私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 室津道篇①

2017-12-26 13:53:59 | 歴史探索
 12月26日(火)  天気:晴れ 時々 曇り   室温:14.4℃

 きょうは 室津道の一部を歩いて来ました。 入手した ”気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く”
を参考に スタート地点の備前門跡から 冑山まで歩きました。 一回で 全ルートを歩くのは 大変な
ので 何回かに分けて歩き その都度 このページに追加します。 ルートの全体は <こちら> を。
 きょうは 電車で 姫路へ行き 駅の観光案内所で 姫路市教育委員会 文化財課 昭和58年 発行
の ”『室津道』をたずねて (広畑区小坂ー福沢町)” をいただき これも参考にします。
  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 28日 残っていた 町坪構居跡などを歩き 備前門から 夢前川の才崎橋まで 今回ルートは 完了し
ました。 英賀城跡の周辺は 2014.7.27の官兵衛ゆかりの地めぐりのページから 流用しました。

 10:20 姫路駅を出発し 西二階町商店街を歩いて 備前門跡へ行きます。 ”『室津道』をたず
ねて” では 福沢町は 江戸時代は 福中村で 姫路の郊外だった。 そこに 室津道と書いた古地図
があるので 室津道の発着点を 福沢町としておく とあります。 
  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
1.備前門(福中門)
 備前門は 姫路城の西の玄関口。 外門と内門で構成される枡形構造のこの門は 西国街道を
介して 備前方面に通じることから この名で 呼ばれました。 (のちに 福中門に改称) 姫路藩にと
って 西国への起点となるこの門は 同時に 室津道への起点でもありました。
 平成29年の発掘調査によって 地下に眠る備前門の石垣が 発掘され 姫路城大天守や 西の丸
が築城された頃の工法が用いられていたことが 判っています。


2.千代田町の常夜灯
 1868年 室津道の出入り口に設けられた常夜灯。 現在は 千代田公園に移されています。
台石に 「あぼし むろつみち」、「慶応四戌辰年夏」 とあります。
 「文化財見学シリーズ 「室津道」 をたずねて」 では 「元は 公園の北の水路のそばにあった」
と紹介されています。


3.千代田町の道標
 室津道脇にある道標ですが 「あぼ志美ち」 とあります。 明治以降 参勤交代の終了や 陸上
交通の発展に伴い 室津が 歴史上の役割を終えた一方で 網干は 依然として 揖保川水運との
中継地として栄え 後には 工業地域として発展しました。 網干を目指した人々にとって この道
は 「網干道」 なのです。


4.冑山神社
 冑山は 播磨国風土記14丘の一つ 「冑丘」 に比定。 姫路城主・本多政武が 姫路城の裏鬼
門を守るため 社領8石を寄進し 創建し 総社の社家が 祭祀していた。 1843年 大火により
焼失・再建、さらに 昭和20年の空爆により 全焼。 現在の社殿は 昭和41年に 再建されたもの。


 JR姫新線の踏切を渡り 西延末公民館の前を南西方向に 室津道を少し歩いてみました。
この辺りから南は 道は ほぼ まっすぐですが 西延末から北は 屈曲が多い。 用水路沿いに
道があったのだろう・・。

5.手柄山
 手柄山の名の由来は 諸説あるようですが 姫路に 移り住んだ渡来人が、 稲を刈るのに鎌を使う
のを知らず、直接手で 稲を刈ったから 「手刈りの村」 といった という説です。 「播磨国風土記」には
「手苅丘」 として 記載されています。  山頂には 三等三角点:手柄山 49.19mがあります。
 旧石器時代から 古墳時代にかけての遺物が 数多く採集され かって 多くの遺跡が存在したことが
うかがえます。
 室町時代には 三輪外記次郎なる人物が 構居(防御施設を備えた館) を構え 江戸時代には 刀
鍛冶が居住し 作刀したそうです。 特に 著名な刀匠は 「手柄山氏繁とのこと。 幕末・維新の戦い
で 奮闘した永倉新八が 愛用した佩刀は この手柄山氏繁の作と 言われている。


6.JR山陽本線
 私鉄 山陽鉄道として 明治21年に 兵庫駅ー明石駅間が 開業。 翌年 竜野駅まで延伸しまし
た。 姫路市とJR西日本との間では 姫路駅ー英賀保駅間(約4.6km) に 新駅を設置する方
向で 合意しており 今後 この地域の姿が 大きく変わる可能性があります。

