかという気がしましたが、それでも敢えて書く事にします。それは、一連の「灰谷批判」の中に、「今まで気付かなかった別個の視点」や「今までの自分の視点に欠けていたもの」を感じるからです。

 灰谷文学に対する批評としては、「童心主義に偏している」「子どもを美化し過ぎている」というものがあります。例えば「兎の眼」という当該作品のタイトルにしても、小谷先生がかつて見た奈良・西大寺の善財童子像のやさしい眼差しを「兎の眼」に見立てて、それに子ども達の眼差しを重ね合わせたものです。
 「出来の悪い子ども」や「虐められっ子」に向けるその「やさしい眼差し」は、強者・英雄をそのマイナス面(侵略・略奪・レイプなど)も含めて無条件に肯定称揚する石原文学とは凡そ対極に位置するものですが、その灰谷氏の「やさしさ」の裏には、実は「鼻持ちならないエリート」や「虐めっ子」という「石原的なモノ」に対する「憎しみ」が隠されていて、それが「童心主義」や「子ども美化」として現われているのではないか―という批評です。
 例えば、先の「兎の眼」にしても、臼井鉄三や春川きみなどのゴミ処理場の子ども達や、バクさんなどの親たち、小谷先生や足立先生については、どこまでも「どこか憎めない愛すべきキャラ」や「弱いものの味方」として描き、読者をその虜にしてしまうのに対して、その反対に、小谷先生の事を全然理解しようとしない旦那や、ゴミ処理場の子どもや親を疎ましく思っている教諭、校長、父兄、役場の人間については、「無味乾燥な取るに足らないノッペラボー」として切って捨ててしまっている事に、ふと気がついたのです。
 確かに灰谷氏は、これらの人物についても、決して悪し様に罵ったりこれ見よがしに醜く描いている訳ではないのですが、「取るに足らないノッペラボー」として、恰も自明の如くサラリと描いている事に、初めて気がついたのです。いくら無味乾燥で取るに足らなかったとしても、その人にはその人が生きてきた人生があり、その人の言い分があるにも関わらず、その余りにもサラリとした無関心な描き方が、見方によっては非常に残酷な描き方である事に、改めて気付かされました。

 ここまで書いてしまったらもう、自分の恥をさらけ出してしまいますが、この「灰谷批判」は、実は、私に対して向けられた批判でもあるのではないか、と。私の作風の中にも、結構そういう所があるので。例えば、「金八先生」vs「千田校長キャラ」とか、「ネットカフェ難民」vs「御手洗ベンジョ、安倍マルコス」とか、そういう所に。
 何故そういう作風になるかという事については、自分自身でもその原因については薄々ながら気がついているのですが、それを書き出すとプライベートな自分史にも立ち入らざるを得なくなりますので、ここでは敢えて書きません。ただ言える事は、この世の中には、客観的・一般的な「弱者vs強者」の搾取関係や階級対立が厳然と存在していますが、それとは別に個人レベルでも「弱者vs強者」の関係があり、それを一般的な「弱者vs強者」関係に解消する事は出来ない、という事です。

 以前、奄美大島出身の若者たちが、ヤミ金に雇われて、身寄りの無い老人夫婦を散々食いものにした挙句に鉄道自殺に追い込むという、悲惨な事件がありました。この八尾ヤミ金心中事件は「下流喰い」の縮図とも言える事件でしたが、しかし果たして、離島出身の失業青年も身寄りの無い老人夫婦も、同じ弱者という事で括れるでしょうか。確かに一般的・客観的な意味ではどちらも「弱者」です。一番の強者はヤミ金であり、そういう闇金を蔓延らしている新自由主義の格差社会である事に間違いありません。しかし個人レベルで捉えれば、絶対にそれはあり得ない。「身寄りの無い老人夫婦」からすれば、この「離島出身の失業青年」こそが、自分たちの生存を脅かす強者だったのです。
 また、今から約30年前に世に出た鎌田慧氏のルポルタージュ「自動車絶望工場」には、トヨタの期間工が過酷な労働条件の下で働かされている様子が描かれていますが、今はこのトヨタの期間工ですら、社員食堂を利用でき寮費も会社持ちであるという点では、同じトヨタの工場で働かされている派遣・請負の労働者から見れば特権階級である、という現実があります。

 そして、個人レベルでは、その時々の状況によって弱者になったり強者になったりして常に入れ替わるのであって、ある人が生まれてから死ぬまで、ずっと弱者(強者)であるという事は、まずあり得ません。そして、その事を認めなければ、この世の中は生きてはいけません。今は新米ペーペーの派遣・請負工や期間工やフリーターや平社員であったとしても、いつかやがてはベテランバイトや現場チーフや主任や課長として、部下や後輩を指導しなければならない立場になります。はたまた、今はまだ独身青年であっても、いつかやがては結婚して所帯を持って家庭を養っていかなければならない時が来ます。
 「俺は下請けやペーペーのヒラで上司や会社から搾取されている、俺は被害者であいつは加害者だ」という論理だけでは生きてはいけない時が、いつか来ます。その時になっても、相変わらず「被害者の論理だけ」で「加害者への憎しみ」を唯一の糧、エネルギー源として生きていくだけに終わるのか、はたまたその逆に「世の中や人生は所詮こんなモノ、椅子取りゲームで椅子を取られる位なら取る方を選ぶ」とばかりに居直ってしまうのか、それとも、上司や先輩としての任を全うしながら同時に弱者の味方でもあり続けられるのか、そこで初めて、その人の人間としての真価が問われるのではないでしょうか。

 そういう目で灰谷文学を見ると、今までは気付かなかった新たな視点がある事に、初めて気付かされました。そして、灰谷文学に対する批判というのは、それは取りも直さず、「兎の眼」「太陽の子」や「ショムニ」「コーチ」「ハケンの品格」で日頃の溜飲を下げて「B層社畜反動職制」や「安倍マルコス」「ネットウヨ」への蔑み・憎しみをバネにして毎日を送っている哀れな私wに対する痛烈な批判・皮肉でもあるのかと。おそらくこういう事を言わんとしているのではないでしょうか。
 そういう批判・言説に対しては、私も言いたい事があるし全面的に賛同はしませんが、しかし、今まで気が付かなかった大事な視点であり、ついつい見落としがちであった視点でもある、とは思いました。以上、批判本も碌に読んでいないくせに、恐れ多くも勝手な解釈を試みてみました。


<お断り>

 但し言っておきますが、これは私の自己批判や転向声明でもなければ、灰谷文学否定論でもありません。昨今のネットウヨ的言説の洪水の中では、それに対抗する意味でも、灰谷文学や「ショムニ」「めだか」的立場はますます光彩を放ち続け人々を魅了し続けると思っています。そうでなければ、ドラマ「ハケンの品格」が、派遣企業のプロパガンダだと噂されながらも(そして事実そうなんだけれど)、あれだけ視聴者から支持される筈がありません。世の中の言説が、石原文学やネットウヨみたいなものばかりになってしまったら、その時はもうこの世の終わりです。そういう意味でも、灰谷文学の視点は未だ以って有効だと私は認識していますが、それに加えてもう一つ、今までなかった「何か」が必要なのではないかと思うのです。その「何か」が何であるのかは、上手く言えませんが。
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差別助長・バカウヨ量産の全国学力テストなんて止めちまえ!

