私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

好古園で梅花展

2013-02-28 14:25:01 | ギャラリー散策
 2月28日(木)  天気:晴れ   室温:16.8℃

 きょうは いい天気なので 姫路の町を歩いてきました。 まず 三木美術館へ行き ”美濃の茶陶美
織部・志野” を見て 好古園の”梅花展” へ。 まだ 早かったので イーグレひめじへ行くと ”好古学
園大学校 4年生 美術A科 40期作品展” と ”写弾西はりま 写真展” と ”あと展” と ”兵庫県
統計グラフコンクール” を 展示していました。 きょうも また 写真を撮りまくってしまいました。

 9:34の電車で 姫路へ。 山陽百貨店で ”小林大彦 絵画展” をしていますが 写真禁止でしょう。
軽くパス。 大手前通りの彫刻を見ながら 歩きます。 ちょうど 10時に 三木美術館に着きました。
受付は 三階。 エレベーターで上がります。 入館料600円。 館内は 撮影禁止。 


 いま 春季展 ”美濃の茶陶美 織部・志野” が 行われています。 美濃地方では 平安時代か
ら やきものの歴史があり その中でも 桃山時代は 日本が代表するやきものが 次々と生まれ
た時代でした。 織部茶陶(美濃古陶)は 時の最高権力者の織田信長と豊臣秀吉によって 国策
として 生み出された焼き物で 日本の官窯でした。
 そして 千利休や 古田織部らによる茶の湯の流行から 茶陶の世界が生まれ 「志野」 が作られ
るようになりました。 こうして 志野焼に加えて 織部焼の優品が 生みだされるようになりました。


 美術館所蔵作品より 厳選した25点が展示され 備前焼の金重素山と 日本画の加山又造の
銀彩茶盌。 志野焼の荒川豊蔵と 日本画の前田青邨の志野茶垸。 それぞれの個性が奏でる
ハーモニーとも言える 合作茶盌が 展示されています。 北大路魯山人の銀彩鉢も ありました。




 3、4階の展示品を観て エレベーターで 5階に上がると 茶室と応接室があり セルフで お茶、
コーヒーが 飲めます。 応接室から 北、東が望め 姫路城の展望台になっています。 美術書
などの本もあり くつろげます。 誰もいないので ソファーに座って コーヒーを飲みながら 置い
てある書物で 焼き物の勉強をしました。 有田焼、唐津焼・・・。 入館料のもとは取れた?
 有田焼は 磁器の分類に入ります。 薄く 軽く きゃしゃな印象の有田焼ですが 実は 陶器より
も堅く 丈夫で 磁器は 日常使う食器としては 最適です。
 磁器は 陶器より 焼成温度が はるかに高く 1300度の高温で 焼成され 磁肌もきめ細かく
滑らかな手触りで 素地が白いため 鮮やかな絵付けが とても映えます。


 エレベーターの中に ”彫刻のあるシンボルロード” のパンフレットが 貼ってあり 受付嬢に
パンフレットを聞くと パンフレットはない・・。 姫路駅の観光案内所で 聞いても パンフはあ
りませんが 資料があり コピーをもらいました。


 大手前通りを歩くときは いつも 彫刻を撮りながら 歩くので 18ヵ所 全部 見たと思うのです
が・・・。 いつか まとめて 撮って ”大手前通り 彫刻並木道” のページを作りたいと思います。
三木美術館のガイドでは 23カ所となっています。 ”彫刻のある街づくり事業” 昭和63年頃
市制100周年記念として 設置された。 


 姫路城の堀に浮かぶ ”和船”(川船) を見ながら 好古園に。 黙って通り過ぎるつもりでしたが
2日新聞に 1日 ”姫路城の和船 進水式” という記事があり 無視できなくなりました。 市長が 船
名を 「はりま」 と 命名した後 関係者が乗り込んで 和船は 水面を滑るように 進んだ・・・。


 好古園の梅は 去年もそうでしたが 今年も 花の咲くのが 遅いようです。 花の少ない梅花展は・・。
咲いている僅かな花を アップで撮るしかない・・。 今年も 梅花展は 15日まで延長されるとか・・。




 好古園のお庭を見て回ります。 いまの時期 花は少なく 咲いているのは 椿かアセビ・・。
水路を流れるせせらぎに 日の光がキラキラ輝いて 水も温み もう 春がそこまで来ています。



