湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

影の詩合評

2015-03-31 21:31:59 | 
昨日アップした逗子小学校の桜に続き、久木妙光寺の桜。今日の開花状況です。


3月4日の合評会でAの「人影トカゲ」という詩について話し合ったことを投稿します。
:作者の弁 :評者の弁
Aの影をテーマにした詩の中でこれがベストだと思いました。タイトルからして決まっています。
まずこの言葉遊び的なタイトルが浮かんで、そこからトカゲの尻尾切りを連想した時点で構想がまとまりました。
二連目のに入る描写は、私も使いたかったんだよね。続く三行には動きがあります。
「再生尾」でいい結末になっています。
「希望にもえて」はなくてもよかったかな
そうね。「尾骶骨がムズムズ」だけでも分かります。
余計な言葉を極力排除して、ラストで更に濃度を高めるべきでした。

人影トカゲ  (再録)

天気がよいほど全てが混ざり一体化する
とKは言う
本当は
天気が悪いほど
あらゆる要素が澱んで一体になるのに
音も色も心も

だから悪天候を待っていた
まとわりつく影は陰に入った
強風が吹き込めば企みどおり
尻尾を引きちぎって
影を振り返らず飛び去った

陽が出ると地面に私の新しい影
尻尾が消えたトカゲの影
Kも自分たちの尻尾切りがうまくいって
逃げて行った私に感謝しているだろう
数分後には私の尾を捨てて
全てを忘れているだろう

尾骶骨が希望にもえてムズムズ
再生尾が生えようとしている
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暗さのつかまえ方

2015-03-30 13:19:52 | 
幽霊の婚礼のようなサクラの花
草もはえそめる

ひらくとき
花は痛いだろうか

(中本道代「アルミニウム製」より)


だいたい詩人という〈ことばの職人〉は、どんなものからも世界の中心を一撃で掠めとろうとするものです。ところで、世界の中心なんて、そもそもそんなに明るい実質で構成されてはいないのがふつうですから、優秀な詩人はいつだって暗さをすくいとる作業を忍耐づよくつづけるしかありません。ユーモアや軽みで色づけしたところで、闇の影はいつも原稿用紙に垂れてきているのです。われながらいくぶん視野の狭い、シラけた詩観と思いますが、何十年もこれがいちばん現実的な詩人の目というものと信じてきたからには、もう直しようがないわけです。けっきょく、ぼくにしてみれば、他人の詩を読んで、暗さのつかまえ方にまず目がいってしまうことになるのですが、そんな視線で中本さんの作品をつぎつぎに読んでいくと、素敵だな、この暗さのつまみ方、すごいな、暗さとの対抗の仕方、なぞとなんども感嘆してしまうのです。
(北村太郎「暗さのつかまえ方」より)
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芽の詩パート10

2015-03-29 00:00:32 | オリジナル
共通テーマ「芽」でTが書いた新しい詩を投稿します。
 京浜急行神武寺駅の窓
 発芽した想い

密やかに夢の中まで侵出してきた芽は
私の奥深いところで突如発芽した

ホームの端で夕陽を眺めていたその人は
ひどく頼りなげで無防備に見えた
鞄を学生のように背負い
65才だというのに
これから人生が始まるみたいだった
白衣姿の大病院の院長 
夫の主治医としてのみ見てきた20年余り
思いがけず見てしまった素の彼
悩みは誰に話すのだろうか
家庭は円満だろうか
時々は飲んで騒ぐだろうか
一切日常を感じさせないクールな彼
静かに立っていた姿は
私の心を震えさせ鷲掴みにした

けれど
この芽は野放図に伸ばす訳にはいかない
剪定をし 盆栽にして
私の中にそっと置いて眺めていよう

毎月、共通テーマで書いた詩の合評会をしています。上記の詩は4月6日(月)14時~逗子市民交流センター1階で行う合評会で取り上げます。
見学・参加希望者は当日お気軽にいらしてください。
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子フェスでアート

2015-03-28 16:06:24 | イベント
第9回子どもフェスティバルでボランティアスタッフをしたついでに、文化プラザホールでアート鑑賞。

逗子在住の画家、本間亮次さんの絵画の展示とライブペインティング。
シートの上で参加者と一緒に描いている絵は、4月以降に披露山公園内自動販売機にラッピングする予定。アートな自販機になりますね

こちらはブルース・オズボーン親子写真展。親子のポーズや表情にそれぞれの素敵な関係が見えて、見応えがあります。
本間亮次展は文化プラザホール1階ギャラリー、ブルース・オズボーン展は文化プラザホール2階ホワイエで。どちらも明日29日(日)16:00までやっています。
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詩と散文の違い

