中年の散歩道

後期高齢者世代、、、そんな親父の街角ウオッチングetc..

神罰が下される、、、

2010-01-21 10:59:37 | Weblog
神社に市有地を無償で提供していることが、特定の宗教に対しての便宜供与に当たると、最高裁大法廷の判決があった。
北海道は砂川市にある、開拓時代に建立された、しかも年数回だけの儀式があるだけの小さな神社である。鳥居と祠の一部が市有地にかかっていて、市もその経緯は知らないという。

そもそも土地は、我々自身が作ったものでは無く、その土地の神様から一時的に使わせて頂いているものと、私は考えている。従って、元々の神様の土地に神社があっても何の抵抗も無い。但し、個々の新興の宗教については別だが、ややこしくなるので詳述はしない。

さりとて、私自身は特定の信仰は持たない。強いて言えば、仏教徒かも知れないが、、、
従って、神社とのご縁は、年始のご挨拶に向かうことと、旅行先ではその土地の神様にご挨拶をする程度である。祭られている神様が、現代や近代の作られた神様でなければそれで良いのだ。

本州でよく見かける、道端のお地蔵様や小さな祠はどうなるのだろうか?交通事故の現場に手向けられている花やお供えはどうなるのだろうか? と、疑問は尽きない。
今回の訴訟の対象となった神社は、一等地にあって繁盛している神道系の結婚式場とは異なり、単なる、地域というよりも「地」の神社なのだから。

厳寒の地の荒野を切り拓いていった、先人の心の拠りどころが、単なる一宗教と同一視されることに疑問を禁じえない。更に元を辿れば、市有地などと誰が定めたのか? 北海道の土地は、明治政府が広義のアイヌの土地を収奪したのではなかったのか?

思想・信条は自由であり、守られなければいけないが、仮に百歩譲ったとしても、公共の市有地で、正月と収穫祭程度の土地の行事を行う事が、他の宗教に対して特別に利しているとは、到底思えない。

例えば、国道などの拡幅工事に際して、「古木を避けて迂回するケース」も時折ある。或いは、朽ちかけた古木を何とか助けたいとする気持ち。これらのことは、木にも魂が宿っているとする日本人の精神性でもある。
「八百万の神に対して、有り難いとする心」を失うことは、言語を失うことと同じように、日本人を放棄することと考えても、行き過ぎではあるまい。

ふと思ったのだが、神輿渡御や祇園山笠、各地の山車の行列も、一宗教法人の儀式として制限される世の中が来るのであろうか?

祭神など露ほども知らないまま、田舎八幡様の境内を通って小学校に通った元少年としては、どうにも気持ちが納まらない。
さしたる信仰を持たない私ではあるが、昨日は、もやもやとしたままで一日が終わった。


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