きょう 銀山城山に登り 降りてから 多田銀山周辺を散策しました。 例によって 紙面の都合上 別ペ
ージにさせていただきます。
「悠久の館」でもらったパンフレットによると
多田銀銅山は 北摂地域にわたり鉱区が広がる鉱山です。 その歴史は古く 奈良時代の東大寺大仏
建立の際に 多田銀銅山で採掘された銅が使用されたと伝えられています。
猪名川町域では 銀山地区を中心に栄え 豊臣政権時には 直轄鉱山となり 「台所間歩」や「瓢箪間
歩」 など 秀吉ゆかりの間歩(まぶ)(坑道)が残り 盛山の様子がうかがえます。
江戸時代には 代官所が設置され 幕府直轄地となり 「銀山三千軒」と言われるほどの賑わいをみせ
我が国の鉱山史の一端を担いました。 ・・・・とあります。
パンフレットのマップを見ると ①~⑫の見所があるようです。 ⑪の村上新田は パスして 残る11ヵ所
を観て回りました。 城山から降りて 林道を戻り ソエ谷分岐に戻り 北の廃坑へ向かいます。 道標の
ある分岐を左へ曲がると 少し先にスペースがあり ここに車を停めると 目の前が ④の大露頭でした。
④大露頭は 通常 地中を走る鉱脈が 大きく地上に露出している珍しい自然の産物です。 鉱脈と
は 鉱物を多く含む岩石が 帯状に走ったもの。 マップを見て 大露頭の前の道を上がると ⑤の日
本鉱業多田鉱業所跡かと思いましたが ここには資材置き場があるだけでした。
大露頭のすぐ先が ②の台所間歩でした。 ②の台所間歩は 大阪城の台所(財政)を潤すほどの
銀や銅の産出量があったことから その名がついたと言われる間歩。 間歩とは 鉱山の坑道のこと
です。 標識の奥に 坑道がありますが 落盤の恐れがあるため 立入禁止。 真っ暗なので 入りた
くもありません。 鉱山には 秀吉の多額な埋蔵金が 眠っている と言われているそうなので もしかし
て 埋蔵金盗掘を防ぐため 立入禁止にしているのでは・・・。
台所間歩から 北へ100mほど歩き ①の瓢箪間歩へ。 瓢箪間歩は 豊臣秀吉が 自らの馬印
を掲げることを 許したと言われるほどの 銀や銅の産出量があったといわれる間歩で 原丹波らに
千成瓢箪が 与えられた。 秀吉は ここに 馬に乗ったまま 入ったとか。 ここも 坑道に入ることは
できません。 瓢箪間歩は 永禄~天正年代(~1590)にかけて 全盛をきわめたそうで 江戸時
代 良質な鉱脈の発見により 再び 盛山期(第二次)を迎え 多田銀銅山では 最盛期の1664年に
は 銀が 5625kg、銅が 453トン 産出したそうです。
銀山川のほとりに 「久徳寺跡、山中鹿之助一族の墓」 の道標があります。 対岸のようですが 橋
がないので 渡ることができません。 しかし なぜ 鹿之介一族の墓が ここに? 山中鹿之介は 主
君・尼子氏の再興を願いつつ 毛利軍と戦い 毛利の大軍に囲まれ 上月城で投降し 備中松山城へ
護送される途中 高梁川で斬殺された・・。 鹿之介の弟は 城主として鉱山を監視した? 弟は 後に
財閥・鴻池を興した? それにしても 鹿之助の すけ は 介 なのか 助 なのか?
