私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路まちなか歩き 野里

2017-01-24 17:24:31 | 歴史探索
 1月24日(火)  天気:晴れ 一時 曇り    室温:13.6℃

 きょうは いい天気だったので 姫路の野里を歩いて来ました。 ”歴史と文化のいきづくまち 野里
ぶらり散策” というパンフレットを 1年前くらいに入手し いつ行こうかと 考えていました。 最近 水
野さんから ”ろてぃ” で 展覧会をするという知らせをいただき ちょうどいい機会なので 行ってき
ました。  姫路城の北東部に 位置し 室町時代より 職人のまち、商人の町として栄えた その栄華
を 残す町家を 眺めながら ぶらり野里旅・・・。

 豊臣秀吉・池田輝政の城下町割以来 商業の町、職人の町として また 但馬道の窓口として 栄え
た町でもあります。 今も 神社仏閣などの遺構が 多く残っている地域で 歴史的資源が 数多くある
情緒ある地区です。

 ”のざと あるき まっぷ” を参考に 南の野里門跡から 北の日吉神社まで 旧野里街道を歩きま
した。  ”姫路城のあとは ぷらり野里旅” (コースNo.14) というパンフレットもあります。
 途中 街道にある ”キッチンろてぃ” に 寄って 水野さんたちの展覧会 ”KoReKaRa展” を見て
コーヒーを飲み 休憩します。
 JRで 姫路まで 往復しましたが 往きは 網干始発の電車なのに 5分くらい遅れ 帰りは 時間に
合わせ 駅に戻ったのに 電車は 20分?遅れ。 次発の赤穂行の電車が 少し遅れて来て それに
乗りました。  JRは 雪で 混乱しているようです。 おかげで? 電車は ほぼ満席・・。


 パンフレットには 私のまち「野里」 は 古く 「播磨国風土記」 にも 「大野里」 として 記述があり
増位山随願寺の門前町として また 但馬道、飾磨へ通じるみちが通るなど 交通の要所として 栄
えてきました。 職人の町、商人の町として繁栄し 現在も 寺社仏閣や 町家など 昔の風情が 街
並みに残り 訪れた人は 「野里地区は 空気が違う、昔の風を感じる。」 と言われます。
 現在 軒先に アサガオを植えたり 風鈴を飾ったり 「花と音のあるまちづくり」 に取り組んでいま
す。  是非 なつかしいまち野里に ぶらり散策に 来てください。

 大手前通りを歩き 城見台公園を通り 姫路城や彫刻を見ながら 美術館の前を過ぎると 野里
門跡へ出ます。 ここが 本日のスタート地点。 野里門は 池田輝政が 姫路城の築城が始まると
野里村の西部の地域を 町として形成し 従来の街並みを 城下町の一角として 組み込んだ。
 野里門は 「野里」 と 姫路城武家屋敷との間に 設けられ 出入り口に当たるので 「野里門」 と
名付けた。 この野里門は 城下町として 商人の町としての役割を 果たしてきたことに 大きな価値
がある。

 野里門から 東へ歩き 姫路城外濠跡碑を見に行きます。 姫路城には 敵から城を守りため
内濠(2970m)、中濠(4323m)、外濠(5232m)の三つの濠があり 総延長は 12525mです。
 濠の最終地点は ここ野里堀留町です。  大半は 埋め立てられているが 竹の門の西方から
北の濠端までは 幅約2mの水路を残して 埋め立てて 公道としています。
 南へ行くと ノコギリ横丁がありますが 帰りに寄ることにして・・・・。

 野里街道に戻りました。 ここから 北へ進みます。 野里街道には 赤いレンガのような石が
敷かれています。 しかし あまり広くない道路を 車が多く通るので 注意する必要があります。
 町家の2階部にある窓は 虫籠窓(むしこまど) というそうで 町家の構造として 採光、換気
を 取り入れるためにあるそうです。 形、大きさが 町家によって 異なります。