2007年04月26日 00時18分39秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
 然る4月24日に「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)が、ほぼ全国の小中学校で一斉に実施されました。この全国学力テストの実施については、今までも、「競争や序列化を煽る」「個人情報がテスト委託業者に悪用される」等の懸念の声が各方面から表明されていましたが、文科省は、それらの声を悉く押し切った形で、テストを実施に移してしまいました。

 文科省の説明によると、この全国学力テストは、小学6年生と中学3年生を対象に、国語・算数(数学)の2教科について、「各地域における児童生徒の学力・学習状況を把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る」(概要説明文より)のが目的なのだそうです。

 しかし、少し考えれば分りますが、文科省のこの説明は矛盾だらけです。まず、「学力・学習状況の把握・分析」だけなら、わざわざこんな全国規模の仰々しいテストなどしなくても、学校で日頃行っている小テストや定期考査や実力テストだけで充分です。その上で、仮に進路指導などで生徒の実力が全国でどの程度なのか知りたい場合でも、必要なのはこんな「玉石混交の寄せ集めの中のランク付」などではなく、もっと具体的で実態に即したデータ(××大学志望者やセンター試験受験者の中での偏差値・全国順位・合格可能性)である筈です。それならば、教育産業主催の今までの模試や講習を受けるだけで事足ります。
 また、「教育及び教育施策の成果と課題の検証」「教育施策へのフィードバック」が目的だとしても、日頃のテストや模試の結果からだけでも、相当な分析が可能です。「○×式の問題には強いが記述式の問題には弱い」とか「計算力や作文力が落ちている」といった分析は、普段の授業やテストの中でも充分出来ます。寧ろ、東京の文部官僚なんかよりも、一番身近な地域の親・教師・学校関係者・教委や、教育学者や教育産業関係者の方が、子どもの事をよく知っている筈です。それらの人たちは、それで飯を食っているのですから。

 要するに、この全国学力テストは、「学力・学習状況の把握・分析」や「教育施策の検証・フィードバック」というのはあくまで付け足しにしか過ぎず、本当は「児童・生徒・学校の序列化・格付け」そのものが狙いなのです。だから愛知県犬山市の教育委員会も「この学力テストは徒に競争心を煽るだけで、百害あって一利なし」という事で不参加を決めたのです。
 それは何の為か。企業減税・大衆増税・軍事費増大・乱開発公共事業のあおりで教育予算が削られる中で、その限られた予算を「勝ち組」エリート育成に重点的に配分する為です。全国の児童・生徒を、家庭・学校・地域ぐるみで「序列化・格付け」した上で、ごく少数のエリートには英才教育を、その他大勢にはとりあえず「読み書き・計算」と「奴隷道徳」を、それぞれに施す為です。この学力テストの学校向け調査項目に、「子どもの家には何冊本があるか」なんて「格差調査」紛いのものが多数存在するのも、それで初めて説明が付きます。(以上、下記※1・※2参照)

 安倍政権の「教育改革」は、「学校評価制」「学校選択制」「教育バウチャー制」がその三本柱です。全国の家庭・学校・地域を「評価=序列化・格付け」した上で、「椅子取りゲーム」を子ども・教師・親に強いて、「勝ち組」に行くか「負け組」に行くかを、あくまで自己責任の形を装って「選択」させ、その「点数=バウチャー」に応じて教育予算を各学校に配分する。これは正しく「成果主義賃金」の学校教育版です。(同上、※3参照)

 それで今、教育現場にはどんな事が起こっているか。通常の授業を潰して全国学力テストの予想問題ばかりやらせて、テスト当日には勉強の出来ない子供をワザと欠席させて、それで見かけの順位だけ取り繕って、教育予算獲得に汲々とさせて。これの何処が「教育」なのか、何処が「美しい国」なのか。やっている事はもう、動物園やサーカスや戸塚ヨットスクールの「調教」そのものじゃないか。
 そして、日本の民主教育は滅ぶのです。無着成恭や灰谷健次郎みたいな教師は、すべからく教育現場を追われ、「山びこ学校」の様な優れた教育実践は昔語りとなり、「金八」「GTO」の登場など万が一の可能性もなくなり、教師はみんなサラリーマン教師か、「千田校長」キャラの様な醜い立身出世・上位下達の奴隷教師ばかりとなるのです。(同上、※4参照。「千田校長」はこの中の、金八先生マニアックス>観賞ガイド>第6シリーズで登場)

 また、この全国学力テストのもう一つの実施理由とされる「低学力」「ゆとり教育」「教師の品格」批判についても言及しておきます。昨今は何やら、やれ「子どもの基礎学力が落ちている」だの「教師の不祥事が多い」だのという言説がまことしやかに流されて、だから子ども・教師・親を「競争教育」や「序列化・格付け」で追い込んで切磋琢磨させる必要がある、などと言われていますが、「大嘘も大概にしろ」です。

 前に地元の図書館で、今の小学校・中学校で使っている教科書・副読本の類をちらっと閲覧した事がありますが、そりゃあ、あんな教科書を使っていたら、みんなバカになるのは当たり前です。問題の根は子どもの姿勢や教師の資質などではなく、今のカリキュラムや学習指導要領、教育行政の内容そのものにあるのです。

 一例を挙げれば、社会科の世界地理。私たちが子どもの頃は、大まかにでも一通りの事は習いました。だから、私たちの年代の人で、いくら地理が苦手だった人でも、五大陸の名前や位置を知らない人は、まずいません。仮に「ケニアが世界地図の中の何処に在るのか」や、その首都の名前を知らなかったとしても、「アフリカが何処に在るのか」「ヨーロッパよりも北にあるのか南にあるのか」位は、大抵の人は知っています。また、アパルトヘイトの名称は知らなくても、南アフリカが人種差別の国であった程度の事は、大抵の人は朧げながらも知っています。米国の首都名をど忘れした人はいても、ニューヨークが街の名前か国の名前か人の名前か知らない人は、まずいません。そういう最低限の社会認識は備わっています。
 しかし今の若い人や子どもは違います。紙に世界地図を書かせても昔のゴンドワナ大陸みたいなものしか書けなかったり、ニューヨークが何の名前か知らなかったり、というのが、そんなに珍しい事ではないのです。

 それは何故か。それは、今の社会科の教科書を見れば直ぐ分ります。南アフリカを教える場合でも、「金やダイヤや希少金属の輸入で日本とは深い関係がある」という切り口からまず入るのです。カラハリ砂漠やブッシュマンやボーア戦争やアパルトヘイトの話は、全てその次に来るのです。つまり、その国の風土や民族や歴史に関する基礎的な事を教えるのではなく、あくまで日本の、もっと有体に言えば、「日本の資本家」との関係で「必要な国」「必要な知識」のみを教える、という形を取っているのです。
 これが今までの「ゆとり教育」の実態です。これでは「ゆとり教育」ではなく、人間形成にとっても必要な最低限の社会認識の育成をも欠いた、単なる「手抜き教育」です。では、その「ゆとり教育」を批判している、安倍や教育再生ナンチャラのバカウヨ委員はそれをどう変えようとしているかというと、「日本の資本家にとって必要な国・知識」の量を増やす事しか考えていないのです。ボーア戦争やアパルトヘイトには深入りせず、ネルソン・マンデラやスティーブ・ビコの話や、況してや、電子機器の原材料になる希少資源漁りの為に多国籍企業がアフリカの内戦に介入している実態(「血のダイヤモンド」とか「紛争ダイヤモンド」と呼ばれる現実)などはオクビにも出さないのはそのままにして、その上で、「アフリカの角」や「テロ戦争」や「ソマリアPKO」や「自衛隊イラク派兵の国際貢献」や、「インドのIT人材やカスピ海の石油をゲットする事が日本の国益にとってどれだけ大切か」とか、そういう事をもっと教え込めと、言っているのに過ぎないのです。

