湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

葉山のリトルライブラリー

2024-02-06 08:49:50 | 三浦半島

個人の敷地内にこんな本箱が。

うみとやまのこどもとしょかんどこでも図書館プロジェクトで設置しているそうです。

以前当ブログで紹介した久木の屋外本箱は自宅の前に個人で設置したものでしたが、まちのあちこちにこういう本棚を作っていくのもいい企画ですね

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鉄道唱歌

2023-05-27 23:30:51 | 三浦半島
JR横須賀駅にある案内板。

「鉄道唱歌」10番の歌詞に逗子が出てくるんですね。ちなみに6~9番の内容は鎌倉です。

先日写生会で行ったヴェルニー公園を描いた坂本講師の作品。
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モースの見た江ノ島

2023-04-05 23:33:46 | 三浦半島
江戸初期1615年から続く江ノ島の老舗旅館、恵比寿屋。

その敷地の一角に、大森貝塚発見で知られるエドワード・S・モースの碑が。
モースが最初に来日した際に漁師小屋を改造して作った臨界実験所がここにあったと思われる、ということです。

モースは、シャミセンガイの採集・研究のために訪れた江ノ島で見た日本人を、このように記しています。
いろいろな年齢の子供達が、いたる所にかたまっていた。が、私は最も彼等に近く住んでいたにもかかわらず、滞在中に、只の一度も意地の悪い言葉を耳にしたことがない。赤ン坊は泣くが、母親達はそれに対して笑うだけで、本当に苦しがっている時には、同情深くお腹を撫でてやる。誰もが気持ちのいい微笑で私をむかえた。(「日本その日その日」より)
明治初期に日本を訪れたアメリカ人が、日本人の女子供をこのように好意的に観察し描写するのは、珍しいことではないでしょうか。
「日本その日その日」には、モースにとっての新鮮な驚きを客観的・肯定的に綴った文章とともに、彼のペン画が収められています。
約150年前の江ノ島にこんな1ページがあることを思いながら散策するのも一興ですね。
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江戸の言葉遊び

2022-01-06 09:07:45 | 三浦半島
ペリー上陸の地、久里浜にあるペリー公園。その一角に建つじょうきせんの碑には、有名な狂歌が刻まれています。

泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず


↑昨年12月にオンエアされたテレビ番組「日本を作った偉大街 よく知らないから行ってみた!」より。
日本茶の銘柄「上喜撰」とペリーが乗ってきた「蒸気船」をかけているので「じょうきせん」と平仮名で書いているんですね。
碑の説明文ではこの歌を落首と言っています。
人目につく場所にわざと落としたりしたことから、世相を風刺した狂歌を匿名で公開することをこう呼ぶようになったそうです。
でも、この歌の詠み人はほぼ特定されているらしく
「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています
…だそうです。
 公園内のペリー記念館
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若山牧水@北下浦

2021-11-27 23:44:40 | 三浦半島
横須賀市長沢の若山牧水夫婦碑。

海に向いた碑の表には牧水の代表的な短歌が彫られています。
しら鳥は かなしからずやそらの青海のあをにもそまずただよふ
裏には妻、喜志子の短歌。
うちけぶり鋸山も浮かび来と今日のみちしほふくらみ寄する
北下浦海岸にはもう1基、若山牧水文学碑が建っています。

海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず
夫婦それぞれこの浜から海を隔てた鋸山を眺めて歌にしているんですね。
説明板には、このように書かれています。
若山牧水は本名繁、明治十八年八月二十四日、宮崎県臼杵郡に生まれた。県立延岡中学校を卒業した後上京、早稲田大学に学び、明治四十五年太田喜志子と結 婚した。大正二年長男旅人を出生したあと喜志子は体調が優れず、医師から転地療養を勧められ、大正四年三月に長沢の川端の家(斉藤松蔵方)に移り住んだ。
風光明媚、気候温暖な当地での静かな明け暮れのなかで、喜志子の健康は次第に回復し、大正五年十一月には長女みさきが生まれた。
右に建つ「しら鳥」の歌は明治四十年十二月の「新声」に発表されたものであるが、牧水はまだ二十三歳の学生歌人であった。
碑の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、妻喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和二十八年に建立された。
左にある「海越えて」の歌碑は、昭和六十二年に建立された。歌集「砂丘」のはじめに「三浦半島」と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、三月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。
「漂白の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水は、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調にすすむようになり、大正五年十二月二十八日東京小石川に引揚げていった。

近くの長岡半太郎記念館・若山牧水資料館の牧水に関する展示。

ここに展示されている自身の揮毫になる「しら鳥は」は、海が先に書かれていますが、夫婦碑では空が先。
明治40年に雑誌「新声」に投稿が載った初出時は海が先だったのですが、推敲して第一歌集に収めた時、空を前にもっていきました。
なのに大正10年に北原白秋に頼まれて墨書した時にはまた海が先に。
白秋と盃を交わした後に書いたので酔っ払って間違えたのでは?ということで、碑では同じ書の「そらの青」と「うみのあを」を入れ替えたのだそうです。
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浦賀ドックの底