 
7.高(尊)清水地蔵
 荒川地区は 夢前川の河道付け替え後も 伏流水の豊かな地域で 各所に清水が 湧き出して
いたそうです。 この高(尊)清水も かっては 豊かな湧水でしたが 河川改修による水位の低下
で 今は 枯れてしまっています。



8.町坪構居
 英賀城の支城で 秀吉の英賀城攻め当時の領主は 三木支配下の町坪弾四郎と言われてい
ます。 英賀攻めの緒戦で 落城しましたが 町坪勢が いったん これを 奪還。 しかし 黒田官兵
衛によって 再び攻め落とされ その後は 官兵衛の弟・利高が 守ったとされています。
 27日夜 テレビを見ていると ピエール滝が 姫路城を訪れていました。 番組のなかで 播州
皿屋敷ののことが 話題になり お菊に惚れていたのは 町坪弾四郎と 言っていましたが・・。
 本丸跡の周囲に 堀だったと言われる用水路(公民館の傍)が 残っているほか 150m南西の
堀跡と伝わる場所に 町坪氏を弔ったもの とされる五輪塔塚が 残されています。
 公民館前には お地蔵さんあり その前に 水を湛えた水槽がありますが 水は 湧水ではなく
ポンプで 汲み上げた水だそうです。




9.町坪の常夜灯
 町坪西川(今は暗渠)の川筋を通った室津道に 建てられていた常夜灯。 今は 棚田交差点南の道路脇の
歩道にあります。 「金毘羅大権現 慶応二年(1866)丙虎 願主為右衛門」 とあります。 室津道は
金毘羅参りの庶民が よく利用したそうです。 室津道は 広い県道になっている南から ここで 方向を変えて
町坪の集落の細い道を 東へと進みます。 町坪公民館は 一つ南の道にあります。

10.法輪寺
 臨済宗のお寺。 開創は 平安時代で 天台寺院であったと言われています。 南北朝の頃 播
磨守護・赤松則祐が 妙心寺派の禅寺とし 寺号も 宝林寺と改めます。 嘉吉の乱で 赤松氏が
討たれた後は 英賀・三木氏の崇敬をうけますが 秀吉により 英賀城は 落城。
 その英賀城攻めの折 秀吉の来訪を予期した寺側が 茶釜に茶を たぎらせて待っていたところに
秀吉が立ち寄り 茶を所望。 ところが 平侍のなりであったため 誰も秀吉と判らず 白湯しか出さ
なかったため ”湯沢山 茶くれん寺” の寺号を与えられたという 有名なエピソードがあります。
 境内に 秀吉が 座って お茶を飲んだと言われる 腰掛石があります。  今の腰掛石は 平成
25年に 竜山石で 再現されたものです。  榧(カヤ)の保存樹もあります。


11.荒川神社
 元は 手柄山西麓にあり 1328年に 町坪に遷座するも 1432年の洪水で 流出。 1533年
現在地に遷座しますが 戦乱で荒廃し 前出の法輪寺の寺地内に 再建。 1711年に 再び 現在
地に 遷座されました。 水の神である水波能女神を 奉ずるのは 暴れ川であった夢前川旧流路
の洪水被害を たびたび受けてきたからと 推測されます。



12.付城
 付城とは ①本城とは別に 要所に築いた城。 出城のほか ②攻撃の拠点として 敵城の近くに
築いた城という 二つの意味があります。 JR英賀保 東方地区にあった付城も 英賀城の出城であ
ったという説と 秀吉が 英賀攻めの際に 築いたという二説があるようです。
 付城の堀があったと推測されている場所に お地蔵様が祀られており そばに建つ 「関門西堀之
跡」 という石碑には 付城が 英賀城の一部と 歌う英賀保村歌の一節が 刻まれています。
 付城村は 英賀城の城下の一部と 立ちつとい 関門西堀などいいて 村のほとりに おくゆかし
このお地蔵さんは まけず地蔵というのでしょうか。


13.山崎山
 山上に 英賀三木氏配下の山崎惣右衛門の構居がありましたが 秀吉の弟・秀長の攻められ 落城。
その後は 英賀城攻めの拠点となったそうです。 山上の削平地には 麓にある亀山本徳寺廟所から
登ることができます。 山崎山86mの登ると 城之台の碑があり 英賀保の町が 一望できます。




14.山崎の石灯籠
 1846年 建立。 「(金)常夜灯」 とあります。 山崎は 夢前川の渡しがあり 金毘羅参りの旅人が
よく利用していました。 当時 参詣客を乗せて 大阪と丸亀を往復した金毘羅船があり 人々は 寄
港地の室津を目指していました。 一方で 四国路に 旅のできない人たちは 山崎に 「金毘羅大権現」
の分霊を祀り この灯籠に 火を入れ 祈願したそうです。 元は 12m北西の旧才崎橋東詰にあった。