 まっぷには 瀬沢ぶつだん店、井本精肉店、五斗米きっさ店などが 書かれていますが 通過。
野里公民館もありましたが・・・。 そうそう 公民館は 帰りに トイレを お借りしました。

 角に 銘茶なるせがある 四つ角に来ました。 なるせには 寄らず 右へ曲がります。
東へ行くと 右に 光正寺。 光正寺は 播磨西国三十三番札所の内の五番札所。 外観は
お寺に見えません。

 左は 慶雲寺。 嘉吉3年(1443) 創建で もとは 天台宗のお寺であったが 天正5年(1577)
南室和尚が 中興して 臨済宗妙心寺派のお寺となった。 南室和尚に 帰依した池田輝政は 姫路城
築城の際に 木材を寄進し 本堂が再建されたという。 文化財の金銅如意輪観音像は 輝政公正室
の督姫(徳川家康の娘) が 念持仏を寄進したものである。

 慶雲寺の境内にある 「お夏・清十郎比翼塚」 は 姫路城主・榊原忠次の1662年に 但馬屋
の娘と 奉公人の清十郎との恋愛事件で その結末が 悲恋となったと言われている。 この二人
の霊を弔うために 但馬屋が 建てたものと言われている。
 少し東に 固寧倉があります。 固寧倉は 1853年に 建てられた 飢饉に備えての備蓄倉庫。
備蓄量は 米25俵、麦36俵、籾俵ほかで 1402人が 30口分食べられる量と推定される。
現在 刀出、野里、東山、白浜、妻鹿の5カ所にある。

 街道に戻り 鍛え行くと 左に ”Well Fair キッチン ろてぃ” がありました。 きょうの予定の
一つが ここへ来て ”KoReKaRa展” を見ることでした。 1階には さをり織も展示してあります。
 2階へ上がって 展示を見て 下で コーヒーをいただきました。 コーヒー300円、ケーキ150円で
ものすごく安い。 コーヒーカップは ノリタケでしたが 裏に 1505とありましたが 1505年創業? 

 昨年 書写の里・美術工芸館で ”KoReKaRa展” を見たのは 7月8日 です。
”KoReKaRa展” は 水野洋子、野々村しのぶ、菅野桂子、足立隆子さんの4人で
されています。 ノートに 名前を書くと 上に 竹内さんのお名前が・・。



 ろてぃの斜め向かいは 大野家住宅で 姫路市都市景観重要建築物。 元禄時代から 「鍋市」 と号する
鋳物屋であった。 二階外壁の三カ所の大型虫籠窓は 伝統的な外観を構成している。 明治前期 部分に
よっては それ以前の建築とみられる。
 少し先の尾張屋は 大正9年の建築で 昭和の初期に 飲食店をはじめたのが 尾張屋の始まり。 町家
修景社会実験で 昔の風情を思い起こせるような雰囲気の建築に 生まれ変わりました。

 次は 正願寺。 明応年間以後 古野里村にあった念仏道場で 開基は 教年法師で 天正9年(1581)
創建といい 真宗大谷派。 一説に 秀吉により 三木城が落城し 避難してきた人々によって 威徳寺跡
に 建立されたともいわれる。 本堂は 元禄14年(1700)の再興。

 街道を北へ進むと 明珍本舗に出ます。 現代の当主は 平安時代から 800年以上続く 明珍家
52代。 作られる製品も 火箸から 風鈴、花器へと 時代とともに 変化が見られます。

 12:35 やっと 一番北の日吉神社へ着きました。 日吉神社は 承和7年(840) 随願寺の鎮守として
比叡山の日吉大社から 勧請されたといい 山王権現と称した。 天正の兵火(別所長治の侵攻)で 焼失。
 池田輝政の時代に 再興され 雲松寺の鎮守となったという。 明治元年 日吉神社と改称。 境内には
寛政9年(1797)の狛犬一対、弘化3年(1836)の常夜燈一対、「右たしま 右ひろミ祢」 刻印された道
標があるそうです。