 帰るには まだ早いので イーグレひめじへ行きます。 ロビーで ”銀の馬車道絵画コンクール
入賞作品” の展示をしています。 入賞写真の展示もあります。


 まずは 姫路市立 好古学園大学校 4年生美術A科 40期生 作品展。 70点くらいの絵画が
展示してあり 一点一点 丁寧に見ることはできませんし 写真も何枚かしか 撮れませんし 何枚
かしか 載せられません・・・。 いい絵がたくさんありました。



 隣の部屋では ”あと展”。 あと の意味は 何でしょう。 新聞には 勝原市民センターで 洋画を
学ぶ 31人の作品 約40点とあります。 確認すると 歩んできたあしあと という意味で あと。
こちらも 素晴らしい絵が 並んでいます。 特に 景色の中に スポーツカーが描かれた絵が・・・。




 家に帰ってから気づいたのですが ”写弾西はりま 写真展” は? 本日は お忙しいンなか
第16回 写真展に 遠路よりおいでくださいまして ありがとう御座います と書かれた目録がある
ということは 写真展を見たのでしょうが 全く記憶がない・・・・。

 別の展示室では 兵庫県 統計グラフコンクール を展示していました。 これは 初めて見ます。
今年度は 第60回で 1329点の応募があったそうです。 全国コンクールへ 28作品を出品し
6作品が 入賞。 下の作品は 特選、特選、入選です。


 イーグレひめじを出ところで MTBで来た小柄な若者は ”されど・・” のページに 出演していた
オーストラリア人の留学生? されど・・の前を通りましたが きょうは お休みで 白いシャッターが
降りていました。 大手前通りを歩いて 彫刻を見ながら帰りましたが 写真は 割愛。 また 今度。
 姫路駅のホームで 立ち食いうどんを食べ 13:29 の電車で 帰りました。
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西本願寺

2013-02-26 20:08:21 | 日記
 2月26日(火)  天気:晴れ 後 曇り 後 雨   室温:17.4℃

 きょう 夕方5時から BSプレミアムで ハイビジョン特集 ”西本願寺 桃山の美と王朝の雅” の
放送がありました。 王朝のの名宝&桃山文化の最高建築ということで ほとんどが 国宝で 素晴
らしいものばかりでした。 しかし わたしの手、指、腕が 腱鞘炎になりそうなので 95%を 割愛し
ようかと・・。 まだ 前のページが ほとんど 手つかずの状態ですから・・・。
 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 24日 日曜日 8時の ”日曜美術館” NHK Eテレは 茶道具名品! 奇跡の器 中島誠之助が
出会う ”天下人3人が愛した宝研究! 秀吉黄金の茶室 利休V.S織部 驚きの逸品” は お蔵入
りにしようか・・・・。
 27日の歴史秘話・ヒストリアは 名作選 ”覇王 織田信長 幻の安土城への道!” も お城好きの
私には 面白い番組でしたが・・・。 ただし 渡邊みどりさんの着物姿はなし、声のみ・・・。
 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 桃山の美が華開く・・。 唐門=陽明門=日暮らし門。 西本願寺は 親鸞が開いた 浄土真宗のお
寺で 民衆のためのお寺です。 浄土真宗ならではの 絢爛豪華なものです。 本願寺が大きくなり
すぎたので 東と西に分けられ 一時 西本願寺は 衰退しますが・・・。





 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
以下は 24日 日曜日 8時の ”日曜美術館” NHK Eテレは 茶道具名品! 奇跡の器です。
 織田信長や豊臣秀吉の桃山時代になり 千利休や古田織部などによる茶の湯の流行から
茶陶の世界が生まれ 志野焼が生み出されました。 そして 日本において 初めて 筆書きの
文様付が可能になりました。 やがて 登窯と共に 斬新なデザインの焼き物が生まれ これが
美濃の焼き物や 織部の焼き物です。


 黄金の茶碗は ”秀吉の黄金天目茶碗” です。 顔回は ひょうたん型のものを 半分に切断。
棗(なつめ)は 手になじみやすい曲線で 治具により 各部分のアールが決められています。


 やっと 私が これだ という織部焼が出てきました。 最近 デパートなどで見る 於里辺 とか
於里扁とか まがい物のよな織部があり・・。 この前の 深緑色のふくろうの織部は 何だったの
でしょうか。 肉厚のやや変形した茶飲み茶碗が 織部 と思いこんでいました。


 織部の茶碗は 中島先生が 両手で包み込むように持つと 碗の外周の凹みが 手にしっくりと
なじみ 呑みやすく 器が手から離れなくなる。 両手の間から 傍にいる人に 茶碗の文様が見え
るようになっている。 織部の焼き物は アバンギャルド?