調べると やはり 鹿之介 が正しいようで 講談で 誤って表記され それが 広まったようです。
車で南へ戻り 川の路肩に停め ⑧の金山彦神社へお参りします。 大同二年(807)建立。 天禄
二年 源満仲により 修理された。 鉱山の神様で 祭神は 筒男三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)。
階段を上がり 山門を潜り 本殿にお参りしました。 ここの狛犬も かなり古そう。 ここから 青木
間歩の方へ行けたようですが・・。 階段の所から 先ほど登った城山の頂を 見ることが出来ます。
いったん道路に降りて 川の上流側へ戻り 小さい橋を渡り 砂利道を100mほど北へ歩き ③
の青木間歩へ行きました。 青木間歩は 周囲に薬用植物として利用されるアオキが 繁茂してい
たことから その名が付いたそうです。 昔 ノミやタガネを使って 掘った手掘りの露天掘りと 削岩
機などの機械を使って 採掘した坑道があります。 ここは 中へ入れます。 50mほど入ってみまし
たが・・。 特に 見るものはありませんでした。 外へ出て 左へ廻ると 手掘り跡があります。
車に戻り 南へ下ります。 途中に 停める場所がなかったので 悠々の館の手前のスペースに
車を停めました。 ここに 城山へご一緒した測量隊が 戻っていました。 今度は 歩いて行きます。
銀山橋を渡ると 左が ⑩の高札場跡です。 高札場は 法度・掟書・犯罪人の罪状などを 板札に
書き 人々に 広く周知させるための掲示板のようなもの。 今は 石塔があるだけです。
ここから 川沿い進むと ⑥の代官所跡。 今はなにもなく 広場になっています。 残された
絵図から 代官所があったと言われ 発掘調査の結果 建物跡や畑跡 階段跡などが 見つか
り 当時の代官所の様子が 分かったそうです。 川向うの悠久の館の裏庭から見ると 石垣を
見ることができます。
道路脇に 甘露寺入口の表示があったので 坂道の登り ⑦の甘露寺へ行きました。 が これ
には がっかり。 平屋の民家のような建物がるだけ。 裏は 墓地で 六地蔵もあります。 浄土宗
大雲山甘露寺は 敏達天皇の頃(6世紀)の開基と伝えられ 本尊は 阿弥陀如来像、観世音菩薩
像、大師像。 ここも 見るものもは ありません。
道路を北へ歩き ⑨の代官所の門(伝承)へ行きます。 道路脇の民家も 空き家が多いのか
町は寂れています。 代官所の門は 以前 代官所にあった門を 移築して保存しているもので
す。 実際の中門は 馬上のまま出入りできるよう 高い門でしたが 足元を切り取り 現在の高
さにしたそうです。
さらに北へ歩くと 左のソエ谷峠への分岐の手前 川向うの斜面が ⑫の平炉跡でした。 ここも
橋がないので 対岸には渡れません。 何もなさそうです・・。 これで ①から⑫まで ”みどころ”
は 全部見たかな? ⑤の多田鉱業所跡は 見ることができませんでしたが・・。
引き返し 手前に停めた車を 悠久の館の駐車場へ停め直し 悠久の館へ。 昼食が まだ な
ので うどんかラーメンでも と思いましたが 食堂はありません。 入口で パンフレットをもらい
館内に入りますが 館内は 撮影禁止。 絵図や道具類が 展示してあります。 机の上に置いて
ある本を ぱらぱらっとめくると 「銀山城落城悲話」 が 目につき 城山の歴史が知りたかった私
には 大変役に立ちました。 むさぼるように読む暇はないので ページを撮りました。 館内は
撮影禁止? 外で・・・。
車で 弁当を食べていると 隣の車のご婦人が戻ってきて びっくりしていましたが・・。 車で
弁当は おかしい? 13:52 帰路につきます。 県道12号線に出て 左折。 紫合の信号で
左折し 少し北にある東光寺と屏風岩に寄りたかったのですが 後ろから 車が どんどん来るの
で 車が 停められません。 道の駅手前で 左折して 県道66号線を 9.9km 西へ走り 14:21
志手原小学校の信号で左折。 県道37号線を南へ下り 三輪で 国道176号線に入り 三田
の街を抜けると 道が広くなり 走りやすくなります。
14:43 西宮北ICから 中国道に入り すぐ先で 左にそれ 山陽道に入り 西へひた走り 姫
路東ICで 降りて 播但連絡道に廻り 15:16 花田ICを抜け 姫路バイパスに出て 15:42 家
に帰ってきました。 帰りは 2時間足らず。
本日の走行距離は 往路:一の谷池まで 117.9km 悠久の館まで 4.0km 復路:111.7km
で 計:233.6kmでした。 きょうは いろいろと いい勉強になりました。
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