私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歓創居で 稲田めぐみニット展

2017-11-30 15:02:05 | ギャラリー散策
 11月30日(木)   天気:曇り    室温:18.8℃

 きょうは 青山北3の歓創居へ アトリエSionの ”稲田めぐみニット展” を見に行き
ました。 稲田さんは 大津で 編み物教室をされていて 第1・第3水曜日に 教室が
行われています。 生徒募集中。 生徒さんの作品も 展示するつもりだったが でき
なかったので 展示作品が少ない・・。 展示作品は 鮮やかな色合いのものが 少なく
写真を撮っても 色が冴えません。 コースターを 頂けるそうなので 一つ頂きました。







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エルミタージュで クリスマス創作花雑貨展

2017-11-29 14:39:30 | ギャラリー散策
 11月29日(水)   天気;曇り のち 雨    室温:18.5℃

 きょうは 朝日谷のカフェ・エルミタージュへ 陽気なみつばちの ”クリスマス創作花雑貨展”
を見に行きました。 行くときは 曇り空でしたが 帰るころには 雨が降ってきました。 カフェ
には イルミネーションが 飾られていますが 暗くならないと・・。 きょうは なぜか 車もお客
さんも 多く いつものカウンター席には 座れず。









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相生探訪ウォーキング

2017-11-28 15:25:36 | 歴史探索
 11月28日(火)   晴れ のち 曇り    室温:18.7℃

 きょうは 相生の若狭野 浅野家の陣屋跡周辺を歩いてきました。 まず 10月31日の
新聞に載っていた 赤穂市東有年の八幡神社へ 高瀬舟灯台を見に行き 若狭野へ引き
返し 25日に行われた ”相生探訪ウォーキング 歴史豊かな若狭野を歩く ~矢野荘か
ら旗本浅野家まで~” にある 陣屋跡、ゆかりの寺社(観音寺、大避神社)をめぐり 最後
に ”ひょうごの100城マップ” にある 31:下土居城を見ました。 帰りに 那波野の西法
寺へ寄って 陣屋から移設された門を見てきました。

 旧国道を西へ行くと 太子竜野バイパスと合流する揖保町辺りで えらく渋滞していました。
道路の左で 分離帯の植木を切っているため? 相生に入ると ウソのように空いて ビュン
ビュン走れます。 国道が 2車線になり 車も少なく 相生は 走りやすくなりました。
 国道2号線を西へ走り 赤穂市に入り 千種川を越えて 東有年の信号で 右折すると 目
の前が 八幡神社です。 31日に新聞の ”はりま歴史探訪” に 山腹に 高瀬舟灯台が立
つ と載っていました。  現地の地図を見ると 八幡神社の後の山は 有年山城跡です。

 鳥居は 延享元年(1744)に建立された 大変古いものだそうです。 階段を上がり
鹿よけネットを潜り 岩道を登ります。 きょうは 山登りの日ではないのに・・。
高瀬舟灯台は 標高60mくらいの所にあり 40mくらいを登らねばなりません。
 神社の前に 灯台がありました。 灯台は 高さ5mほど。 木製の土台に トタン板が
張り付けられています。 上には 自然石が 乗っています。 建造時期は 不明。

 新聞には 古くから千種川を行き来した高瀬舟に位置を知らせた。 上流方向は 視界を
遮られるが 南側の下流は 遠くまで見通すことができ 3キロ先からも 見えたはずだという
とありますが 確かに 灯台から 南に千種川の水面は見えますが 神社から降りて 千種川
の土手へ行きましたが 目視で 灯台を確認することも 容易ではありません。 夜 灯台に
明かりがともれば 見えやすいでしょうが・・。

 高瀬舟は 近世には 流域の村々で 合わせて 200隻ほどが運航したらしい。 船には 船頭と
舟子の計3人が乗り組んだ。 下りなら 佐用町久崎から 河口まで 一日で着いた。 流れに逆
らう 上りは 川岸を歩いて 舟子が 舟を引っ張るため 2日かかった。
 近くには 西国街道を行き来する旅人の宿泊する有年宿があり 旅籠、茶屋などを含め
200軒を越える戸数があった。 有年宿のシンボルが 八幡神社であり 灯台だった。