2015-03-27 05:42:58 | 文学
小説家が、散文との違いにおいてどんな文章を詩と捉えているのかを知ると、詩とは何かがよく分かります。

抽出した濃縮された一滴をポタっと落とす面白さがあるのが詩。闇鍋の雑多さを楽しむのが小説。
詩はそれをまるごと抱えもって生きていくことができる。でも小説の場合、どんなに好きな作品を抱えもっていこうとしても、その中の一行とか場面の断片しか抱えもてない。
詩の場合は、すべての行を覚えていなくても、ある一行を抱えもつことで、全体を抱えられる感じになります。
詩の一行は、書かれなかったたくさんのものを含んでいる。それは小説何百行分の濃度を持っているっていうことです。
(朝吹真理子)

もっぱら「情報」機能をメインとする文章を「散文」と呼び、「感覚」機能をメインとする文章を「詩」と呼ぶのではないか、と思います。
もちろん、どんな散文にも純粋に情報しか伝えないものはありませんし、どんな詩にも感覚しか伝えないものはありません。散文にもいくばくかの感覚的要素は含まれているし、詩も言葉を使う以上はそれなりの情報は伴います。いま、仮に一つのラインの一端に、いわば究極の散文を置き、他の一端に究極の詩を置いたとしたら、その両端の間のライン上にすべての文章は並ぶことになるでしょう。そして、その一端に近い位置にある文章は散文性の強いものになり、他の一端に近い位置にある文章は詩的要素の強いものになるわけです。
(宮原昭夫)
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芽の詩パート9

2015-03-26 00:00:07 | オリジナル
アスパラ菜
オータムポエムという名前だそうです。春野菜なのになぜオータム? そしてなぜポエム?

共通テーマ「芽」でAが書いた詩を投稿します。

  結球

ある日この子は
花のように開いていた葉を
自分の中心に向けて閉じ始めた
無数の葉は重なり球になった
この子は実に立派に充実した
瑞々しいキャベツになった
どっしりした実のような芽は
次にほどけたら空にびゅんびゅんと
茎を伸ばして花を咲かせる

他の芽が固く閉じていた頃
この子はぽかんと空を見上げて
好き勝手な方向に葉を広げていた
他の芽が用心深く葉を出していた時
この子は勢いよく出した葉を
放るようにどんどん地面に広げていた
あっけらかんとした様子を
周囲は呆れた眼で見たけれど
この子は充実したキャベツに
なろうとしていただけ
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「きれいごと」なしの大道珠貴@逗子

2015-03-25 00:47:36 | 文学
逗子が舞台と知って、大道珠貴「きれいごと」を読んでみました。芥川賞受賞作「しょっぱいドライブ」以来彼女の小説を読んだことがなかったんですけど作風は変わらず、格好悪い異性関係(今回は同性関係も)含めた下世話ぶっちゃけ系。潔いほどきれいごとなしなのに、標題が「きれいごと」とは洒落がきいています。
44歳独身のヒロインは、古民家と二階建てが渡り廊下でつながった山中の家を購入したばかり。前半ではその最寄駅の神武寺までアパートのある金沢八景から通って来て、壁を塗ったりしています。最後の方ではそこで暮らし始めたところに遠い親戚の高齢のオッサンが放浪の果てにやって来て住みついたりしています。子どもを産みたいとか電車に轢かれて死にたいとか矛盾する願望をもつけれどどちらも実現することなくそのまま終わる物語。
読後しばらく噛みしめていたら、この小説では出番なしの素敵なできごとを期待して訪れる人たちや気取った住民にザマミロと言いたい気分になりました。
 神武寺駅米海軍口
 三月。逗子市池子のわが家で、夜、眠るときに「幸せだなあ」とつぶやき、朝起きたときも、「幸せだなあ」とつぶやく日々である。木々が、素晴らしいんである。わたしなんかより、この家なんかより、うんと長生きしてきたんだろう木々たちの、その豪快な葉っぱのこすれ合う音。枝々の激しい撓り。アア怖いなあ、自然って。そのひれ伏すかんじがすごくいいんである。既視感も半端ではない。過去がグングンぐんぐん蘇って、頭は混乱している。そのかんじが、すごうく、いい。眠っているとき自殺願望が起こり、気分がもやもやしながら目覚め、木々の音を聴き、その起き抜けの、「現実がこれでよかった。夢よりましだもん」というこのかんじも、すごうく、いい。(略)
 いままでの経緯はすべて夢。