15.英賀城跡
 戦国期 9代140年にわたり 英賀を治めた三木氏の城。 港湾を備えた海上交通の都市として
さらに 英賀本徳寺を柱とする 一向宗の寺内町として栄えました。
 中浜2丁目辺りに 「城内」 という字があり この辺りに 本丸があったと考えられています。 秀吉
により 解体され 城郭内の形跡は 残されていませんが 中浜1丁目と 2丁目の境の水路が 堀跡と
推定されているほか 英賀神社本殿裏に 土塁が残っています。
 2014.7.27に 官兵衛ゆかりの地めぐり・英賀で 英賀城、英賀神社周辺を歩いたときの
ページ ”英賀本徳寺跡の碑” <こちら> を見てください。

 英賀城は 「岩繋城」 ともいわれ 南は 海、西は 夢前川、東は 水尾川に面し 北は 湿地帯
で 守るのに 大変都合のよい城であった。 鎌倉時代には 砦が 造られていたが 室町時代
になると 播磨の守護大名であった 赤松氏の一族が 守った・・・。
 本丸跡碑の裏に 「中浜地蔵」 があります。 少し探し回って 英賀薬師堂(旧法寿寺跡) へ
行きました。 ここは 英賀城 井ノ上口之跡 といわれ 今でも 土塁の一部が 残っています。
井ノ上口之跡は 英賀城の十城門の一つです。

 奥には 三木家一族の墓所があります。 山崎山に 亀山本徳寺の西山御廟建立のため
同所にあった 初代城主 三木通近らの墓所を ここに 移した。
 右隅には 英賀城の土塁が 一部 残っており 長さ約10m、底幅約10m。 薬師の
北側に 幅約18mの外堀が あったそうで 今ある溝は その名残でしょうか?

 英賀神社は 社記によると 「播磨国風土記」 にある英賀彦神・英賀姫神を祀る 古い神社で 町名
の由来も ここにある。 天満宮は 嘉吉年間に完成したとみられ 境内には 寛文7年(1794) 銘の
手洗鉢や 寛政6年(1794) の狛犬があり 拝殿には 江戸期の絵馬が 多く残っています。 また
明治時代の扁額もあるそうです。 拝殿脇に 「播磨灘物語」 の文学碑があります。 司馬遼太郎は 祖父
の代まで 播州門徒だったそうで 自ら その末裔と名乗っていたそうです。  本殿の北に 土塁が残って
いて 英賀城公園には 野中口之跡の碑があり この辺りが 英賀城の城郭の北端だったようです。 




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姫路の旧街道を歩く 室津道篇① 予告

2017-12-23 14:30:36 | 歴史探索
 12月23日(土)   天気:晴れ のち 曇り   室温:13.5℃

 きのう FMゲンキのフリーマガジンの ”冬号” を入手しました。 冬号の ”気まぐれ途中下車
姫路の旧街道を歩く” は 室津道篇①(福中町~町坪~才崎橋東詰) です。 姫路城の西玄関
口・備前門から 山陽本線沿いに 南西方向に進み 英賀保駅の北を通り 夢前川の才崎橋まで
歩くようになっています。
 姫路市教育委員会 文化財課 昭和58年発行の文化財見学シリーズ11 『室津道』 をたずねて
(広畑区小坂~福沢町)には
 室津は 摂播五泊の一つ 古代からの重要な港だった。 江戸幕府は 姫路藩に 飛地として治め
させた。 室津~姫路の道は 「室津道」 と言い 明治には 「県道」 となった。  だが 道幅は 6尺、
広いところで 9尺、しかも 屈曲が多かった。 今は 草に埋もれていたり 区画整理で 消えたりした
ところもある。 ここでは 江戸時代の室津道を たどってみよう  とあります。
 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 2016.1.12 才崎橋から西の揖保川の八十の渡しまでの ”室街道を行く” は < こちら >
を、2017.10.9 魚吹八幡神社から西を歩いた ”垣内探訪 「室街道」” は <こちら> を見
てください。
  
 この先 広畑を通り 網干の揖保川の八十の渡しまでは 歩いたことがあるのですが 今回のルートは
歩いていません。 歩くとすると 網干から 備前門まで行って また 網干まで帰るのは 結構しんどい・・。
 今回のルートでは 冑山や手柄山、山崎山が含まれているので これらを登るとなれば 足が重いし
コースから外れた荒川神社や 法輪寺(茶くれん寺)、英賀城 もあるし・・・。
 