2021-11-23 23:01:16 | 三浦半島
今秋始まったよこすかルートミュージアムの一環として公開されている浦賀ドックに行ってきました。

1899~2003年にわたる百年以上、船舶の製造や修理をしてきた世界でも珍しいレンガ積ドライドックにこうやって降りて~…

下まで見学できる特別チャンスのガイドツアーに参加。
ここで働いていた横須賀の俳人、高田風人子(1926~2019年)の作品から。
犬の子と人の子と初冬の道
みかん黄にふと人生はあたたかし
わが街は相州浦賀時雨るる日
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逗子湾の雲写真集

2020-08-22 17:21:34 | 三浦半島
逗子にお住まいの和田文夫さんの写真集(+暦)「雲を眺めて、七十二候」が電子書籍化され、紙版よりぐっとお安く500円+税で買えるようになりました。

和田さんがブログ用に撮影した逗子海岸の写真約8万点の中から厳選した82点が収められています。
1年を春夏秋冬に分け、更にそれぞれの季節を6つに分けたのが立秋、処暑などの二十四節気。各節気を「初候/次候/末候」の3つに分けたものを「七十二候」というのだとか。

今日は立秋の最後の日で第39候蒙霧升降(ふかききりまとう)だそうです。
明日からは処暑。第40候綿柎開(わたのはなしべひらく)。季節は移ろっていきます。
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徳冨健次郎の碑

2020-02-18 23:22:05 | 三浦半島
湘南文芸メンバーさん、「大・小」「屈・伸」(又は自由題)の詩の最終締切は今週金曜日21日です。
さて、昨日出題した逗子湾西側の海中に建つ石碑は誰の記念碑?クイズの答えと解説を発表します。

正解:徳冨健次郎
〈解説〉
陸からは「不如帰」の文字が見えますが、反対側には「徳冨健次郎之碑」と彫られ、実はこちらが正面。健次郎は蘆花の本名。
石碑の文字は蘆花の兄、徳富蘇峰によるものです。
徳富健次郎の碑は、小説「不如帰」とその作者徳富蘆花(1868~1927年)を顕彰し、町制20周年を記念して昭和8年(1933年)に建てられました。
礎石の下には蘆花愛用の筆と硯が収められています。
使われている石はもともと江戸城の石垣用で、佐賀鍋島藩が伊豆の石を船で運ぶ途中時化に遭い、海に落ちたものと伝えられています。

徳冨健次郎の碑と呼ぶ人はおらず、不如帰の碑と呼ばれていますけどね。
解説文は、初稿校正ホヤホヤ、来月発行予定の「知っ得ずしQ&A」54ページより引用しました。
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めだかの学校碑

2019-07-08 23:34:58 | 三浦半島
いつも何気なく通り過ぎてしまう三笠公園手前の遊歩道に「めだかの学校」の楽譜と歌詞が刻まれた童謡碑があるのに気づきました。
作詞者の茶木滋が横須賀市汐入生まれなのだそうです。

石碑の隣にこんな説明が。
昭和十一年の春、茶木滋親子は小田原市郊外の小川のほとりを歩いていました。幼い義夫くんが突然声をあげました。
「お父さん、めだかがいるよ」
滋はすぐ川をのぞきこみましたが、めだかは一匹もいませんでした。
「おまえが大声をあげたからびっくりして逃げたんだよ」
すると義夫くんは、
「待ってればくるよ。ここ、めだかの学校だもの」
昭和二十五年の秋、NHKから“春らしい明るい歌”の作詞を頼まれた時、童謡「めだかの学校」は生まれたのです。

義夫くん、お手柄でしたね。
碑の建っている場所の前には人工の小川が流れています。そーっとのぞいてみても、めだかは一匹もいませんけどね。
ところでめだかは夏の季語なんです。
なにも居ぬ流れ「めだかの学校」碑
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横須賀美術館

2018-11-05 22:05:44 | 三浦半島
11月3日文化の日は横須賀美術館までサイクリングしました。なぜって無料観覧日だったから

1万メートル・プロムナード・ウォークというイベントのゴールにもなっていたので、大賑わいですね。
横須賀美術館には逗子在住の島田しづ、逗子にアトリエと自宅があった中村岳陵の作品も収蔵されています。
今やっているのはモダンアート再訪展。
先日の湘南文芸合評会で話題に出たダリの「ポルト・リガトの聖母」や、芥川賞作家尾辻克彦こと赤瀬川原平の「千円札」を鑑賞できて大満足。
「千円札」に肖像が描かれていた風倉匠のパフォーマンス「ピアノを打つ」映像では思わず笑ってしまいました。
所蔵品展会場ではこんなブロンズ像を鑑賞。

この持ち帰れる解説カードによると、南太平洋の島で倒れ土に還っていった戦友の声にならない声を形に残したいという思いから生まれた彫塑だそうです。
次回の無料観覧日は来年2月17日です。
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