 ひび割れた水指が 重要文化財?

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荘厳寺 しょうごんじ

2013-02-25 16:20:33 | 歴史探索
 2月25日(月)  天気:曇り or 晴れ  室温:14.5℃

 きょうは 西脇市の黒田庄町まで ドライブし 法道仙人が開いたといわれる荘厳寺を訪れました。
あすも あさっても 予報が良くないので きょう 行ったのですが・・。
 ただ お寺を訪問するためではありません。 23日(土) 大津茂公民館で行われた 「黒田官兵衛
物語」 で 官兵衛が 黒田庄の生まれで 赤松家の末裔であることが 分かったので 荘厳寺にある
「黒田家の系図」 を見る ことはできなくても 匂いだけでも嗅ぎたいと思ったのです。 紅葉の名所
らしいので 秋の方が いいのですが・・・。 ある意味 前ページの続きです。 元気なら 黒田城跡
に登りたのですが 稲荷神社まで登るのが 精一杯・・・。
 帰りに 日本へそ公園に寄ったのですが 思った通り 岡之山美術館は 休館で ウエダキヨアキ展
を見ることはできませんでした。  きょうは 往復 150kmほどのドライブでした。

 10:08 出発。 姫路バイパスから 10:34 花田ICを通過。 播但道へ。 10:46 福崎ICから
中国道に入り 10:54 加西ICを降ります。 播但道 13.2km、400円。 中国道 10.8km、300
円。 県道24号線を 北へ向かい 明楽寺の信号で 右折して 県道34号線で 東へ走ります。
 市街に入り 野村西の信号で左折して 北へ向かい 冨吉南で右折。 狭い畑瀬大橋を渡り 黒田
庄駅前を通り さらに北へ。 本黒田駅の東で 右折して 東へ登ると 老人ホームの裏側が 荘厳寺
です。 11:42 到着。 加西ICから 26.1km 家から 73kmでした。 


 ここには もったいないくらい広い駐車場があります。 塔頭・法音院の前に 黒田官兵衛と 荘厳寺
の説明書があります。 それによると 左手に見える山を 天狗山と言い その山稜のあちこちに 曲輪
があります。 この山城が 播磨黒田氏の居城・黒田城です。 播磨黒田氏は 赤松円光 (赤松円心
則村の弟) を 元祖とする赤松庶流の一族です。
 観応二年(1351) 円光の子・七郎重光が この黒田城に移り 播磨黒田氏の始祖、初代となりまし
た。 以来 その子孫は 九代、二百数十年にわたり 黒田城主として存在しました。
 八代・黒田城主・黒田下野守重隆に 男子二人あり 兄が 治隆(はるたか)、弟が 孝隆(よしたか)で
治隆は 父・重隆の家督を継いで 九代城主となりましたが 元亀の頃(1570年代初め) 合戦に敗
れて 戦死し 播磨黒田氏は 滅亡しました。
 それより前 弟の孝隆は 姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子(養子) となっており 小寺官兵衛
を名のって 播磨国・御着城主・小寺氏の家老となっていました。
 この小寺官兵衛が 豊臣秀吉の参謀役として 有名な黒田官兵衛です。 当地 黒田は 官兵衛の
先祖 赤松庶流・黒田氏の根本地であり しかも 黒田官兵衛自身の出生地です。 近年 はじめて
判明した事実です。
 ここに ”黒田の里 案内マップ” もあり 稲荷神社から北西に延びる尾根が 城跡のようです。
地理院の地図 「谷川」 では 484.5mの山頂が 四等三角点:天狗山 のようです。 


 荘林山・荘厳寺の由緒によると 当山は 白雉年間(650~) に 天竺の僧・法道仙人の開基と
伝えられている観音霊場である。
 慶長年間(1596~) に 徳禅上人が 当山に入り 堂宇を修復し 再興され 爾来 真言宗高野
山派の末寺として 法幢を輝かした。 盛時には 本堂への参道沿いに 十ヵ寺程の塔頭を構えて
いたようで 現在 その建物跡地から 往時のことが偲ばれる。
 宝暦年間(1751~) には 社町の朝光寺と 鴨川の西光寺(廃寺) を行場とする権現信仰の
修験場の寺として 交流していたことが 伺われる。