今回のルート沿いの見所として
1.備前門(福中門):姫路城の西の玄関口、室津道の起点
2.千代田町の常夜灯:1868年 室津道の出入り口に設けられた常夜灯
3.千代田町の道標:室津道脇にある道標で 「あぼ志美ち」 とある。
4.冑山神社:播磨国風土記の14丘の一つ。 姫路城の裏鬼門。
5.手柄山 :播磨国風土記の 「手刈丘」
6.JR山陽本線:私鉄 山陽鉄道として 明治21年 兵庫駅ー明石駅間が開業。
7.高(尊)清水地蔵:荒川地区は 伏流水の豊かな地域で 各所に清水が湧き出していた。
8.町坪構居:英賀城の支城で 領主は 町坪弾四郎といわれる。
9.町坪の常夜灯:町坪西川の室津道に建てられていた常夜灯。
10.法輪寺:平安時代に開かれた 臨済宗のお寺。 秀吉から 茶くれん寺の寺号を。
11.荒川神社:元は 手柄山の西麓にあった、水の神・水波能女神をまつる。
12.付城 :英賀城の出城? 「関門西堀之跡」 の碑がある。
13.山崎山:山上に 山崎惣右衛門の構居があった。
14.山崎の石灯籠:1846年 建立。 金毘羅参りの旅人のため?
15.英賀城跡:戦国期 9代140年にわたり治めた 三木氏の城。
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相生の下土居城跡

2017-12-18 16:00:11 | 歴史探索
 12月18日(月)   天気:晴れのち曇り   室温:14.0℃

 きょうは 有年山城跡に登った後 相生市若狭野町まで戻り 下土居城跡に登りました。
尾根の先端の三角点へ行き 尾根を引き返し 送電線鉄塔へ行き さらに シダヤブと格闘
し 北の160mピークへも登頂。 久しぶりの本格的?山歩きでした。
 ところが 若狭野へ来るころには よかった天気が 曇ってしまって 暗くなり 撮った写真は
どれも暗い・・・。

「城たび100選」 というページによると
 下土居城は 文永四年(1267)、岡豊後守が 矢野川と小河川とが合流する 三角形の地形
にある 小高い丘の上に 築城した山城です。 この城に関する攻防は 一切なく、岡氏が 代々
続きましたが 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて 岡氏が 宇喜多秀家に属したため
以後は 没落していくことになりました。...

 中郷のバス停に来ましたが 車を停めるところがありません。 道路と道が交差する三角の
コーナーに停めました。 12:45 スタート。 向かいの民家の間を 山の方へ行くと おっ
セメントで固めた階段が・・。 パイプの手摺もあります。 これを上がると ネット・扉があり
扉を開けて 山へ入ります。 左側は お墓もあり ネットで囲まれ シイタケ栽培。

 この奥で 道が分からなくなり 正面は 急斜面で 登り難いので 右寄りに登ります。
山頂・三角点は 南にあるので・・。 急斜面を斜めに 難儀して 尾根に上がると 尾根
は なだらかで 歩きやすい。

 尾根を少し行くと 三重堀切があり 3つの堀切が はっきり分かります。 堀と堀の間の
山は 岩で 上の壁は 高さ5m以上あります。 岩盤を削り すごい堀を掘ったものです。
 この壁は 登ることができません。 右を迂回しましたが ずるずる滑る斜面で 汗をかき
ました。


 なんとか 三重堀切を越え 尾根に戻りました。 平坦な尾根を少し進むと 尾根の先端
に出て 三角点がありました。 ここも 四等で 四等三角点:下土井 128.96m。
 ここも やや狭いが 平坦地です。 ネットで見た城郭図に 下に 竪堀があるそうなので
下に降りてみました。

 三角点の下の段にも 平坦地がありますが 竪堀は・・。 あまり下へ降りても また
登らないといけないので・・。 地図には 南へ降りる破線の道もありますが 確認できず。

 竪堀は 諦めて 引き返します。 三重堀切は 右に迂回しました。 少し先の鞍部で 東
から上がってくる はっきりとした道に出会いました。 これは 地図の実践の道のようです
が 幅1mほどの道なので 破線の方がいい。 反対の西へは 破線の道が降りています。
 下山するのは この道を降りましょう。 とりあえず 北の鉄塔を見に行きます。

 少し先に 西播龍野線八の鉄塔がありました。 送電線の延びる北西方向の先には
西播変電所が見えます。 南には 宝台山が見えたはずですが・・・。
 ここまで来たら この先に 160m小ピークがあるので 行ってみましょう。 ところが
この先は シダヤブでした。 最初は ひざ下でしたが だんだんシダが 高くなり・・。

