裏ユキヒロック

ロックとバイクとラーメンが大好きだ。

春ナノニ小春日和トワ秋ノコト

2006年04月10日 | ひとりごと・日記
昨日は妻の実家の農作業のお手伝い。

もちろん「米どころ新潟」なので、4月末の「田植え」前の準備です。

地元では「すず蒔き」若しくは「すじ蒔き」と呼ぶようですが、
簡単に言うと「種蒔き」を手伝ってきました。

今は「直播き」といって、種もみを貼り付けたシートを
直接田んぼに広げて植えて行く方法もあったりしますが、
ビニールハウスの中で苗箱に種を植えて、
ある程度(10センチくらい)伸びた苗を田植え機で田んぼに植える
ってのがオーソドックス。

コンベア風の機械に苗箱を乗せて行くと、途中で種(すず若しくはすじ)を
蒔いて、その次に土をかけて出てきた苗箱を取って広げて並べていくという
作業で、結構忙しく流れ作業なので人手が必要。
昨日は子供達も合わせて10人くらいが手伝った。

「土いじり」と「共同作業」ってのは精神健康上すごく
良いものだと実感する。

取立てて凄い疲労もないのですが、心地よい疲労感と
お天道様の下で笑いながら、他愛のない話をしながらやる作業ってのは楽しい。
こういった農作業をしていると、
農業をしながら作品をつくっていた「宮沢賢治」の思いを想像する。

「生活と仕事と芸術」がまぎれもなく一体である。

生活の中に仕事があって、お日様が昇って仕事をし、
お日様が沈んだら寝て、自然と共に暮らす。

そして、それ自体が芸術でもあるのだ。

今の世の中の歪みはこの3点が完全に分裂してんじゃないかと思う訳です。

何のための仕事?誰のための仕事?それはお金?
「生活の為でしょ!」と言いつつ、その仕事自体が生活を圧迫している矛盾。

歌を歌うこと、踊ること、楽器を弾いたり、絵を描いたりすることって、
生活そのもので、仕事と密接な関係だった時代があったと思う。

現代において「農作業」の中にそういうヒントが隠されているような気がする。

かと言って、すぐにでも全員が「農家に転職」ってのも非現実的なのだが、
そういうお手伝いが出来る環境ってのは結婚してからなので、
すんごくそういう憧れというか、思いってのは強く感じてしまう。

いや、「お手伝いな立場」だから簡単にそう思うのかもしれないし、
基本的に怠け者に農業は向かない。

義理母や義理父をみていると、ほんと良く動くんだよね。
根っからの働き者なんだよね。

僕は、そういう人をマジで尊敬しております。

そして、俺も怠けてばっかいないで頑張らねばって思うし。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ


皆にデクノボーとは 呼ばてはいるかも・・・(笑)