 駐車場の上の塔頭・法音院は カーテンが閉められ 誰もいないようです。 素人にも 黒田
家の家系図を 見せていただけるか 聞くだけでも・・・。 ダメなら 諦めも付くし・・。
 法音院の右の緩い石段の参道を登り 本堂に向かいます。 うっそうとした杉林を 200m
ほど登ると 左に 鐘楼があります。 手水舎かと思いましたが 屋根や木組みは 立派です。 


 鐘楼の梵鐘は 姫路城主・本多政勝氏から慶長年間に寄進されたもの。 山の中で 誰にも
迷惑は かからないでしょう。 一発 鳴らしてみました。 いい音で 余韻が 長く尾を引きます。
 石段の上が 本堂です。  本堂は 本尊 十一面観世音菩薩、脇侍像仙人の立像、台座に
慶長16年の墨書きあり。 立派な建造物で 屋根は 桧皮葺でしょうか 見事な傾斜です。
残念ながら 軒が崩れそうで 裏は立ち入り禁止になっています。



 本堂の右が 多宝塔(二重塔)。 本尊は 釈迦如来。 佐々木四郎高綱氏により 建久年間
(1190~) に造立。 焼失後 正徳元年(1711) 再建。 屋根は二層とも 桧皮葺として 県下
唯一。 平成十二年 県の重要文化財に指定される。 立派な建造物ですが 木材が腐りかけ
ています。 屋根には 雪が残っています。



 石段の下が 三社八幡宮。 覆い堂に覆われています。 三社とは 熊野三社権現、八幡大
武神、高野・弥生両大明神。 宝永五年(1798) 建立(再建)。 鐘楼の脇には 末社・稲荷大
明神の社もあります。


 ひと廻りして 12:27 車に戻り 引きあげます。 老人ホームの前で 下から青い小型車が
上がってきました。 あれが 住職さんだったのでは・・・。 こんな所へは よほどのもの好きで
ないと来ないでしょう。 下の集落で 聞くと 住職さんが さっき 郵便局にいたと・・・。


 空き地に車を置き 稲荷神社へ行きます。 赤い橋を渡り 赤い鳥居を潜りながら 長い階段
を上がります。 地図で見ると 稲荷神社は 標高130mの高台にあるようです。 この稲荷神
社も 黒田城の一部と言っても おかしくはない? 城跡を示すものは 何もありませんが 東は
白山などの高い山に囲まれ 西は 加古川の流れが一望できる 絶好の展望地です。 ここに
見張り小屋のようなものが あったとしても おかしくない・・・。


 地図を見ると 稲荷神社から 天狗山の山頂に向かって 尾根に平坦なところが 何ヵ所かあり
ます。 これが 曲輪跡でしょう。 神社から 山頂へは 一旦 東の道路を 降りるのでしょうか?
 家に帰り 地図を見ると 北西に見える山並は イタリ山から石金山への稜線のようで 最奥の
山が 石金山でしょう。


 車に戻り 帰路につきます。 南へ下ると 日本へそ公園があるので 寄ってみましょう。
県道294号線を下ると へそ公園。 荘厳寺から 8.7km。 13:13 到着。
駐車場に車は 何台も停まっていますが 人はいません。 レストランもお休み。


 隣の岡之山美術館へ。 来る前 案内状を見て 美術館が休みだったので 明日にしようかと
思ったのですが 明日の予報は 雲行きが怪しい・・・。 ウエダキヨアキ展は あまり見たい展示
でもないので・・。 ここまで来て 荘厳寺だけ見て帰るのも もったいないし・・・。


 帰路につきます。 国道175号線に出て 南へ。 上戸田南の信号で 右折して 市街を通り
西へ突き当り 左折して 野村西へ。 県道34号線を戻り 14:05 加西ICから 中国道へ入り
ます。 加西SAに寄って ラーメンを食べて 14:35 福崎ICで 播但道に回り 14:41 花田
ICを通過。 姫路バイパスを走って 15:37 帰着。