 やばいなと思ったら 左に シダのないところがあり 左へ迂回。 13:54 苦労して 小ピ-
クに登りましたが 頂は 雑木に囲まれ 展望無し。 おまけに ピークは シダのヤブで 足の
踏み場もない。 ピークに着くころに 日が差してきて シダが きれいに輝いています。

 鞍部に降りると 西へ降りる道があり これを降りると シイタケ園の上に降りました。
14:13 車に戻りました。 シダヤブと 格闘したので ズボンが ゴミだらけ。 一息
入れて 帰路に就きます。
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福崎町 辻川界隈散策

2017-12-15 16:52:01 | 歴史探索
 12月15日(金)   天気:晴れて暖かい   室温:16.7℃

 きょうは 福崎町の辻川周辺を歩いてきました。 12月の歴史教室で ”銀の馬車道” の話が
ありましたが 馬車道は 道路であって むかしの人が歩いた街道ではありません。 なので 馬車
道を歩いても 面白くありませんし 現在 当時の面影が 残っている馬車道も ほとんどありません。
 きょうは 馬車道関連ということで 辻川界隈を散策します。 福崎観光協会のぺージから 散策
マップをコピーし それをもとに歩きます。 民俗学の父 「柳田國男生誕地」 の町並み・文化を見
て 聞いて ふれあう 歴史散策コースです。

 柳田國男生家の前に 駐車し マップの1~12などを めぐります。
1.柳田國男生家 2.柳田國男・松岡家記念館 3.神崎郡歴史民俗資料館 4.鈴ノ森神社を
見て 民俗資料館の脇道から 墓地を抜け 山道を登り 北野天満神社へ。
 坂道を登り 辻川山の展望台へ。 学問成就の道を下り 鈴ノ森神社へ降りて 南へ歩きます。
5.有井堂を見て 銀の馬車道を西へ行き 生誕地の碑を見て 北へ。 屋台蔵を見て 6.地蔵堂
へ。 地蔵堂は 旧生野街道にあります。 国道312号線(銀の馬車道)を越えて 西の市川河原に
ある 7.駒ヶ岩へ。
 南へ下り 8.高藤稲荷へ。 銀の馬車道に戻り 9.三木家住宅 10.東三木家を見て 11.も
ちむぎのやかたで もちむぎ麺を食べて 駐車場へ戻ります。 銀の馬車道は ほんの少ししか歩き
ません。
 帰路 播但道の福崎南ランプの東・南にある 西光寺野人参役所跡と 河合寸翁碑を見て 福崎南
ランプから播但道に入り 砥堀ランプで降りて 市川に架かる生野橋・馬車道修築の碑 を見ます。
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 播但道・福崎北ランプで 降りて 県道を西へ行き 田尻で右へ曲がると 熊野神社があります。
まず 熊野神社へお参りし きょう 安全に歩けるようお祈りましょう。 ここには 青田賢造さんが
描かれた絵馬があります。 熊野神社は 赤一色の衣装で 天狗が舞う 浄舞が有名だそうです。
13.熊野神社 秋祭りで 豪華なみこし屋台と ふとん屋台12台が 境内を練る様は 圧巻です。


 平野病院で右折して 北へ進むと トイレ・駐車場があるので 車を停めます。 白線の枠は
すでに 満車なので 横に停めました。 観光客が こんなに多いとは思いませんでした。
 駐車場の脇は 辻川公園で 巌橋があり 下の池に 河童の彫刻があります。 巌橋は 辻川
の南の岩尾川(雲津川) 辺りが 馬車道として整備され 石橋に架け替えられ 後に ここに 移
設・復元されました。 池の周辺には 妖怪の彫刻があります。

 最近 「招き鵺」 が設置されたそうで 鵺は 頭は猿、手足がトラ、胴体は狸、尾はヘビの妖怪。
そのほか 「天狗」、「山の神」、河童の兄弟・河太郎と河次郎(池の中)もあり 河次郎は 15分
毎に 泡と共に顔を出します。 上で ロープウエイにぶら下がって 往復していたのは 何でしょう。

12.河童の河太郎と河次郎と鵺
  柳田國男の著書 「故郷と七十年」 に 登場する駒ヶ岩の河童のガタロ(河太郎) をモチーフ
  にした河童の兄弟です。 兄の河太郎は 池のほとりにいますが 弟の河次郎は 池の中にいて
  時間がくると 水中から飛び出てきます。 「天狗」、「山の神」、「招き鵺」 で 像は 3体目。
  福崎町は 妖怪を活用した町おこしに力を入れており これからも 妖怪の像を増やしていく・・。