 国道2号線を 東へ戻り 若狭野の集落へ入ります。 ここは 道が狭いので 要注意。 なんとか
若狭野浅野家の陣屋跡に たどり着き 前に車を停めました。
 旗本浅野家は、若狭野に陣屋を構えていた 知行3000石の大身旗本で、あの元禄赤穂事件で著名な
 赤穂浅野家の分家です。 しかも 赤穂事件の立て役者大石良雄の父の従弟長恒が 浅野家の養子と
 なって 成立した旗本でもありました。 同家は こうした来歴から 赤穂浅野家から 特に重んじられ
 赤穂本家改易後に 同家の事後処理を担い、その文書などを 引き継ぐこととなりました。

 浅野家の陣屋跡といわれる建物は 実は 法界庵(元札座跡)で 浅野家の住居は 裏の竹ヤブ
辺りにあったそうです。 法界庵の北の須賀神社の本殿前に 浅野陣屋跡の石碑があります。 
浅野陣屋跡
 陣屋とは 江戸時代の小藩で 城郭のない大名や 旗本の居所をいいます。 寛文11年(1671)
赤穂藩主 浅野長直の養子・浅野長恒が 分家したことにはじまり 長恒は 江戸幕府 直参の旗本と
なり 若狭野に陣屋を構え 若狭野12カ村三千石の知行がみとめられました。 これが 若狭野
陣屋の始まりです。

 陣屋は 三千石の旗本としては 豪壮で 1600平方メートルの敷地内に 本宅(6室)、内庭のほか
門、倉庫、馬屋、武器庫などがありました。  現在 札座(藩札をつくったところ)の建物があった
法界庵と 那波野の西法寺に 移築された陣屋跡が残っています。

和泉式部 若狭野由縁之記
 和泉式部は 病身の昌子内親王にお仕えしていたため 矢野荘から中央貴族のところへ出入り
をしていた五郎太夫に 娘を預け 養育してもらっていたが ・・・・・・中略
しかし 有為転変は世の常 万寿元年 病床に臥し 先立たれ ・・・・・中略
 式部は 守本尊を 五郎太夫の家に置き 自らは 代わりの守本尊を持って 去ったという。
その後 薬師堂が建立され 薬師祭りが 今日まで 年中行事として この地に伝承されている。


 観音寺は 浅野家の菩提寺ということで 細い道を訪ねて行きましたが 分かり難いところにあり
特に見るべきものもありませんでしたので 行かない方がいいかも・・・。  一応 調べました。
 観音寺の沿革には 以下のような記録があります。
 宗派:臨済宗妙心寺派
 縁起:南北鴫時代、赤松則村(円心)の三男(赤松則祐)の家臣・岡野五郎右衛門により一草庵を
   建立し、本尊・観世音菩薩を祀り、霊験著しく 殊に難産を助け給うが故に 子安観音と称した。
   その後 廃頽していたのを 宝永5(1709)年、秀峰禅黙首座開基となり 再興した。
 中興開山:享保年間(1716~1735五)、融岳浄圓首座により、大法正眼図師(盤珪永琢禅師)の
   遺骨を納め一堂字を建立した。
 若狭野陣屋:浅野長恒(旗本)の帰依により 養性山観音寺と称し、二ケ寺を一ケ寺として 浅野一族の
   菩提寺とした。 境内に 浅野一族の墓が現存している。 大石内蔵助の銅像と義士絵馬があります。