 本日の走行距離は 往路:73.0km へそ公園まで 8.7km 復路:66.8kmで 計:148.5
kmでした。 播但道 花田~福崎間は 400円、中国道 福崎~加西間は 300円。
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黒田官兵衛物語

2013-02-23 15:56:33 | 歴史探索
 2月23日(土)  天気:晴れor曇り   室温:15.6℃

 きょう 大津茂公民館で 特別講座 「黒田官兵衛物語」 があったので 聴講してきました。
講師は 歴史研究家 黒田美江子 先生で 姫路市内の各公民館講座で 好評 活躍中。
 きょうの講座は とても面白かった。 というのも 姫路市のパンフレットなどで 黒田官兵衛
は 姫路城で生まれた 唯一の殿様ということになっていますが それを 覆し 官兵衛は 西脇
市の黒田庄の生まれだということが 判った・・・。 また 父親も 職高ではなく・・・。

 13:30 から 15:00 まで 何の資料も配布されず 田中先生が お話されるので
速記のできない私が いくらメモしても追い付きません・・・。 かいつまんで まとめると

 軍師・官兵衛が 大河ドラマに 決まったのは 黒田節(武士)顕彰会で 姫路城の歴史の中で
姫路城で生まれて 全国的に有名になった官兵衛を 田中先生が 軽い気持ちで 大河ドラマに
しましょう と言ったのが 始まりだそうです。 市長にお願いして プロジェクトチームを立ち上げ
5年前に NHKに お願いに行ったが NHKのプロジューサーは 官兵衛ですか 地味ですね・・。
官兵衛は 戦国時代には 珍しく 妾、側室がおらず 奥様一人で 浮いた話がない・・。

 市長に 頑張ってもらって NHKに 4回 陳情に行ってもらった。 だから 大河ドラマに決まって
一番 喜んだのは 市長でしょう。 しかし ドラマになるのが 1年 早かった・・。
 姫路城の大修理が完成する 2015年に ドラマが 放送されるのなら 良かったのに・・・。
 現在は 日本人の心が おかしい、疲弊している。 大河ドラマは ある意味 時代を映している。
今の八重の桜は 震災の復興のため・・・。 これを露払いとして 来年 軍師・官兵画を・・。


 官兵衛は 天文15年(1546) 11月29日生まれ(当時は 旧暦) ですが 我々は
日本の歴史を きちんと学んでいないので 天文と言っても ピンとこない。
 これは 戦後 マッカーサーが 日本に来たとき 旧制中学の学生が しゃっきとして ブレな
い姿を見て これからの日本は 怖い と思った・・。 それで アッカーサーは 日本の教育から
三教科を取った。 修身(いかに生きるべきかの教育)、地図(竹島や 尖閣諸島を知らない)、
国史(大事な日本の歴史)を・・・。 歴史は 命・・・。 いま 我々があるのは 先祖のお陰。
ドラマの平清盛も 人気がなかった・・。 平安時代は 400年も続くのに 我々は あまり知らな
いから・・・。 歴史を 勉強していないから・・。 安倍総理は・・・。


 日本で 一番 よく歌われている歌は 君が代 だそうですが 二番は 黒田節 だそうです。 酒は
呑め呑め呑むならば・・・・酒を飲んで 槍をもらった。 これは 黒田の武士を歌ったもの。

 官兵衛は 姫路城で生まれたということになっていますが これは 福岡藩に仕えた儒学者・貝原
益軒が編纂した 『黒田家譜』 によるもので 黒田家は 佐々木源氏の末流で 近江の黒田村(現・
木之本町)に住み 源宗清のときに 姓を黒田に変え これが 黒田家の始まりとされています。
 
 黒田家は 五代高政の代に 足利幕府の勢力争いに巻き込まれ 備前・福岡に移り住み 高政
の子・重隆の代に播磨に移り 御着城主・小寺氏に仕え 姫路城を任されます・・・・。

 最近? 西脇市黒田庄町の荘厳寺(しょうごんじ) から 黒田家の系図(荘厳寺本 黒田家略系図)
が出てきた。 以前から そのような噂はあったそうで 田中先生が 講演していると 黒田庄の人から
官兵衛は 黒田庄の生まれだ と言われたこともある。  この系図には 高政も 職高の名は 無く
孝高(官兵衛) は 孝高ではなく 孝隆?  「江源武鑑」 には 高政の名がある。
『播磨国風土記』 によると 黒田は 土が黒いから 黒田と呼ばれた。