 これは他の分野でも事情は同じです。例えば歴史の教科書でも、今はもう旧石器時代(岩宿遺跡や大森貝塚や縄文式土器の話など)など何も教えずに、いきなり弥生時代(邪馬台国の話など)から入って直ぐに大和朝廷の話にいくのでしょう。扶桑社発行の教科書に至っては、天岩戸神話や神武東征図まで登場させて、それを史実として教え込む事までやってのけて。そうして、琉球やアイヌやサンカ・漂泊民の存在は、史実からは徹底的に抹消され、登場してもせいぜい「祀ろわぬ民、野蛮人」としてしか描かれずに。(同上、※5参照)

 こんな、「エコノミック・アニマル」や「ヤマト中心史観」むき出しの、地方や他国については人を人とも思わない、自国本位・「勝ち組」本位のジコチュー教育ばっかりやっているから、子どもは虐めに走るし、ストレスに負けて堕落した教師が出てきて不祥事を引き起こすのです。イラクが世界地図の何処に在るのかも知らないくせに、「国際貢献」や「テロとの戦い」の宣伝に乗せられたバカ・ネットウヨが量産されるのです。「太田総理と秘書田中」のテレビ番組で、いつも太田光に対して嵩にかかった様な物言いしか出来ない自民党国会議員のサル・メガネデブや、茶髪の低脳米国人や、台湾のウヨク女などを見ていると、それがよく分ります。
 しかも、そんな事態を長期に渡って作り上げてきたカリキュラムや、己の教師採用の人の目の無さ・無能力や、やらせタウンミーティングや、教育産業との癒着・天下りに見られる欺瞞・ペテン・二枚舌といった事は全て頬かむりしながら、あろうことか、その教師の不祥事や子どもの虐め自殺を、また新たな国家統制の呼び水に利用するという悪辣ぶりまで発揮して。そんな輩を量産する為の、序列化・格付けであり、全国学力テストの導入なのです。「天に唾する」「盗人猛々しい」にも程がある。
 
 こんな格付け・差別助長とバカウヨ量産でしかない全国学力テストなんて止めちまえ!学力テスト粉砕!金八もGTOもヤンクミも、安倍マルコスや教育再生会議の、腐れ「千田校長」キャラやバカウヨなんかに負けるな!


【参考記事】

※1:学力テストは果たして純粋な学力調査か?

・学力テスト関連報道(教育基本法「改正」情報センター)
 http://www.stop-ner.jp/0704ner-gakute.html
・全国学力・学習状況調査の概要について(文部科学省)
 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/zenkoku/07032809.htm
・教基法改正情報センター<解説>
 文科省「全国学力・学習状況調査」をどう考えるのか?(暫定版)
 http://www.stop-ner.jp/070410gakute.htm
・犬山市教育委員会の言い分(Internet Zone)
 http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2007/04/24222103.php
・犬山市教委・刊「全国学力テスト、参加しません。」(明石書店)
 http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2520-1
・平成18年度施策「学びの学校づくり」(犬山市教委)
 http://www.inuyama-aic.ed.jp/i-manabi.h.p/inuyumapuran/H18sesaku.pdf

※2:学力テストと教育産業の癒着

・全国学力テストと調査が丸ごとベネッセに(Internet Zone)
 http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2007/02/22231036.php
・「全国学力テスト」は何のため?その目的とは?(ベネッセ教育情報サイト)
 http://benesse.jp/blog/20060523/p2.html

※3:安倍政権の教育政策、その中でのバウチャー制度の位置づけ

・「教育改革」/安倍首相が狙うもの(しんぶん赤旗)
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-09-29/2006092903_01_0.html
・安倍氏が目指す「強い子ども作り」とは(朝鮮日報)
 http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/29/20060829000036.html
・アメリカの「教育バウチャー制度」
 http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/jimusyo/151NY/INDEX.HTM#2

※4:文学とドラマに見る日本戦後教育の一断面

・無着成恭「山びこ学校」(名作の舞台)
 http://www.zusi.net/meisaku/yamabiko/gakkou.htm
・灰谷健次郎原作「兎の眼」と「太陽の子~てだのふぁ」
 http://www.hyogonet.com/drama/haitani.html
・ドラマ「3年B組金八先生」(金八先生マニアックス)
 http://homepage1.nifty.com/quinella/kinpachi/
・ドラマ「GTO」(フジテレビ)
 http://www.fujitv.co.jp/b_hp/gto/index.html 
・ドラマ「めだか」(フジテレビ)
 http://www.fujitv.co.jp/b_hp/medaka/
・ドラマ「ごくせん」(日本テレビ)
 http://www.ntv.co.jp/gokusen/
・映画「パッチギ」
 http://www.pacchigi.jp/first/

※5:中学校社会科の授業で国・地域や史実を取り上げる際の基準

・現行の中学校(社会科)学習指導要領(1998年12月告示、文部科学省)
 「世界の国々の中から幾つかの国を取り上げ,地理的事象を見いだして追究し,地域的特色をとらえさせる」「(世界の国々については)二つ又は三つの国を事例として選び,具体的に取り扱うようにすること」の記述や、「~の事象に深入りするな、~の範囲に止めよ」という表現が随所に出てくる事に注意。これは勿論、単に「平易な授業を心掛けよ」というのではなく、寧ろ「国益や企業益に役立つ事だけを教えろ」という事でしょう。
 http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301c/990301c.htm
・主な教科書の目次内容(教育情報ナショナルセンター)
 http://www.nicer.go.jp/lom/program/search/textbook_publisher.php?kind=juniorhigh&subject=%BC%D2%B2%F1&field=%C3%CF%CD%FD&uid=&orgid=&sid=
 例えば、その中の大阪書籍の教科書目次を見ると、世界地理の内容が「世界の国について調べてみよう」の1項目だけで済まされ、後は日本との関係で中国・米国・イタリアの三国だけが個別に取り上げられている。企業の立場から言えば、前二国さえ押さえればそれで充分なのかも。
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統一地方選、変化への胎動

2007年04月24日 09時43分13秒 | 反石原・’07東京都知事選
 統一地方選挙が前半戦・後半戦ともに終わりました。この統一地方選挙で、各党の消長や政治の流れがどう現われたのかを見ようと思うのですが、これがなかなか難しい。まず、後半戦の市町村長・議員選挙については、この間の「平成の大合併」で市町村数や議員定数自体が激減しているので、前回との比較が出来ません。そして私も、全国の選挙について、くまなく知っている訳ではありません。そういう訳で、目についたものを中心に幾つか。東京都知事選挙については今までも散々書いたので、出来るだけそれ以外の所から。と言いつつも、また書いてしまった様ですが。

●あの羽柴秀吉が次点に詰め寄る?!(北海道夕張市長選挙)

 財政破綻で一躍有名になり、「再建請負人」を自称する人たちの宣伝の場と化した夕張市長選挙ですが、結果は地元出身者の当選となりました。そして次点に詰め寄ったのが、あの青森県金木出身のホテル成金の羽柴秀吉。この人、テレビで見ましたが、金木にお城みたいな御殿を築いて、朝食に金箔を食べて「うまいうまい」と言っていた、あの有名人です。財力にモノを言わせてあちこちの選挙に出馬する「選挙マニア」でもあり、まあこの手の人は昔から他にもいましたが(大阪では藤井吉三郎とか)、まさか当選者にあそこまで僅差に詰め寄るとは思いませんでした。
 地元のホテルを買い取るとの公約が効いたのか。あんな泡沫候補でも「藁をもすがる」気持ちで投票せざるを得なかった夕張市民の気持ちを思うと、あそこまで市民を追い詰めた国や炭鉱資本の悪辣さには、今更ながら憤りを禁じ得ません。確かに売れない観光施設を作った歴代市長のバカさ加減も糾弾されなければなりませんが、その事で、炭鉱資本が撤退に際してその尻拭いを市や市民に押し付け、国はそれを見てみぬふりした挙句に交付金削減で止めを刺したという、根本原因を忘れてはならない筈です。全国各地で、「夕張」が福祉切り捨ての格好の口実に利用されようとしている事には、引き続き警戒の目を向けていかなければ。