 矢野川沿いの道に戻り 上流側へ進むと 大避神社があります。
大避神社を調べると  相生の伝説 というページがあり
 若狭野町下土井に 大避神社があります。 祭神は 大避大神で 秦河勝公、稲倉魂命、素蓋鳴命
 の三神を祀っています。  地元の人は、「つったのみや(土壇の宮・土田の宮)」と 呼んでいます。
 秦河勝公は、たびたび、矢野の三濃山に 狩に来ていました。 その途中、休憩した先で、村人に
 養蚕の仕方を教えました。 そこで、村人は これを喜び、その恩に報いるために、土の壇を設けて
 酒や食事などをふるまって もてなしたといいます。・・・・ 詳しくは <こちら> を。


 大避神社の前から 北に形のいい山が見えます。 あれが 下土居城跡でしょうか。
 ”ひょうごの100城マップ” によると 下土居城は 文永4年(1267) 岡豊前守が築城した
城です。 岡豊前守 光国は 蒙古軍の来襲に際し 豊前守に任ぜられ 戦功をあげ 矢野荘を賜り
ました。 矢野川と小河川が合流する北側の丘陵に 下土居城が築かれています。 現在 曲輪、
土塁、堀などの遺構が残っています。 尾根には 送電線鉄塔があるので 登る道はあるはず。
 橋を渡り 県道に出ると おんな城主・直虎が 出迎えてくれましたが 城への登城口は 見当たり
ません。 登る道を調べて 下土居城と 有年山城を訪れるのも 楽しいかも・・・。 どちらの山にも
四等三角点があるので 山登りとしても 面白そう。

 帰り道 国道2号線の那波野東で 右折して 那波野の西法寺へ寄り 浅野陣屋から 移築された門
を見に行きました。 住職さんのお話では 浅野家が お金に困って 売りに出したのを買ったのだそう
です。 屋根が傷んだので 2年前に 屋根を修理した。 それで 門は 新しく見えます。 柱は当時の
もの。 ここへは グループ倫の展示で 何度か来たことがあるので 住職さんも 覚えておられました。

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おんな城主 直虎の歴史年表

2017-11-26 12:06:20 | 歴史探索
 11月26日(日)   天気:曇り    室温:16.0℃

 NHKの大河ドラマ ”おんな城主 直虎” は いよいよ佳境に入ってきたというか もう
直虎の出番は終わり あとは 甥の万千代(直政)の出世を見守るだけなのか・・・。
 きょうは 第47回 「決戦は高天神」 が放送されました。 万千代は 2万石に加増・・。



 ところで 11日に 福井総合センターへ 合同作品展を見に行ったとき 書道の先生の
西脇二男さんが 直虎関係の歴史を 詳しく書かれ 掲示されていました。 全長10m位
の巻物のような 長さがあったでしょうか。 これだけの文字を書くのも 大変な作業ですが
これだけの資料を調べて まとめるのは もっと大変なことです。
 展示は 2日間で 終りましたが この資料を このまま埋もれさせるのは もったいないの
で 写真を撮らせていただいたので 歴史年表として 残しておきたいと思います。 見に
くいとは 思いますが・・。

 井伊直虎(おとわ 生年月日不詳)は、井伊家第22代当主・直盛の一人娘。
 直虎は、龍潭寺で 出家し 次郎法師を名乗る。
 井伊直親は、直盛の養子となり 奥山家の娘と結婚し、虎松(24代直政)が生まれる。
 1562年(永禄5年)、23代直親が 謀殺されると 井伊家は 存続の危機に。
 翌年、20代直平 死去。 井伊の名を継ぐ男子は、直親の遺児、幼い虎松ただ一人となり、
 1565年(永禄8年)  龍潭寺 南渓和尚の計らいで 次郎法師は その後見人として
   井伊直虎と名乗り、女領主として 井伊家を支える。
 井伊谷徳政令にみられる政治手腕は 優れており、歴代当主に記名はないが 井伊家受難の
   時代を救った女領主として 後世に語り継がれる人物である。
 身を隠していた万千代(虎松、後の井伊直政)を 1575年(天正3年) 浜松城主 徳川家康公に仕えさせ、
   出世を見届けた直虎は、1582年(天正10年)8月26日、激動の人生に幕をとじる。
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 この歴史年表は 1513年から始まります。 井伊直平が 今川氏に従属・・。
 井伊直虎は 1536年に誕生となっています。