 黒田家は 黒田高政ー重隆ー職高(もとたか)-孝高(よしたか)・官兵衛ー長政 という家系にな
っていますが おかしいことがある。 職高と孝高の年齢が近い。 功山城(国府山城) の南・妻鹿
にある黒田家の廟所には 官兵衛の母と祖父・重隆の五輪塔がある。 母と祖父の墓を一緒に祀る
のは・・。 父と母のなら理解できる。
≪注≫ 田中先生は 妻鹿の廟所と言われましたが これは 御着城跡の裏にある廟所の間違い
    だと思います。 妻鹿の廟所には 職高の五輪塔が 一基だけあったと思います。


 父と言われた 職高は 小寺職高で 養父ではないか? 父親は 重隆ではないか? 官兵衛は
赤松家の人として 黒田庄で生まれ 職高の所へ 養子に入った・・・。 官兵衛(孝隆)には 兄が
いたが 官兵衛が 養子に出た後 病死した?

 播磨から 京を目指すには 姫路を通る道と 黒田庄から丹波へ抜ける道があり 姫路には 姫路
城(赤松貞範)、黒田庄には 黒田城?(黒田重光?) が 造られた・・・。

 赤松家の家系は 四代・赤松則村(円心) の弟・円光(赤松庶流)の下に 重光ー重勝 と続き 八
代目に 重隆がいる。 赤松重隆の子が 孝高(孝隆?、官兵衛) とすれば すっきりする。
 赤松は 千種川から採れる良質の砂鉄を 長船など備前の刀鍛冶に売って 勢力をつけた。 当時
この辺りは 「タタラ千軒」 と言われ 栄えた。

 官兵衛ゆかりの町 長浜市、瀬戸内市、姫路市、中津市、福岡市 の五市で 黒田サミットを行っ
ているが 上述のことが 事実なら 二市が 外れることになる・・・。 
大河ドラマに この説が 取り入れられるか? 最後に テロップでも 流れれば・・・。


 官兵衛が 養子に入った小寺氏は 西国の人で 毛利の傘下。 家臣となった官兵衛は 姫路城に
住みますが 当時の姫路城は 株式会社・御着城本店の姫路城支店にすぎません。 先見の明があ
った官兵衛は これからは 毛利ではなく 織田信長の時代だと 天正五年(1575) 信長に 謁見に
行きます。 信長は 身分や家柄でなく 人物で判断する人だったので 官兵衛を見て こいつは凄いと
気に入り 名刀を与えます。
 黒田家は 貧乏でしたが 武士の魂は 捨てておらず 薬を売って財をなし 人に金を貸すこともした
ようです。 夢に出てきた 広峯大明神を頼ることに・・。 当時 広峯神社は 2万石を有していた。
御師・お札を持って行って 因幡や摂津などへ 配っていた。 これにより 多くの情報がもたらされた。

 このような官兵衛を 小寺氏は 疎ましく思い 荒木村重とたくらみ 三木城を攻めているとき 有岡
城主・荒木村重が 毛利に寝返り 小寺氏が 説得に行けと・・。 荒木村重は 官兵衛に会わず
土牢に幽閉。 荒木は クリスチャンだったから 官兵衛を 殺さなかった。 
 このとき 信長は 官兵衛が裏切ったと思い 官兵衛の子を殺せと。 このとき 竹中半兵衛の機転
で 官兵衛の子・長政は 助かる。 
 官兵衛は 義理人情に厚い人で 主君・小寺氏と 若くして亡くなった竹中半兵衛の面倒をみた・・。
人間性は ピカ一だった。 人は一人も殺さなかったし クリスチャンだったからか 奥さんは 生涯一
人だけ。
 関ヶ原の合戦のあと 官兵衛の子・長政(長政は 家康の養女を正室にしたので 徳川方?) が
家康から 一番に感状を貰ったが 官兵衛が 長政に お前は 感状を貰うとき 右手でもらったのか
左手でもらったのか? と聞いたそうです。 長政は 右手だったと言うと その時 左手で 家康を刺
せば お前が天下をとれたのに・・と言った と言われていますが 田中先生は これは嘘でしょう。
官兵衛は そんなことを 言うはずがない・・・。