●「民主党の躍進」(都道府県議選・参院福島補選)

 都道府県議選で一番注目を集めたのが、民主党の躍進。何せ得票も議席も倍増で、その躍進ぶりは、かつての70年代初頭における共産党のそれを、彷彿とさせるものがあります。まあ議席も得票も増えて「躍進」しているのは間違いないのだろうけれど、「実態はどうなのよ?!」という気持ちが、私はどうしても拭えないのですが。
 だって、そうでしょう。都道府県議や政令指定市議こそ、そこそこ居るものの、地方や末端の市町村議レベルに行くに従って「影も形も無くなる」じゃない、あの党は。自分の町や職場に、民主党の党員や支部があって、実際に活動している?全然していないじゃない。実態は、かつて自民党や社会党にいた議員の後援会組織が「民主党」を名乗っているだけで、自前の支部も党員も殆ど居らず、党財政も殆どが政党助成金で賄われるような「蜃気楼政党」じゃないか。その時の風の吹きようで、ある時は「憲法改正・行革推進」、風向きが変わればその時だけ「格差是正・反自民」を口にする、それで議席を取れる「気軽な商売」。保守二大政党制の下で、こんな政党に「格差是正」を託さなければならない庶民の無力が悲しい。

●小泉劇場の再現か?(参院沖縄補選)

 参院沖縄補選では、与党候補がからくも逃げ切り、野党統一候補が惜敗しました。選挙戦では与党は徹底して、基地問題を選挙戦の争点から外しまくったらしい。そして40歳代の女性候補を押し立てて、「台所からの視点」だの「格差是正」だのを言いまくったとの事。その選挙戦術が失業率ワーストワンの沖縄では功を奏して、選挙にせり勝ったのだとか。勿論、それに加えて、安倍マルコスを始めとした閣僚の梃入れとか、基地対策交付金を使っての「アメとムチ」や、本土や地場のゼネコン資本を中心とした企業ぐるみ選挙の締め付けもあったのでしょう。ここでは与党が、民主党の「生活維新」のスローガンを奪った格好になりました。労組出身の初老のオヤジに対して、「市民派」の衣をまとった女性候補をぶつけるとは、あの安倍マルコスにしては、なかなかやるじゃない。おそらく小泉や世耕弘成あたりが裏で手を回したんだろうけれど。私としては、連合沖縄出身の候補が、ここまで反自民・反安保の姿勢を鮮明にして、野党統一候補としてよく戦えたなあと感心していたのですが。当該選挙が47%余の低投票率だったのも気にかかる所です。

●変化への胎動(東京・国立市長選、他)

 しかし、そんな中でも、変化の胎動を予感させる動きも感じられます。高知県東洋町の町長選挙では、国の尻馬に乗って核廃棄物処分場誘致で独断専行したワンマン町長が敗れ去りました。滋賀県議選では、新幹線栗東新駅の建設凍結を掲げた嘉田知事支持派が躍進して、自民党が大敗しました(ただその肝心の嘉田知事が言う事が二転三転して頼りない、そういう意味では浅野史郎とよく似ている)。定数一の選挙区でも共産党候補が相次いで当選を勝ち取ったり(大阪・大正区の府議選、長崎市議選など)。あと、沖縄県の宜野湾市長選挙でも、普天間基地撤去を公約に掲げる民主市政の継続・発展に成功した事も。こういう「変化の胎動」を感じさせる予兆もありました。

 その中でもとりわけ私の目を引いたのが、東京都国立市長選挙で、上原公子市長の後継者が見事当選を果たして、民主市政の継続・発展に成功した事です。国立といえば、一橋大学のある文教都市として有名で、街中に湧水があったりして、武蔵野丘陵の面影が残る町です。戦前から消費生活協同組合の活動があったりして、中央線沿線や三多摩の「革新ベルト地帯」の一角を構成してきた所でした。石原都政にとっては正しく「目の上のタンコブ」で、だから手下の都議や右翼を使って、あの手この手の民主市政妨害策を弄してきたのでしょう。その延長線上に上原市長の不出馬表明があり、民主市政の継続が危ぶまれていました。
 またあそこは一方では、あのキチガイの石原を始め、神奈川県知事の松沢成文(しげふみ)や埼玉県知事の上田清司(きよし)に代表されるように、松下政経塾や日本会議・「新しい教科書をつくる会」の流れを引く右翼ネオコン・ネオリベ政治家が猛威を振るって、恰も福祉を攻撃し弱い者虐めをするのが、さも「改革」であり「流行」であるかのように装い、それが一定の根強い基盤を有している、そういう土地柄でもあります。そんな「東京・南関東ネオコンベルト地帯」の中で、中央線沿線・三多摩の「革新ベルト地帯」がどれだけ底力を発揮出来るのか、我ながら心配でした。まずは民主市政の継続・発展に成功したという事で、ホッとしています。
 こんな事を書くと、改憲手続(国民投票)法案を始め、少年法改悪案や教育3悪法などの反動法案が目白押しで出てきているのに、「何を暢気な事を書いているのか」と言われるかも知れません。実は斯く言う私自身も、半分そんな気持ちで書いています。しかし、こんな時だからこそ、どんな小さな「変化への胎動」をも見逃さず、それを「今の流行、トレンド」にまで押し上げるくらいの気持ちでいなければいけないのではないでしょうか。外山恒一の様に「選挙など全て茶番だ、もはや政府転覆しか無い」の一事で以って、それで全部済ます事が出来たらどれだけ楽か(しかしあのYouTubeの政見放送の動画は面白かった、もう見れないのが残念)。

 ちなみに、浅野+吉田の反石原票が石原票を上回ったのは次の行政区です。いずれも出典は「きまぐれな日々」の下記記事より。数値は反石原と石原の票比率です。武蔵野(109.76%)、三鷹(103.86%)、小金井(105.69%)、国分寺(105.32%)、国立(105.26%)、清瀬(112.49%)、多摩(107.14%)、西東京(100.17%)。それに対して、都心(中央・千代田・港)や城東(葛飾・江東・江戸川など)の区部ではやはり石原がまだまだ強く、そういう意味では、過日の拙稿記事「石原都政を誰が支持しているのか」でも触れた内容が裏付けられた形となりました。

(参考記事)

・注目! 国立(くにたち)市長選(きまぐれな日々)
 http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-293.html
・注目! 国立(くにたち)市長選(2)(同上)
 http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-312.html
・“嘉田チルドレン”大躍進 滋賀県議選(中日新聞)
 http://www.chunichi.co.jp/ee/feature/chihosen07/070409T0405002.html
・新幹線「栗東新駅」、自民が凍結容認へ(朝日新聞)
 http://www.asahi.com/politics/update/0423/OSK200704230050.html
・東洋町長選 「核処分場はいらない」(徳島新聞)
 http://www.topics.or.jp/index.html?m1=10&m2=33&eid=news_117728976605&vm=1
・核廃棄物処分場の建設地調査(高知県東洋町)町長が応募(ブログ・ヘッドライン)
 http://www.blog-headline.jp/archives/2007/02/post_2158.html
・長崎市議選/定数1の2選挙区で当選/合併区 津村(香焼)、内田(伊王島)の両氏(しんぶん赤旗)
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-07/01_02.html
・私財200億円「羽柴秀吉」夕張市長選に殴り込み(産経・イザ!)
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/42063/
・「夕張市の財政破綻」と「日本の行方」(岸田コラム)
 http://kishida.biz/column/2006/20060822.html
・島尻氏が初当選 狩俣氏に2万7018票差 参院沖縄補選(琉球新報)
 http://ryukyushimpo.jp/modules/news/article.php?storyid=23200
・沖縄の参院補選での与党勝利について沖縄育ち「やきとり」氏による分析(低気温のエクスタシーbyはなゆー)
 http://alcyone.seesaa.net/article/39873750.html
・特集「基地と沖縄」(沖縄タイムス)
 http://www.okinawatimes.co.jp/spe/k_index.html 
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地元市長選を敢えて都知事選に準えてみた