1.柳田國男生家
  日本民俗学を開拓し確立した柳田國男は 著書「故郷七十年」 に 「私の家は 日本一小さい
  家だ」 といい 「じつは この家の小ささ という運命から 私の民俗学への志も 源を発したと
  いってよいのである」 と書いています。 生家は もと 辻川の街道に 面していましたが 昭和
  49年に 國男のゆかりの地 鈴ヶ森神社の傍らに 移築されました。

2.柳田國男・松岡家 記念館
  文化勲章を受章した民俗学者・柳田國男と松岡家の貴重な資料が 豊富に展示されています。
  松岡家5兄弟・柳田國男と英才兄弟(長男・松岡鼎、三男・井上通泰、七男・静雄、八男・映丘)
  柳田國男は 六男で 明治8年 福崎町生まれ。 明治34年 柳田家へ養嗣子として 入籍。

3.神崎郡歴史民俗資料館(県重要文化財)
  神崎郡の歴史や 当地方で使われていた生活用具、農具などの民俗資料が 展示されています。
  建物は 明治19年 郡役所として建築されたものを 現在地に移築・復元したものです。

4.鈴ノ森神社
  柳田國男が こどものころ よく遊びに来ていた場所の一つです。 「播磨鑑」 に 神々が集まった
  とあり 声学・安産の神々が 祀られています。 合格祈願には 絵馬を奉納すると良いといわれ
  ています。 鈴とは 整地の意味で 播磨の神々の集会の所地。 ご祭神は 火授々杵命 他


 松岡家記念館の右を回り 墓地を抜け グランド北の山道を歩いて 北野天満神社へ向かいます。
山の中には 道標もあり 至れり尽くせり。

 北野天満神社は 菅原道真公をお祀りしています。 なで牛があると思ったのですが・・。 石段を
降りた石灯籠の下にあったのかも・・。 牛の頭をなでると 道真のように 頭がよくなる?

 天満神社から 学問成就の道を歩いて 辻川山に登ります。 この道には 柳田國男の五兄弟の像
があります。 ここで 失敗しました。 きょうは  山歩きの日ではないので 辻川山に三角点があること
をうっかりして 三角点:128.9m を見逃しました。 家に帰って 調べると 最近の地理院の地図には
三角点はありません。 なくなったようです。 平成8年発行の地図・北条には ありますが・・。
 山頂からは 西方向が見渡せます。 東の妙徳山(神積寺の山号) は見えたのでしょうか。 辻川山
は 三獅子山ふれあいの森の一つです。

 山頂の西に 配水池があり うまい具合に 水道局?の人が来て なにか工事をしていて フェンス
が開いています。 配水池の上から 景色を撮らせていただきました。 西が 絶景です。

 配水池から 学問成就の道を降ります。 階段道です。

 歌碑もあり 八千種の 花は移ろふ 常盤なる 松のさ枝を 我は結ばな  大伴家持
学問成就に道を降りると 鈴ノ森神社に降ります。 天満神社から 鈴ノ森神社に降りるのは
邪道? 鈴ノ森神社から 時計回りに廻らないと ご利益がない? 鳥居を潜り 南へ。
 駐車場の横に出るので いったん車に戻り 一息入れます。 すぐ南が 有井堂です。

5.有井堂
  旅をしていた神積寺の開祖・慶芳上人が このお堂に泊まり 夢のお告げにより 神積寺を建立
  したとされています。 この堂の床下に 犬が数匹の子犬を産んでいるのを 柳田國男と その兄弟
  が見つけ 堂の床下にもぐりこんで 子犬をつかまえ 楽しく幼年期を過ごしたそうです。

 有井堂の南の東西の道は 銀の馬車道です。 馬車道は 東行き一方通行ですが 西向きに
歩くのは 問題ないでしょう。 マップにある角の旧神崎郡役所跡を見て 柳田國男生誕の地
の石碑を見て 元鈴の森酒店(銀の馬車道の酒) を見て 北へ行きます。

 マップには 元法務局登記所跡がありますが 見当たりません。 大きなクスノキはあります。
後で マップをよく見ると 小さい字で ゲートボール場と書いてあります。 ここを西へ抜けると
屋台蔵。 次の地蔵堂は 勘違いして 探し回りました。 旧生野街道の角にあります。
6.地蔵堂
  昔 地蔵堂の前が 生野街道という重要な道でした。 この地蔵様は 子どもを健康にし 頭の良い
  子にするといわれています。 柳田國男の祖母・小鶴が 日詣りをし 柳田兄弟も 連れられて
  詣っています。 赤穂浪士の大石内蔵助の妻りくも 但馬へ里帰りする時に この地蔵堂で 休憩
  したと伝えられています。