 ここで 引き返しますが 以前 歴史教室で 勉強したときにでた 伊伝位にある桑原神社へ行きます。
県道を西へ越えて 西へ曲がる船場川沿いに進み 圓徳寺を右に見て 進むと 桑原神社がありました。
歴史教室では むかし 白国神社辺りに 朝鮮から渡来した人たちが 住んでいて 蚕を飼っていた・・。
蚕を 姫子というそうで それが 姫路の名の由来になった・・。 蚕が食べる桑を植えていたので この
辺りには 桑のつく地名が いろいろある・・。 桑原神社も そのひとつ・・・。

 桑原神社に お参りしました。 元気に生きられますように・・。  桑原神社は 伊伝居の氏神。
伊伝居は 明治以前には 「井出」 または 「出井」 とみえる。 鎌倉・室町時代は 天皇家領の国衙庄
のうちにあったと 考えられる。 「播磨鑑」 に 当地は 水が湧くので 井出、随願寺の旧地である。
「峯相記」 は 元徳元年(1329) 洪水で 被災した随願寺を 白国山に移したと伝える。
「増位山随願寺旧記」 に 康和5年(1103) 白河法皇随願寺 御幸の際 出井里の住吉神社北に
仮殿を造営したといい 「播磨郡誌」 は 住吉神社を 当社とする。

 境内には 明和元年(1364) の狛犬があり 姫路市内では 珍しい 江戸狛犬とみられ 最古のもの。
境内には 宝暦5年(1755) の石灯籠、享保6年(1721) の手洗石がある。 拝殿西の石灯籠には
「享保三年 桑原大明神 播州 飾東郡 大野之江 出井」 の刻銘がある。


 県道へ戻り 伊伝居の信号を渡り 野里街道へ戻り 南へ下ります。 あとは 帰りに見ようと思って
いた ノコギリ横丁を見るだけ・・。 野里公民館で トイレを借り 南へ てくてく歩きます。

 あてまげには 気付かず・・。 金屋町辺りへ来ると 電信柱に ノコギリ横丁の看板がありました。
ノコギリ横丁は 家屋が 道に対して 斜めに建ち 燐家との間に 小三角形の空き地を生じ 町並みが
ノコギリ状に 斜向して形成されています。 形成の理由は 軍事説、地割説、方位説がありますが は
っきりしていません。
 金屋町の南は 八木町ですが 町名の由来は 野里は 産業で組成された 商工業地域だったことで
職人、仲間、小者衆など 大勢が住む町でした。 八木町は 「米の町」 からきたといわれています。
 米の字を 分けて 八木(はちぼく) を 町名にしました。 この辺りは 城下町の地割によって 町家を
道路沿いに 斜めに建てるようにしました。 通称 ノコギリ横丁と 呼ばれています。

 これで 全部 見て回りました。 県道の西にある 誓光寺(庚申堂)、雲松寺へは 行きませんでしたが・・。
ここは 竹田町? 野里の最南端? 竹田橋を渡り 中濠を渡り 美術館の前に出て 疲れた足を引き
ずりながら 姫路駅へ戻りました。 何時の電車に乗ったか 定かではありませんが 14:58?

 実は 今日は 28日です。 やっと このページを書き終えることができました。 今週は 忙しかった・・。

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2 コメント

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ご高覧ありがとうございました (水野洋子)
2017-01-26 11:35:31
ご多用な中、またこの大寒の寒さの中、ご高覧いただきありがとうございました。
ブログを拝読いたしまして、野里街道の歴史の深さ、またお写真からはその息吹がいまも感じられる気がいたします。
ゆっくりと歩いてみたいと感動いたしました。
続きの投稿のお話、楽しみにしています。
野里まちあるき (YS11)
2017-01-26 14:48:33
コメント ありがとうございます。
ちょうどいい機会で 野里を歩け コレカラ展も
見ることができ よかったです。
街道を歩いていて 会社で仕事をしていた時 一緒だった人と
出会いもあり これも何かの縁でした。
また 展覧をされますときは ぜひ 教えてください。

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