2007年04月23日 10時13分45秒 | 反石原・’07東京都知事選
 統一地方選挙の後半戦には我が市の市長・市議選がありましたが、はっきり言って、少なくとも私にとっては「しらけムード」そのものでした。それでも棄権だけはせずに、それなりに考えて投票はしましたが、気分的には「もう棄権もありかな」という感じで。

 我が市の今の市長は三期目で、数年前の初当選時には「市町村合併の押し付け反対」を公約に掲げて、当時の保守系現職にダブルスコアの差をつけて当選してきた人でした。この時は、当時の市長による余りにも露骨な合併ごり押し策への反発から、誰もが予想しなかった初当選を飾り、私も投票日翌日に「おおっ」と驚いた記憶があります。その後は議会と対立して、自ら市長を辞任して信任投票に打って出て無投票で二期目に当選して、今度がその三期目という訳です。

 そういう経過から、私も今まではこの今の市長を応援していたのですが、近年はこの市長は評判が余り宜しくなく、私も今はもう興ざめしてしまっているのです。前市長からの保育所民営化施策をそのまま引継いだり、最近は市の発注工事を身内の業者に引継いだりして、余り評判が宜しくない。最近公開された米国映画「オール・ザ・キングスメン」のあらすじを正に地で行く様な展開を辿っていました。

 ただ、そんな市長を告発する方もする方で、今の市政の「一体何が問題なのか」を上手く伝えられていないのか、一市民にしか過ぎない私にとっては「一体何が何だか全然分らない」のです。前市長派の保守勢力と批判派に転じた共産党が、今の市長を批判しているのですが、共産党市議発行の新聞折込の市政ニュース(ビラ)を読んでも、事件となった落札の経過や文書類の解説が為されているのですが、説明がやたら専門的すぎて「何が何だか全然分らない」。この間も、この事をその議員関係者にぶつけたら、その人も同じ意見で、しかも他からもそういう声は聞いているが、「分りやすく書ける書き手がいない」という事を仰っていました。

 それで今回の市長選・市議選なのですが、市長選にはその今の市長を含めて3人が立候補しました。今の市長と、かつての市長派と袂を分った新人女性候補(共産党が勝手連で応援?)と、以前から反市長派だった保守系新人(前市長派で自民・公明両党が実質支援?)の、3人です。しかも市議選では、現市長派の数人の市議が徒党を組んで、駅前で揃いぶみで演説したり、選挙ポスターに「無所属・市民派」の統一ロゴを入れたりして(これで何が無党派かよ、完全な党派じゃないか)、私の「興ざめムード」が更に煽られる形になりました。
 私は最終的には消去法で、市長選挙には新人女性候補に投票しました。前述の党市議とのつながりや、久々の女性候補である事や、選挙公約の内容なども勘案した上で、あくまで消極的な支持という形で。結果は、今の現職市長が70%余りの票を集めての圧勝でした。まあ、保守系(前市長派)の当選という最悪の選択だけは避けられたので、それだけはホッとしています。

 これを、経過も背景も異なる事を承知で、敢えて東京都知事選に準えて考えてみたら、心変わりした浅野タイプの現職が圧勝して、吉田タイプの新人女性候補が次点で、石原タイプ(但しこの比喩はあくまでも思想的に一番近そうという意味合いにしか過ぎず、実際には幾ら何でも石原ほど酷くはないとは思う)は泡沫に終わり、そういう意味では、我が市では「浅野vs吉田の、夢の競演」に持ち込めたのかも。投票率も低かったとの事なので、案外東京都民も、私みたいな人が多かったのでは。
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自粛・沈黙するな、民主主義を守れ―長崎市長銃撃事件続報

2007年04月21日 08時45分35秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
※先のエントリー記事「民主主義破壊のテロ糾弾!自粛反対!」の続報です。いずれもAMLからの転載です。


●[AML 13450] 【長崎】長崎市長銃撃の件での署名活動にご協力を!

各位

長崎市長銃撃事件につき、暴力の追放と民主主義の擁護を訴える署名活動
が行われます。全国の方もぜひご協力ください。

署名用紙をFAXかメールでお送りしますので、必要な方は
下記メールアドレスまでご請求ください。
※署名用紙は長崎市内住民対象および市外住民対象を用意しております。
 送り先は、呼びかけ文の末尾にあります。

署名用紙ネット請求先→ tanu at h7.dion.ne.jp たぬ涼まで

なお、この署名第一次集約は24日(火)21時までで、集めた署名は
26日(木)に世話人の平野伸人さんが直接首相官邸まで届ける予定です。

その後も引き続き集めますのでよろしくお願いします。

(以下、呼びかけ文より)
***********************************
長崎市民が声を上げよう

長崎市長への銃撃・殺害を糾弾し、
暴力の追放と民主主義の擁護を訴える署名活動に多数の市民の参加を !

このたびの市長銃撃・殺害の事態を憂慮し、以下のような署名をおこないたい
と考えました。暴力によって自由にものがいえない社会になってはいけないと
思うのです。平和都市・長崎からの発信や平和運動も、こういった事件で大きな
影響をうけます。事実、4月22日に予定されていた高校生1万人署名活動が
中止・自粛となりました。高校生の活動にも重大な影響を与えています。長崎
市民が声を上げなければなりません。皆様の参加をお願いします。

緊急署名活動 

日時:4月22日(日)
    12時30分集合~2時30分くらいまで

場所:中央橋鉄橋

※署名用紙の内容については多少の変更があるかもしれませんのでご承知おきください。

*************************************************************************
内閣総理大臣
 安 倍 晋 三 様  2007年4月22日

 市長への銃撃・殺害を糾弾し、暴力の追放と民主主義の擁護を訴えます
~平和都市・長崎を取り戻すための市民の署名~

 4月18日午前2時28分、伊藤一長市長はついに帰らぬ人になりました。
現役の市長が、市長選挙の最中に選挙事務所の前で暴力団幹部に銃撃され殺害
されたという事態に、私たちは大きな衝撃を受けています。
選挙は民意の赴くところを明らかにしようとするものであり、それはいわば民主
主義の実践そのものです。選挙運動中は候補者と有権者がじかに触れ合うことが
大切にされるのでみんな無防備になります。そんな場面を狙う暴力は卑劣という
以外ありません。

 長崎では、1990年に本島市長が右翼団体幹部に白昼市役所玄関で銃撃される
という事件が起こりました。また昨年8月には、自民党の加藤紘一元幹事長の実家
が右翼団体幹部の放火によって全焼させられました。これらは明らかに政治家の
思想と言論を封殺しようとするテロでした。
 この間、政治家だけでなく、新聞社、大学教授、ジャーナリストも脅迫や暴力の
対象になり、意に添わない存在を暴力によって脅迫し、殺害せんとする行為がはび
こり始めているのではないかと懸念せざるを得ません。暴力にものを言わせるの
ではなくて、円満な話し合いによって物事を決していこうというのが民主主義社会
の基本ルールです。テロや暴力はこのルールを真っ向から否定するものです。それ
は民主主義の破壊であると言わなければなりません。