 地蔵堂の前は 旧生野街道です。 いまは 舗装されていますが 幅1mほどで むかしの面影
があります。

 国道312号線の辻川北交差点の角に 田原村道路元票があります。 ここから北の国道は
かっては 銀の馬車道で 馬車道は 辻川北交差点で 東へ曲がります。 下右の写真に 国道
(銀の馬車道) とあるのは 間違いで 国道の西の道路です。
 国道を横切って 西へ細い道を入ると 元手造り醤油屋(伊藤家)があります。 道路を北へ
行くと 駒ヶ岩の標識があるので 左へ曲がると 川岸の岩が 駒ヶ岩。

7.駒ヶ岩
  この辺りで 泳いでいると 河童のガタロ(河太郎)に いたずらされたという話や 古宮に向かって
  跳んでいった神馬の蹄跡があると言われています。

 岩場周辺を歩いていると ズボンの裾に 雑草の種が いっぱい付いて 取るのに 困りました。
駒ヶ岩を退散し 南の高藤稲荷神社へ行きます。 むかし お稲荷さんには 藤の大樹があり 村の
子ども達には それぞれ思い出があったそうです。 田嶋神社は 市川の近くにありました。
8.高藤稲荷
  國男が よく遊んだところで 稲荷信仰や 狐研究を始めたもとになっています。

 銀の馬車道に戻り 東へ向かいます。 この馬車道は タイルのようなもので舗装されています。

9.大庄屋 三木家住宅(国指定重要文化財)・・保存修理中
  三木家は 英賀城主の後裔で 秀吉の中国地方遠征後 ここ辻川に移り住み 姫路藩の大庄
  屋として 地域の政治・文化の中心的存在でした。 古い建物は 300年以上にもなります。
  柳田國男は 10歳の頃 1年間預けられ 三木家の書物を 読みあさっていました。

10.東三木家
  三木家の当主が 幼少のころ 後見人になったり 山崎組の大庄屋を務めたこともある家です。
現在は コミュニティカフェ・河童のさんぽ道で 塀には 河童の絵が 描かれています。
銀の馬車道は ここで 南へ曲がりますが もちむぎのやかたは 北へ行きます。

11.もちむぎのやかた
  ソバでもなく うどんでもない 独特の食感、福崎町特産のもちむぎ麺が味わえ お土産コーナー
  製麺工場の見学ができます。 訪れた際は ぜひ 立ち寄りたい場所です。
 もちむぎのやかたで おかち麺(756円) を食べて 車に戻りました。

 辻川公園を後にして 銀の馬車道を南へ下ります。
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 播但道の下を潜り 県道218号線で 西光寺へ行きます。 右に池が見えたら 人参役所跡
(岡庭酒店)が 左にあります。
14.西光寺野人参役所跡
  姫路藩の家老・河合寸翁により 人参役所では 朝鮮人参の栽培指導から 販売までを 統括
  していました。 役所跡には 酒蔵が建てられ 市の都市景観重要建築物に指定されています。


 河合寸翁の顕彰碑は 馬車道を200mほど 東に行った長池の土手下にあります。 傍には
送電線の鉄塔が立っています。 河合寸翁は 藩の財政建て直しの一環として 西光寺野の開発
を手掛け 朝鮮人参の栽培を試みた。 碑は 寸翁の開発の功績を讃えるものです。
 長池も多いな池ですが この辺りには ため池が多くあり 西光寺野台地ため池群と言われ
日本のため池百選に選ばれています。

 寸翁碑を見て 播但道・福崎南ランプへ戻り 播但道を南へ下り 砥堀ランプで降りて 国道
312号線へ突き当り 左折。 南の信号で 左折し 市川の土手に出ると 右が ミニ公園です。
 銀の馬車道は ここから南へ延びています。
15.生野橋・馬車道修築の碑
  明治9年 馬車道の完成を祝って 生野橋のたもとに 記念碑が建てられました。 「修築」 と
  したのは 旧街道を利用した工事だったからでしょう。 始発・終着点でもない地に 碑が置か
  れたのは 生野橋が 最も難工事だったからだと言われています。 現在は 3代目で 初代の
  橋は 右岸に 橋台の石垣と 川中に 橋脚跡が残っています。


