1月29日に88歳で亡くなられた河野多恵子さんの著書「小説の秘密をめぐる十二章」から、印象に残っている記述をご紹介します。
フィクションとは、より自分を現わすためのものだ。なぜ作者は自分自身を隠し、自分を幾重にも包みこんでフィクションを構築するのか。それによって、自分の事実を超えた自分の本質を現わすことができるからだ。そのままの自分自身を告白し書いているだけでは、とても自分の精神の真の様相は表わせないからこそ、われわれはフィクションを書く。フィクションの嘘は単なる変装や偽装ではない。あるいは事実以外のことが書かれていればすなわちフィクションというわけでもない。
引きこもりだったエミリ・ブロンテが、あの「嵐が丘」ではなく、そのままの自分、あるいは変装にすぎない自分においてそれを書いていたらどうだったか。とても彼女の稀有な精神の様相は表わせなかったにちがいない。
フィクションのモチーフとは、作者の精神の本質に根ざしたものでなければならず、それ以外のなにものでもあり得ない。
そして、作家にとって真に書くべき独創的なモチーフを得て書かれた文学作品──そのような作品は言うまでもなく「いかに生きるべきか」という指針を得るために読まれるのでは、ない。むろん、教養を高めるために読まれるのでもない。単に面白いからこそ、読まれるのだ。それが事柄上は荒涼としていようと、あるいは主人公の自殺をもって締めくくられようと、読者自身がこの世にあり、人間のひとりであることを読書前よりも深く新鮮に感じさせ、また人生に対しても〈べき〉などで肯定しない無言の力強い教唆を伝えてくるからこそ、小説は面白い。私はそのようなものこそ真に独創的で優れた作品だと考えている。
上記引用にも出てくる「いかに生きるべきか」というのは嫌いだと、よくおっしゃっていたそうです。ご冥福をお祈りします。
フィクションとは、より自分を現わすためのものだ。なぜ作者は自分自身を隠し、自分を幾重にも包みこんでフィクションを構築するのか。それによって、自分の事実を超えた自分の本質を現わすことができるからだ。そのままの自分自身を告白し書いているだけでは、とても自分の精神の真の様相は表わせないからこそ、われわれはフィクションを書く。フィクションの嘘は単なる変装や偽装ではない。あるいは事実以外のことが書かれていればすなわちフィクションというわけでもない。
引きこもりだったエミリ・ブロンテが、あの「嵐が丘」ではなく、そのままの自分、あるいは変装にすぎない自分においてそれを書いていたらどうだったか。とても彼女の稀有な精神の様相は表わせなかったにちがいない。
フィクションのモチーフとは、作者の精神の本質に根ざしたものでなければならず、それ以外のなにものでもあり得ない。
そして、作家にとって真に書くべき独創的なモチーフを得て書かれた文学作品──そのような作品は言うまでもなく「いかに生きるべきか」という指針を得るために読まれるのでは、ない。むろん、教養を高めるために読まれるのでもない。単に面白いからこそ、読まれるのだ。それが事柄上は荒涼としていようと、あるいは主人公の自殺をもって締めくくられようと、読者自身がこの世にあり、人間のひとりであることを読書前よりも深く新鮮に感じさせ、また人生に対しても〈べき〉などで肯定しない無言の力強い教唆を伝えてくるからこそ、小説は面白い。私はそのようなものこそ真に独創的で優れた作品だと考えている。
上記引用にも出てくる「いかに生きるべきか」というのは嫌いだと、よくおっしゃっていたそうです。ご冥福をお祈りします。