 1545年頃 直虎 龍潭寺に 出家し 次郎法師 を名乗る。

 1565年 次郎法師が 直虎を名乗り 井伊家の家督を 相続。

 1572年 三方ヶ原の戦いで 徳川家康 武田信玄に 大敗する。

 1575年 虎松 徳川家康に仕えることになり 万千代を名乗り 300石を賜る。

 1582年 直虎 死去。 49歳。 万千代 22歳で 元服し 直政を名乗る。
 1600年 関ヶ原の戦いの軍功により 直政(万千代) 近江国18万石を賜る。
        直政 徳川四天王と言われる。

 彦根藩主となった井伊家は 幕末期の江戸幕府で 大老を務め、桜田門外の変で 暗殺された
15代藩主・井伊直弼まで 続きます。

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聖山城跡 と 三森城跡?

2017-11-23 17:05:45 | 歴史探索
 11月23日(木) 勤労感謝の日   天気:晴れ   室温:17.2℃

 きょうは 山崎町の聖山城跡 と 安富町の三森城跡に 登ってきました。 聖山城跡は 以前
高取山に登ったとき 寄りましたが 21日の新聞の ”はりま歴史探訪” に載っていたので 再
トライ。  三森城跡は 安富町の因幡街道周辺を歩いたとき 行かなかったので 登ろうと思
ったのですが・・。 姫神社の裏から登れると 何かに書いてあったような気がして 神社から
登ったのですが 城跡はなく 散々な目に遭いました。  姫神社の東の山が 城山250mで
三森城跡のようです。  近いうちに 相生の若狭野 浅野家陣屋跡を 訪れたいのですが・・。

 国道29号線に出る手前辺りから 中国道の下辺りは なぜか渋滞していました。 祝日だから?
それとも もみじ祭り?  宍粟橋を渡り 左折して 300mほど行くと 右が ひちりき神社です。
 神社の手前に 駐車。  觱篥(ひちりき)神社に 安全登山を お祈りして 宍粟50山の高取山
登山口から スタート。


 紅葉を見ながら ジグザグに登ると すぐに 聖山城跡に登ります。 城跡は 標高168mに
あるそうですが 登山口は 約100mなので 60mほど登るだけです。
 聖山城跡は 1493年 長水城の宇野氏の重臣だった下村氏が 築城したと 伝えられている。
東西約12m、南北約9mの主郭があり 物見台が設けられていた 可能性がある。 篠ノ丸城の
支城の役割を果たしていた・・。

 羽柴秀吉の軍勢が 長水城を落とすために 本陣を置いたと 伝えられています。 三方が 崖にな
っており 眼下には 揖保川が流れ 宇野氏の長水城や 篠ノ丸城など 山崎の街が 一望できます。

 1577年 姫路城に入った秀吉は 播磨、但馬地方を攻め始め 1580年 英賀城を 包囲
して 兵の一部を割いて 長水城の攻略にかかった。 聖山城を 落とし 本陣を置き さらに
篠ノ丸城を攻略。 宇野氏らは 長水城に籠城したが 落城し 宇野氏は 自害した・・。


 聖山城跡のすぐ下が 愛宕神社なので 寄っていきます。

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 国道29号線に戻り 南へ下り 東の安富町へ行き 三森の安志姫神社へ行きます。
姫神社から 三森城跡へ登れると 思い込んでいました。 姫路市の文化財課 平成20年 発行の
『安富町』 をたずねて には 三森集落の小字城山にある。 昔の京道 現在の県道三木・山崎線
を見下ろす 標高約250mの山上に築かれた中世の山城である・・・と記されています。

 この前に来た姫神社に駐車し 神社にお参りしてから 左の広い道を登ります。 神社の上
には 水道施設があり モミジが紅葉して 地面には 赤いじゅうたんが 敷き詰められています。
 水道施設の上は こども広場? 広い平坦地があり 道が分かり難い・・。