 テロや暴力は、人びとを威嚇し、発言や行動を萎縮せしめ、強者に服従させよう
とする効果をもちます。だから私たちは、いまこそ、いかなる暴力も許してはなり
ません。そして暴力を追放し、思想及び良心の自由を最大限に保障し、違いを認め
合い、違う者同士が共生し合う寛容な民主主義社会の確立をめざしていかなければ
なりません。

 わたしたちはすべての暴力の否定と民主主義の擁護確立を心の底から訴えます。
そして、被爆国日本に生きる市民としての自覚を持ち、今後も平和と民主主義を
守るための取り組みを続けていくことを誓いつつ、次のことをお願いする次第です。

              記

1、暴力の追放と民主主義の擁護のために、全国民的な取り組みを進めることを求めます。

2、行政対象暴力の根絶のための対策を求めます。


(連絡先・署名集約先)
   長崎市筑後町2-1 長崎県教育文化会館内 
      市民運動ネットワーク長崎内
暴力の追放と民主主義の擁護を訴える長崎市民有志一同
      (TEL&FAX:095-822ー4098)

以上

 http://list.jca.apc.org/public/aml/2007-April/013007.html



●[AML 13451] 伊藤一長・長崎市長襲撃に激しい憤りを表明し、暴力の根絶を求める声明

伊藤一長・長崎市長襲撃に激しい憤りを表明し、暴力の根絶を求める声明

                       市民の意見30の会
     2007年4月20日

 伊藤一長(いっちょう)長崎市長が4月17日夜、銃撃され、翌日午前2時過
ぎに亡くなりました。伊藤市長は選挙の遊説を終えて選挙事務所に帰り着いた
ところを襲われ、病院に運ばれましたが、心肺停止のまま逝かれたと報道され
ています。

 この恐ろしい事態に、私たちは心底から湧き上がる憤りを禁じ得ません。こ
のような暴力行為は絶対にあってはならないことであり、強い抗議を表明しま
す。

 市長を襲ったのは暴力団系団体の幹部と発表されています。報道は、動機に
ついて、長崎県警は長崎市への「個人的な恨み」との見方を強めていると伝え
ていますが、それが事実であるかどうかは、現段階ではわかりません。

 しかし私たちは、動機がどうであれ、自治体の首長を銃撃するということ自
体にまず憤りを感じます。選挙期間中に候補者を襲撃するのは民主主義と地方
自治を破壊することに他なりません。

 故伊藤市長は最初から核廃絶の理念をかざしていたわけではなかったとはい
え、市長就任後は被爆地・ナガサキの思いを国内外で積極的に表明してきまし
た。昨年8月の長崎平和宣言では核保有国、とりわけ米国が「核軍縮に真摯
(しんし)に取り組もうとしない」ことを糾弾し、昨秋の中川昭一・自民党政
調会長の核保有論議発言を「被爆地の市長として看過できない」と厳しく批判
しました。

 私たち「市民の意見30の会」は、「殺すな」と主張し続けてきました。世
界から戦争をなくすことをめざして「武力で平和をつくれない」と訴え、戦争
のない世界を創造するために、積極的な非暴力直接行動を含む「市民の平和力」
の発揮を呼びかけてきました。

 しかし伊藤市長が銃撃された前日、4月16日、米国バージニア州の工科大
学で32人が射殺された事件に表われているように、小火器は世界に広がって
います。小火器製造国は1960年から99年の間に2倍になり、64カ国の
385の企業が小火器や爆薬を製造しているといいます。そればかりか、アフ
ガニスタンやイラクなどでは、もっと残虐な最新鋭の兵器が無数に使用され、
連日、多くの人びとが殺されています。核保有諸国は核軍縮に見向きもせず、
武器輸出で莫大な利益を得ています。米国で起きた惨劇は今後も繰り返される
と予想せざるを得ません。

私たちは、今回の暴力行為を強い怒りをこめて批判します。思想・表現の自
由を暴力で踏みにじることを断じて許しません。

 私たちは、故伊藤一長・長崎市長のご逝去に深い哀悼の意を表し、すべての
武器の廃棄をめざします。いっさいの暴力の行使を停止させ、この地球上から
戦争をなくすため、あくまで非暴力の市民運動を強化・拡大することをあらた
めて誓います。

 http://list.jca.apc.org/public/aml/2007-April/013008.html
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なにわB級グルメ探訪2 肉吸

2007年04月20日 09時57分46秒 | なにわB級グルメ探訪
 都知事選が一応終わって、世間ではまだ統一地方選挙の後半戦たけなわですが、この後には改憲手続(国民投票)法案・参院選・その他諸々が控えていますので、今のうちに身辺雑記記事を幾つか。

 先の「シチュウー」に続くこのシリーズの2作目として、ここでは「肉吸」を取り上げます。「肉吸」というのは、平たく言えば「肉うどんから、うどんだけ抜いたもの」です。誕生のキッカケは、吉本芸人の花紀京が、昼飯を食べに近くのうどん屋に立ち寄った際に、二日酔いで食欲が無かったので、肉うどんをうどん抜きで注文したのが始まりです。それが評判を呼んで、そのうどん屋「千とせ」の看板メニューになりました。

 うどん屋「千とせ」の場所は、大阪・難波千日前の、吉本会館(なんばグランド花月)裏にあります。丁度、道具屋筋の裏手です。何の変哲も無い狭いうどん屋で、メニューも肉吸の他はうどんと丼しかありません。そんな店であるのも関わらず、いつ行っても11時過ぎには店の前には行列が出来ています。私が行った時も、店に入るまでに約20分の行列待ちでした。

 写真がその「肉吸」です。肉うどんからうどんだけ抜いたもので、580円。他にも「豚吸」500円、「玉吸」200円があります。同様に、うどんだけを抜いたものです。これにご飯(大180円、小150円)を頼むと、胡瓜と茄子の漬物が付いてきます。店のオバちゃんが、調理の合間に、片隅でせっせと茄子を包丁で切って漬物を作っています。

 肉吸と小ご飯だけではちと物寂しいので、卵をご飯にかけてもらいました。これが「小玉」で200円。しかし、肉吸を食べると、中から半熟卵が出てくるではありませんか。これだと別に卵ご飯にしなくても良かったのに。まあそうは言っても、久しぶりに卵ご飯も食べられた訳だし(子どもの時はこれを「卵のドロドロ」と言って、オカズの無い時は、これをごま昆布や海苔と一緒に、食べさせられたっけ)、まあいいか。

 しかし、所詮は「肉うどんからうどんだけ抜いたもの」じゃないか。何でこんなものが、店の他のうどんや丼のメニューを尻目に、行列が出来るほどの評判になるのかが、よく分らない。やはり吉本興業のネームバリューの為せる業か。この店は吉本芸人の行きつけの店の一つなのだそうで、私が行った時は芸能人こそ居なかったが、吉本関係と思しき会社の職員が大勢飯を食っていました。

・FM大阪ネットの関連記事
 http://fmosaka.net/antenna/food/archives/2006/05/post_264.html
・吉本会館 グランド花月(NGK)
 http://homepage2.nifty.com/1coco/yosimoto.html

 尚、シリーズ3作目は「かすうどん」を考えています。これは私も始めて食べるものですが、アブラカス(牛の小腸を油で揚げたもの)が入っているとの事なので、実は逡巡しています。私はレバーが苦手なので。止めておこうか、それとも、これを期に初挑戦しようかと。
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民主主義破壊のテロ糾弾!自粛反対!