 これで フンドシより長いこのページも 16000字で やっと終えることができました。
が ここまでくれば もうやけくそ。 2015年12月に行った 銀の馬車道終点の飾磨辺りを。
 国道から 南へ入ると 突き当たりが 浅田化学工業。 ここが 飾磨街道・銀の馬車道の終点で
馬車道の説明板があります。 大きな水路があり 水門の先は 野田川です。 右には レンガ造り
の倉庫があります。  むかし この辺りは 飾磨津(港)で 野田川の河口に 船着き場があり
倉庫、荷積み場があったと思われます。

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歴史教室12月 「銀の馬車道」

2017-12-05 12:25:56 | 歴史探索
 12月 5日(火)   天気:晴れ   室温:13.8℃

 きょうは 旭陽公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は 馬車道ひめじ応援の会
の澤木正幸さんの 「銀の馬車道について」 です。 出席者は 多かったようです。
 資料と プロジェクト未来遺産 ”銀の馬車道 ~日本初の高速産業道路を未来につな
ぐ~”(銀の馬車道ネットワーク協議会 発行) のパンフレットを使って 説明していただ
きました。
※12月20日の新聞に 「銀の馬車道・鉱石の道」 が 日本遺産に認定されたことが
 姫路市の市政10大ニュースになったと 載っていました。

パンフレットには
 「銀の馬車道」(正式名称:生野鉱山寮馬車道) は 生野銀山と 飾磨津の間 約49km
を結ぶ 馬車専用道路として フランス人技師長のもと 当時の日本では 最新の舗装技
術を導入して 3年がかりの工事を経て 明治9年に 完成しました。
 ”日本初の高速産業道路” とも言われる道の建設は 未曽有の事業であったことが 同
年に 建てられた記念碑 「馬車道修築」 の碑に記されています。


 ・・・・・・ 銀の馬車道について(次第) ・・・・・

1.はじめに

2.銀の馬車道について
  ア 銀の馬車道(商標登録:正式名称は 生の鉱山寮馬車道) とは・・・
  イ 何故、今、銀の馬車道なのか・・・
    ・中播磨の地域資源(地域再生の方策の一つ)
      姫路城だけでない、中播磨の広域観光として繋がり・・・
    ・やっと 日本遺産に認定(平成29年4月:兵庫県では 3番目)
  ウ 播磨と南但馬(生の鉱山)の歴史(幕末から~明治初頭まで)

  エ 馬車道の建設(明治5年度から)
    ①日本の近代化(殖産興業と富国強兵)に 生野の銀が必要
     何故、生野なのか。 明治元年 新政府は 生野銀山を国営化し 外国人技術者と
     最新設備を導入して 近代化を図ることで 銀の増産を目指します。
    ②建設時の主な人物
     ・朝倉 盛明(鉱山長) 明治元年~26年 生野在住
       (薩摩藩士:薩摩藩 英国留学生 1865~67年)
     ・お雇い外国人
       フランソワ・コワニュ(フランス人:鉱山人)
          慶応4年(明治元年)~10年 生野在住
       レオン・シスレー :コワニュの義弟で 馬車道のルート設計を行い
          ヨーロッパで普及していたマカダム式舗装を導入した。
    ③3つの案について(舟・汽車・道路) 市川を利用した高瀬舟、鉄道施設は 費用がかかる。


    ④道路工法 マカダム式(ヨーロッパの最新技術工法)
    ⑤馬車(馬と人と荷車が一体)
    ⑥建設時の困難な主な工事と 地域での逸話
     ・生野町 盛明橋(市川を右岸へ渡る)・生野峠
     ・神河町 粟鹿・観音橋・馬橋
     ・福崎町 尾形(嘆願書)
     ・姫路市北部 船津(立場)・豊富(馬場)
     ・姫路南部 生野橋 最難関工事 167m(市川を左岸へ渡る)
             城東小学校(外堀川を 半分埋め立て)
             姫路駅周辺(地場産ビルを 斜めに横断し 飾磨街道へ)
             飾磨門と飾磨街道(南畝・東延末・亀山本徳寺・三宅・都倉・門章)


  オ 銀の馬車道の開通後(明治9年以降)の変遷について
    ①播但鉄道の開通(生野~飾磨) 明治28年
     民営化で 三菱合資へ払い下げ  明治29年
     馬車道の廃止            大正9年
    ②馬車道の沿線(市川流域)の著名人について
       柳田國男、和田三造、青山熊治、有本芳水、和辻哲郎、橋本忍 etc.
    ③現在の銀の馬車道の主な取り組み
       普及と広域的な交流の促進、地域ぐるみの活動の展開、沿線の活用及び交流拠点の形成

3.課題と今後の目標について
   ・課題
   ・目標

4.おわりに(質疑含む)


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