 姫路市の文化財課のページには 三森城跡は
 中世の山城の遺構で、山頂部に数段の段構が残っている。 『赤松家播備作城記』 には見えないが、
宝暦5年(1755)の 『播磨古跡孝』 に 「三森古城 安志庄三森村に 有 三森近江守と云う人 
住之と云」 とあるのが 初見である。  長水城の東の出城と推定される。 東から 敵が攻めてきた場合、
下河峠を中継点として 狼煙によって 長水城へ知らせるのが、第一の任務であったと推測される。
 三森城-下河峠-長水城は 一直線上にあって、それぞれ 合図の確認距離内にある。
小規模ではあるが、安富町域唯一の中世の山城の遺構である・・・。

 道が見つかり 尾根道を進みます。 尾根道なので 降りるときも 尾根を外さなければ 大丈夫と
思ったのですが・・。 いい道は 巡視路でした。 火の用心→50の表示がありました。

 鉄塔に出ました。 神野溝口線50の表示があります。 ここから 送電線の延びる東と西が
切り開かれ 見晴らしがあります。 後で分かったのですが 東の尾根の上に 鉄塔があり
その右のなだらかな山が 三森城跡のようです。 下の写真の右端の鞍部に 鉄塔があります。
鉄塔50の周囲は ススキのヤブです。

 地図は持っていませんが 鉄塔の北が 城跡と思っていたので さらに進みます。 ここからも
いい道?は どこまでも続きます。 普通の人なら この尾根には 城跡はないと 分かりそうなもの
ですが・・。 2、30cmくらいの石の散乱する急登を登り 伐採された桧が転がる倒木帯を越
えて 1時間以上登りました。 家で地図を見ると 421m標高点の先まで 行ったと思います。

 もうちょっと先まで行けば 510.7mの四等三角点:大谷山 があり 居場所が分かったのですが
三角点に 到達する手前で 引き返しました。 降りるときは どんどん降りられます。 ピンクのテープ
を見ながら 下りましたが 写真を撮ろうと カメラを構えると 陽の光が 左から差していることに気付
きました。 もう昼過ぎなので 太陽は 南西方向のはず。 とすると 西方向へ降りている・・。

 もっと早く気付くべきですが 引き返すことはできません・・。 桧林の急坂を降りました。
民家の近くへ降りましたが どこに降りたのか分かりません。 前は 川です。  畑を横切り
道に出て 左へ行くと 名坂の八幡神社がありましたが 道は 行き止まり。 北へ回り 林
田川の大町橋?を渡り 県道へ出ました。 中国道は かなり南です。 てくてく歩いて 中
国道に突き当り 左へ曲がって さらに東へ。 30分以上歩いて やっと 姫神社の車に戻
りました。 3時を過ぎていました・・。  時間をかけて 歩いたのに 収穫は ゼロ・・。
 せめて 姫神社の前から 東の城山(三森城跡)の姿でも 撮るべきだった・・。

 私が騙された証拠が 見つかりました。 どちらも 姫路市の教育委員会発行の 安富町めぐり
と 安富町をたずねて です。 一つには 安志姫神社の項に 神社の背後の山上には 三森城
址がある と書かれています。 もうひとつは 地図に 姫神社⑤の北に ⑥があり これが 三
森城址の位置を示しています。 実際は 三森と書かれた 森の字辺りです。

 実は 誰が どこで いつ 入手したのか分かりませんが 手元に ”ひょうごの100城マップ” があり
ます。 発行者は 兵庫県歴史〇〇委員会。 残念ながら 今回の聖山城跡や 三森城跡は 載ってい
ません。 現在 100城のうち 40しか登城していませんが 「日本100名城」 で 兵庫県内の5城は
訪れました。 (竹田城、篠山城、明石城、姫路城、赤穂城) 100城マップは 新聞紙大の紙面ですが
播磨の多くの城跡が 載っていません・・。

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