 天正8年(1580) 2年近くの兵糧攻めにより 三木城落城。 この時 秀吉は 三木城を播磨攻略
の拠点にしようとしますが 官兵衛は 三木城は海から遠いと 姫路城を 秀吉に明け渡し 天正10
年(1582) 備中・高松城を水攻め中に 本能寺の変が起きた。
 天下を取った秀吉は 官兵衛が 疎ましくなり・・。 官兵衛は 天正17年(1589) 長政に 家督を譲
り 隠居して 如水となる。 身は 褒貶・毀誉(ほうへんきよ) の間に在るも 心は 水の如く清し・・・如水
官兵衛は 亡くなるとき 西を向き 座禅の姿で 死ぬ。 慶長9年(1604)没。 享年59歳。
辞世の句 : 思いおく 言の葉なくて つひにゆく 道は迷わじ なるにまかせて

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片岡鶴太郎 展

2013-02-22 14:38:00 | ギャラリー散策
 2月22日(金)  天気:晴れ+雲   室温:11.7℃

 きょうも 姫路のギャラリーを 歩きまわってきました。
まず 山陽百貨店の 片岡鶴太郎 展へ (撮影禁止)
   ヤマトヤシキの 但馬木彫とその周辺展へ (撮影禁止)
             中井三成堂画廊の美術教室 第9回 合同作品発表会へ
   イーグレひめじの 第3回 幸峰会書展、玉岡 留子 版画展、 平位 壽一 オイルパステル画展、
              卒展 考古学園 大学院2年 38期美術A科 卒業作品展を 観て
仕上げに ブックカフェ・されど・・へ寄って 節子さんと おしゃべりしてきました。
まだ 三木美術館と 好古園の梅花展へも 行きたいのですが・・・。

 9:34の 電車で 姫路へ。 山陽百貨の開店まで時間があり 外は寒いので 10時まで 観光
案内所で 時間を潰し 5階の美術画廊へ。 片岡鶴太郎は 画家としては 経歴も浅いと思うので
すが 値段の高いこと・・。 零が二つ多いのではないかと 疑いたくなります。 絵もモヤっとして
シャープでないので・・・。


 早々に引き揚げ 5階の食器売り場を歩きました。 七彩の福郎には 織部とあります。 エスプレッソ
カップ&ソーサーの皿は 波形の面白い形です。


 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・   ・  ・


 大手前通りを歩いて ヤマトヤシキへ。 階段で 三階へ上がると 中井三成堂画廊。
きょうは 美術教室の第九回 合同作品発表会で 前回は 剪画でしたが きょうは
油絵、水彩画、日本画が展示されています。



 ヤマトヤシキ7階の特選ギャラリーでは 但馬木彫とその周辺展が 行われていますが
撮影禁止。 写真を撮っても 何も問題ないように思うのですが・・・。
素朴な表情や 木のもつ温もりから 懐かしさや 安らぎを感じる木彫アートの作品が展示?

 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・   ・  ・
 イーグレひめじの地下へ降ります。 きょうは 四つの展示が行われています。
まず 第三回 幸峰会書展へ。 全くの素人なので コメントできませんが 感謝のように
楷書で 分かりやすく 整った書体が好きです。 般若心経は 字が読めません・・。



 玉岡留子 版画展へ行きます。 この前見た 剪画のように細かい描写で このように細かい
形を彫るのは 大変だろうと思います。 猫が好きなのか どの絵にも猫が・・・。
写真禁止とありますが 写真は? と聞くと 何に使うのか? ブログに入れたい。 いいですと
了解していただきました。 世の中で 一番さびしい事は する仕事のない事です・・・私のこと?


 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・   ・  ・
 隣の部屋の 平位 壽一 ”オイルパステル画展” を見ます。 室津の町を描いたものが
多くあり パステル画なので 絵に温かみがあります。




 最後に ”卒展” 姫路市立好古学園 大学院2年 38期美術A科 卒業作品展を を観ます。
ちょうど 皆さんが集まって 記念撮影されていました。 大学院だけに 腕はプロ級?




 これで きょうの予定は 完了。 イーグレひめじの近くにある されど・・へ寄ります。 コー
ヒーを飲みながら おしゃべり・・。 節子さんも 話題が豊富なので ついつい長居してしまい
ます。 姫路駅のホームで うどんを食べて 13:28の電車で 帰りました。

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