2007年04月19日 09時26分22秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
 4月17日夜、伊藤一長・長崎市長が、統一地方選後半戦の、当該市長選挙の最中に、テロの凶弾に倒れました。選挙遊説を終えて選挙事務所に帰って来た所を、背後の至近距離から銃で撃たれ、病院に搬送されるも緊急手術の甲斐も無く、翌日早くに亡くなられました。まずはさておき、同市長のご冥福をお祈り申し上げます。

 この市長銃撃事件は、地元の山口組系暴力団(水心会)の幹部(城尾哲弥容疑者)が起こしたものでした。その殺害動機については、市道工事現場で自分の乗用車が脱輪・損傷した事や、市の発注事業を受注出来なかった事などを逆恨みして、今までも訴訟を起こしたり、報道機関に自筆の告発文を送りつけたりして、市側とトラブルになっていた事などが、既に明らかになっています。
 以上の様に、動機については一応は私怨絡みとされていますが、ネットでは市の平和行政に対する右翼側からの圧力を指摘する声も挙がっています(例:[AML 13415] )。長崎では1990年にも、当時の本島等市長が、天皇の戦争責任を認める発言をした事で右翼から銃撃されており、またもや同じ事が繰り返された格好になりました。

 公選法の規定によると、今回の場合は、投票日まで未だ後3日以上在るので、死去した現職市長候補の補充立候補を受け付ける形で、選挙戦はそのまま続行されます。既に市長の娘婿の方が後継者として立候補を表明しました。
 今回の市長選挙には、亡くなった伊藤市長の他に、2人の無所属候補と共産党公認候補の、計4人が立候補していました。この中で、何と共産党公認候補が、この事件を期に、市長に哀悼の意を示す形での「候補者活動の自粛」を表明しました(18日付しんぶん赤旗15面記事より)。そして、先程ネットを見たら、他の候補者も、選挙活動の自粛に踏み切ったとの報道が為されていました。しかし、私はこれには反対です。

 今回の銃撃によって、市長の成り手が居なくなりでもしたら、それこそ暴力団の思う壺ではないですか。それが政治的背景を持った右翼のテロであるならば、尚更そうです。そういう意味でも、補充立候補に応じた方の勇気には、思想信条の違いを超えて、敬服します。
 そんな時に、逆に「候補者活動の自粛」などしたら、それこそ右翼や暴力団による「無言の圧力」に屈した事になります。かつての戦前日本で、2.26事件によって、反戦世論も政党政治も消滅させられたのと、全く同じ轍を踏む事になってしまいます。それはまた、昭和天皇の死去の際の「自粛」強要に反対した、かつての共産党の姿勢とも矛盾します。第一、この市長選で掲げた公約や、それを見て既に期日前投票を済ませた有権者の意志を、踏みにじる事になります。

 どんな形にしろ、民主主義がテロに屈してはダメです。況してや「自粛」などは以ての外です。テロがあろうが無かろうが、<それまでと全く同じ様に>論戦も候補者活動も行われるべきです。市長娘婿の補充立候補者に対しても、それまでの伊藤市長に対してと同様に、何ら遠慮する事無く論戦を挑むべきです。それでこそ、真の意味での「テロに屈しない」という事であり、テロの犠牲になった伊藤市長への弔いともなるでしょう。

(参考記事)

・特集・伊藤長崎市長銃撃事件(長崎新聞)
 http://www.nagasaki-np.co.jp/press/itouzyugeki/index.shtml
・容疑者所属の水心会、地元では「武闘派」トラブル度々(読売新聞・九州版)
 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/jyugeki/704/jy_07041805.htm
・長崎市長射殺:「いかなる理由でも暴力許さず」本島前市長(毎日新聞)
 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/nagasaki/news/20070418k0000e040021000c.html
・伊藤長崎市長撃たれる/憎むべきテロ行為を糾弾する/選挙事務所前/心肺停止の状態/暴力団幹部を現行犯逮捕(しんぶん赤旗)―「憎むべきテロ行為を糾弾する」のであれば、尚の事「自粛」などすべきではない。
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-18/2007041801_01_0.html
・3候補は選挙活動を自粛 長崎市長選(朝日新聞)
 http://www.asahi.com/special/070417a/SEB200704180031.html
・長崎市長選は有効 19日まで補充立候補受け付け(同上)
 http://www2.asahi.com/senkyo2007t/news/JJT200704180003.html
・久間防衛相発言は不適切=官房長官も指摘-野党は一斉批判・長崎市長銃撃(時事通信)―伊藤氏を欠いた長崎市長選では「共産党の候補者が当選することになる」(久間章生)だと。アホか。こんな時にもそんな事しかよう言わんのか、このオッサンは。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070418-00000115-jij-pol 
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ポストモダンをひっぱたきたい

2007年04月15日 22時54分10秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
 改憲手続(憲法改正国民投票)法案が、衆院の憲法調査特別委員会に続いて本会議でも可決され、参院に送付されました。この衆院特別委員会での強行採決の時の様子が、ウチの職場でも話題になりました。
 ただ、その「話題のなり方」というのが、私から見たら「物足りない」というか「ピント外れ」というか、やたら斜に構えてみせて「与野党どっちもどっち、政治なんてこんなモノさ」と、せいぜい冷笑してみせるだけで、全然その中に「怒り」が感じられないのです。

 まず、衆院特別委員会での強行採決の時に、職権で採決をごり押ししようとした中山太郎委員長の、前にあったマイクを野党議員が投げ捨てた事に対しても、「これは八百長芝居だ」「俺はこう言うから、その時にお前はここでマイクを放れ」「これで自民党は実を取り野党は抵抗ポーズで点数を上げられる」という意見が大勢でした。
 そして、その翌日も、休憩室で強行採決の場面をテレビニュースで見ていた面々が、地元大阪選出の衆院議員である中山太郎の悪口を言っていましたが、こちらも「このオイボレが、そろそろ後進に道を譲らんかい」というレベルでの批判に止まっていました。

 確かに、55年体制下の自民・社会両党や、今の自民・民主両党の間の、表向き対決ポーズの陰での裏取引によって、消費税・小選挙区制導入や格差社会化が進められてきました。そんな中で、映画「オール・ザ・キングスメン」の様な場面を何度も見せつけられると、そりゃあ誰しも「与野党どっちもどっち、出来レース」と愚痴の一つも言いたくなるでしょう。大正生まれで80歳超の中山太郎がオイボレなのも、その通りでしょう。しかし、今問題になっている事は、本当に怒らなければならない事は、そんな事ではないでしょう!!!

 今回の改憲手続法案にしても、国民の知らないうちに地方公聴会をアリバイ的にでっち上げて。その地方公聴会も、間に土・日曜日を挟んでの僅か数日間しか応募期間が無く、それもメールはダメで封書でしか受付けず。そして、そんな公聴会であるにも関わらず、120数人からの応募公述人のうちの108人までが今国会での法案採決に反対だったという、そんな中でのいきなりの強行採決。

 それで、その法案の中身も、最低投票率の定めは無いわ(投票率40%なら僅か20%超の賛成で通る)、何だかんだ難癖をつけて公務員や教師の意見は制限させるわ(同じ国民であるにも関わらず)、そのくせ有料意見広告は無制限に垂れ流せるわ(政府与党や財界の、金にモノを言わせての憲法ジャック)と、もうムチャクチャそのもの。

 「与野党馴れ合い」批判も「オイボレ」批判も結構ですが、それ以前に、こんな国民の目隠し・口封じそのものの、法案内容や採決に至る経緯自体に対する批判が、何故全然出てこないのか? 
 確かに、日々の仕事や生活が余りにも忙しいので、しょっちゅう政治ニュースばかりは見ていられないかも知れません。でも少しは新聞も読むでしょう。そうすれば、如何に最近は「ブル新」「番記者」の「ぶら下がり・垂れ流し記事」や「政府広報」記事が目に付くとは言え、それでも、最低投票率の定めが無いなどの問題点も、少しは記事や社説に載っているでしょう。確かに産経新聞を見た限りでは改憲手続法案翼賛記事ばかりでしたが、少なくとも朝日や毎日なら、産経・読売ほどには、政府・財界の請売り翼賛記事ばかりでは無いでしょう。それで何故、腹が立たないのか?