江ノ電の通る音がかすかに聴こえたので、うっとりした。
うっすら顎のまわりに髭を生やした三十歳の男。目が、まっすぐまっすぐわたしを見て、なんか書けと言う。このひとの頭のなかはどんな状態なんだろう、下半身なんてまだまだあとだ、頭のなかを、知ってみたいもんだ。


虚飾ゼロ!
ヒロインの作家がずっと大切に持っていて死んだらお棺に入れてもらいたい文庫本は、横光利一「機械・春は馬車に乗って」、梶井基次郎「檸檬」、福永武彦「草の花」、川端康成「山の音」だそうです。ちなみに「春は馬車に乗って」は逗子「山の音」は鎌倉が舞台です。
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腹立正秋?

2015-03-24 14:12:34 | 文学
逗子市立郷土資料館の裏で。ソメイヨシノももうすぐですね。


早稲田学報四月号「早稲田文学と私 文学梁山泊」(清水英雄)に、第七次「早稲田文学」に関する次のような記述が。
立原正秋編集長は実に豪快な人であった。直情径行のズバリ発言。学生達が無礼な振舞をすると「バカヤロー!」とよく怒鳴り付けた。学生達は「ハラタチヘンシューチョー」と即綽名を付けた。その半面実に面倒見が良く、不採用になった投稿者に対し、近くの喫茶店で数々の指導を施していた。
なんか、とってもいいキャラ。立原正秋は昭和55年に54歳で亡くなるまで30年間、鎌倉に住んでいました。
コメント (1)
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冲方式

2015-03-23 01:07:48 | 文学
 春の生産者植木市@亀岡八幡宮境内

冲方丁著「[冲方式]ストーリー創作塾」に、著者が指針としている創作の三項目小説の五項目執筆の六段階というのが紹介されていました。
創作の三項目…知識・技術・感性
小説の五項目…主題・世界・人物・物語・文体
執筆の六段階…能書き・種書き・骨書き・筋書き・肉書き・皮書き

執筆に六段階もあるのと呼び方の一部がユニークです。
能書き…作品全体を貫くあるいは作品内で完結しない大きなテーマについての考え
種書き…アイデアメモ
骨書き…設定、企画
筋書き…詳細な展開
肉書き…実際の執筆
皮書き…推敲

確かに、エンタテイメント小説を書くにはこういう設計が必要そうですね。
これに則って1回書いてみよう!と思いつつ、とりかかる前から種書きあたりでくじけそうな予感が
だって保坂式で人物設定をしている途中で、既に頓挫中なんだもん
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ヤサイクル&対話の詩合評

2015-03-21 14:54:03 | 
今日は逗子市役所と亀岡八幡宮でエコ広場まつりが開かれました。

↑野菜即売ブースに出店しているのはヤサイクルさん。↓逗子海岸ロードオアシスに店舗があります。
 八百屋カフェ・ヤサイクル@ロードオアシス
水素水のサービスがあって、水分補給と買物にサイクリストもよく立ち寄ります。

さて今日は、3月の合評会でTの「石庭」について話し合ったことを報告します。
:作者の弁 :評者の弁
井上靖の「石庭」という作品が頭にあって書きました。
龍安寺が舞台なんですね。冬の枯山水の静けさが上手に描写されています。
「凍ってしまった方丈」という箇所はもっといい表現があったんじゃないかと思っています。
その行の後を一行空けて、ラスト3行を別の連にした方がいいですね。
そうですね。そして自分と対話する場面をもっとうまく長めに描きたかったです。

 石庭 (再録)
つくばいの中の天は鈍色に変わり
風に流れて雪が来た
石をすべり白砂に消え
庭のとなりの南天の実をふるわせ
やがて気付けば
山も堂宇も石も白くおおわれ始めた
筧の音もいつしかまろやかになっている
私の中にも雪は降り積もり
凍ってしまった方丈に一人座って
私は私と話しはじめる
白い石庭はひっそりと
私を吸い取っていく


むかし、白い砂の上に十四個の石を運び、きびしい布石を考えた人間があった。老人か若い庭師か、その人の生活も人となりも知らない。
だが、草を、樹を、苔を否定し、冷たい石のおもてばかり見つめて立った、ああその落莫たる精神。ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰がいい始めたのであろう。
ひとはいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りにも小さきを思わされ、慰められ、暖められ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ。

(井上靖「石庭」)
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