 何故、「オイボレ」云々などの現象面だけでなく、法案の非民主性とか、そういう本質的な部分で何故、腹が立たないのか?腹を立てないのか? そんな質問を、私と懇意な何人かの人に、それとなくしてみた事がありましたが、帰って来た答えは、とどのつまりが「諦めが入っているのでは?」というものでした。

 確かにそうかもしれません。東欧体制崩壊以後、従来型の社会主義・共産主義の権威は完全に地に落ちました。それらの言説はもはや「希望の星」では無くなりました。他方で資本主義の権威はというと、今も昔もとうに地に落ちてはいるのですが、それについては「元々こんなモノさ」という事で諦めさせられたり、「良い面もあるよ」「実際はもっと良いものだよ」とか言われて如何にもその気にさせられてしまったり―という事が往々にしてあります。

 戦後民主主義や平和主義にしても然り。北朝鮮・オーム・少年犯罪から「あるある大辞典」のデータ捏造まで、そんな事が起こるたびに、やれ「人権メタボ」だとか「治安や統制は(当初は)必要悪だ→(やがて)無くてはならないものだ」とかいう議論が出てきて、民主主義は「秩序ある、制度としての民主主義」や「多数決」にすりかわり、徐々に独裁政治に変質していく。

 そうして、社会主義・平和主義・民主主義といった、かつては光り輝いていた「希望の星」言説の衰退に代わって今度は、「正義とか真実といったモノは、この世には存在しない」「物事を決めたり行ったりする際の価値基準は、自分や自国にとっての損得勘定だけだ」といったポストモダン(前近代主義、反知性主義、相対主義)な言説が台頭し、恰もそれがトレンディ(流行)であるかの様に喧伝される。
 そういう中で、自分も知らず知らず斜に構えてしまう癖が見についてしまい、世の中を変える「希望」を「諦め」てきた悪政容認のツケが、今や、回りまわって自分にも降りかかってきている、「自分で自分の首を絞めつつある」というのに、それに全く気がついていないというか。
 前に「丸山眞男をひっぱたきたい」という論考を紹介した事がありますが、その伝で行けば正に「ポストモダンをひっぱたきたい」。

(参考情報)

・「むちゃくちゃ」 抗議の声相次ぐ 国民投票法案採決(朝日新聞)
 http://www.asahi.com/politics/update/0413/TKY200704130017.html
・国民投票法案・与党強行採決でいいのか(琉球新報・社説)
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-22965-storytopic-11.html

・けんぽうあんぎゃ(「憲法行脚の会」事務局長・弁護士 猿田佐世さんのコラム)→このコラムの「憲法審議ってば、今どうなってるの?国会速報」シリーズを読めば、改憲手続(国民投票)法強行採決の舞台裏が一目瞭然。
 http://kenpou.cocolog-nifty.com/angya/

・そもそも、改憲手続(国民投票)法案の何が問題なのか?→今までの拙稿記事を参照して下さい。
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/8ec4072b165919822ab6be52f1f72b30
 
・当初、この記事のタイトルは、以前話題にした赤木智弘の「「丸山眞男」をひっぱたきたい」に準えて、「浅田彰をひっぱたきたい」にする予定でした。しかし、浅田彰については、私が思っていた以上に、ウヨク排外主義批判などの「進歩的側面」がある事も知るに及んで、本記事のタイトルは標記のものにしました。→「ポストモダン」「ポストモダン文学」については下記解説を参照の事。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E6%96%87%E5%AD%A6
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転載:全国革新懇の改憲手続き法案阻止アピール

2007年04月12日 22時40分17秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
※全国革新懇アピールを改めて下記に転載します。3月2日付の聊か古いアピールですが、同法案の危険性が簡潔明瞭に記されているので、敢えて載せます。当該法案の更に詳しい内容については、下記の「憲法改正国民投票法案情報」記事なども参照して下さい。
 http://www.jca.apc.org/~cp_net/kenpo.htm
※本日4月12日の衆院特別委員会における改憲手続き(国民投票)法案の強行採決糾弾!審議未了・廃案へ!強行採決への怒りを参院選で叩きつけよう!


アピール
憲法9条を守り生かす国民世論を圧倒的に広げ、改憲手続き法案を必ず阻止しましょう
    2007年3月2日  全国革新懇(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会)

 憲法改定の手続きを定める国民投票法案(改憲手続き法案)の情勢が重大な局面を迎えています。同法案を、事もあろうに日本国憲法施行60周年記念日の5月3日までに通す動きが、安倍首相を先頭に自民、公明両党などで急浮上しています。
 改憲手続き法案には改憲をしやすくする党略的で、非民主的・不公正なしくみがいくつももりこまれています。
 第一は、国民投票の最低投票率の定めがないうえに、有効投票の過半数で成立するため、ごく一部の賛成で改憲にいたるという問題点です。投票率が50%程度であれば、国民の20%台の賛成でも憲法が変えられてしまいます。
 第二は、資金が必要なテレビ、新聞などの有料広告は投票日2週間前まで自由という定めがあることです。これでは資金力のある財界や改憲勢力がCMなどを独占し、「金で憲法を買う」ことになりかねません。イタリアでは国民投票運動における有料政治広告は全国放送局で禁止され、無料政治広告の原則が確立しています。
 第三は、すべての国民に主権者として自由な運動が保障されるべきなのに、500万人といわれる公務員・教育者について国民投票運動を規制する規定をもうけていることです。
 第四は、改憲案の国民への周知、広報を、改憲推進政党の主導でおこなうしくみが盛り込まれていることです。
 こうした法案の問題点、害悪が徹底的に明らかにされるならば、憲法改定への賛否をも超えて、批判や反対の声が国民のなかに広がらざるを得ません。世論調査でも今回の法案を「今国会で成立させる必要はない」という人が47%で多数です(1月13、14日実施のJNN調査)。
 そもそも改憲手続き法案の最大の標的は9条改定にあります。二期6年という任期中に憲法改定を実現すると宣言した安倍首相は「時代に合わない条文は典型的な例が9条だ」と述べています。
 ”時代遅れ”なる議論についていえば、いま世界ではイラク戦争に示されるように、どんな大国でも軍事力だけでは世界を動かせません。平和的・外交的な解決こそ世界の圧倒的な流れです。国際紛争を解決する手段として武力行使を永久に放棄し、戦力も保持しないことをうたう憲法9条は、いま世界に起こり広がる願いを、先駆的に示しています。
 憲法9条をもつ日本は21世紀の世界できわめて重要な役割をになっています。この大きな展望が開かれている私たちの憲法改悪反対運動の前進は、地球規模で意義をもつものといっても過言ではありません。
 すでに「9条の会」は6000を突破しています。国民の「9条守れ」の声は草の根に広がり、数々のドラマも生まれています。憲法を守る声が多数になることは、「国民が主人公」の希望ある日本をめざす取り組みにとっても、新たな段階をきり開くことになるでしょう。 いまこそ、「憲法9条を守り、生かそう」の声を国民多数派にしましょう。そして改憲手続き法案を大きく包囲し、必ず阻止するために、ともに力をつくそうではありませんか。

 http://www.kakusinkon.org/topix.htm
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