幸隆の国から

歴史の跡、自然、いい湯などを訪ねて出掛けたときの記録。
また、四季折々、日々の雑感です。

天神様と梅ヶ枝餅

2024-05-30 | グルメ

菅原道真公(菅公、天神さま)の祀られている「太宰府天満宮」の御本殿が大改修されている。

工事中の現在は、本殿の前には「仮殿」が造られいて、そこで参拝するようになっている。

この仮殿が見られるのは「修復が終わるまで」で、この間だけがチャンスなのである。

 

仮殿の屋根には草木が植えられ、自然の森の一部のようである。

うしろのシートで覆われたのが工事中の「御本殿」である。

 

 

御本殿の前にある梅が「飛梅」。

菅公が京を離れる際、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだ、その梅が飛来したと伝えられている。

 

菅公にご縁のある「梅」であるが、太宰府には、梅にちなんだ名物に「梅ケ枝餅」がある。

参道にはあちらこちらに梅ケ枝餅のお店があり、お店の前で写真を撮るインバウンドのお客様も多い。

買ったお餅を、歩きながら、おいしそうにお餅をほお張っている。

小腹が空いた時間にもなり、私も焼きたてをひとつ買う。

アツアツのを手渡してくれるので、海外からの観光客の流れに交じって食べながら歩くことにする。

あんこの入ったお餅には、梅の花の焼き印が押されているのが特徴。

歩き疲れたあと、程よい甘さがとてもおいしかった。

 

天神様の参拝では、周囲から聞こえるのは殆んど外国の言葉であった。

「梅ケ枝餅」は、不遇の日を過ごしていた菅公に、ある老女が梅の枝を添えておくったのがその由来とされる。

外国の方も、そんなことはSNSなどで事前調査済みなのであろう。


特別史跡・古代の防衛施設「水城跡」

2024-05-29 | お城

「大宰府」周辺のイラストを見てみると、大宰府を挿むように大野城と基肄城(きいじょう)があったことが分かる。

そして、博多湾から大宰府に向かう、平地の狭くなった部分を遮るように「水城(みずき)」があったことも分かる。

水城は、日本書紀に書かれている内容から664年に築かれたことが分かる、古代の防衛施設だった(土塁と濠)とのことである。

 

大正時代に建立された「水城大提之碑」

 

「東門」のあったところに残る礎石。

 

東門の近くには「水城館」があり、ビデオなどで水城について知ることができる。

その前の広場には、大伴旅人と児島の別離の時に詠まれた歌が刻まれている。

「凡ならば かもかもせむを 恐みと 振り痛き袖を 忍びてあるかも」 児島

「ますらをと 思へる吾や 水茎の 水城のうへに 涙拭はむ」 大伴旅人

 

水城館の脇から、展望所に登ってみる。

 

県道112号線の向こうに見える、こんもりとした森が水城跡。

 

水城の構造は、土塁と両側に掘られた濠でつくられていて、約1.2kmあり東西に門があったという。

発掘調査の結果では、土塁の高さは10m、外濠は幅は最大80m、深さ4mあったと推定されている。

長い年月の間に土塁には草木が茂り、濠は土砂で埋まったようだ。

 

土塁の上にのぼってみると、雑草や、大小の樹木がうっそうと茂っている。

 

外国からの侵略を恐れた国が大宰府を移し、水城を造り大野城を築きその防備を固めたという。

素人ながら観光マップと資料を読むと、確かに地形を生かした良い位置にあるように思える。


日本百名城の旅・福岡城

2024-05-28 | お城

今回の百名城を巡る旅は、人吉城(熊本県)、大野城(福岡県)、そして、この福岡城で最後になる。

 

福岡城は、関ヶ原の戦いのあと、黒田長政とその父黒田官兵衛が7年をかけて築城したとのことである。

徐々に高くなる「三の丸」、「二の丸」、「本丸」と三段の構造からなる。

まず「上之橋御門」から入城したが、そこからは三の丸だったエリアである。

 

まず、「福岡城むかし探訪館」に立ち寄り、パネルやビデオで関連する知識を入手する。

そのあとスタッフの方から散策ルートについてアドバイスを受け、順路に沿って進む。

 

「東御門」は三の丸から一段高い二の丸に向かう門である。

散策マップを見ると、二の丸は本丸と三の丸との間の中段に位置し、本丸の周囲をとり囲んでいる。

 

二の丸から「表御門」の石段をのぼると本丸に到達する。

 

「本丸御殿」のあったところもかなり広く、現在は、芝生が拡がり桜などの樹木が植えられている。

 

本丸にある「天守台」には、「小中天守台」が接続する面白い構造になっている。

天守閣は無いのだが、天守に模した構造物が設けられていて、ライトアップのイベントが行われているようだ。

 

次は、天守台の裏側の「武具櫓」があったところを周り、「裏御門」から「多門櫓」へと進む。

多門櫓は両端に二階建ての「隅櫓」をもった、全長72mといわれる長い櫓である。

 

最後に二の丸から「松ノ木坂御門」を抜けて三の丸を進み「下之橋御門」に出る。

下之橋御門と「潮見櫓」とが一緒に写る場所が、絶好の撮影ポイントのようである。

 

藩主の通ったといわれる江戸に近い上ノ橋御門から入城し、三の丸、二の丸、本丸(天守台)と巡り、西側の下ノ門から退城した。

2時間ほどかかった時間を忘れるほど面白く観て周った。

 

 

 


日本百名城の旅・大野城

2024-05-27 | お城

大野城跡は現在の大野城市、太宰府市、宇美町にまたがる四王子山(大野山、大城山)一帯に築かれていた。

資料には、築かれたのは西暦665年とあるから、その歴史は古い。

お会いした地元の方たちには、城跡というよりも、登山、ハイキング対象の山としてとらえている方が多かった。

トレッキングシューズでリュックを背負った山登りのスタイルの人が目についた。

山全体に広がる遺構を周るのは無理なので、「焼米ケ原」の周辺に絞って観ることにした。

 

散策マップを広げると、山の尾根伝いに、城壁ともいえる土塁がぐるりと周っている。

城門は何か所かあるが、これは城跡の南側にある「大宰府口城門の跡」。

 

土塁の間には、柱を載せた礎石が残っている。

大野城の中では最も大きな門であり、2階建ての楼門が立っていたと考えられている。

 

太宰府口城門の右側の土塁の上を歩いていくと、太宰府方面の眺望の良いところに出る。

土塁はさらに続いていて、はっきりと土塁だと判るその斜面には、夏草の中にきれいなアザミが咲いていた。

 

その土塁から少し奥に入ると「尾花礎石群」があり、建物が10棟建っていたのが分るようである。

ただ、落ち葉などに埋もれており、私にはすべてを確認することは出来なかった。

この礎石群の周辺は、炭化した「焼き米」が見つかるので「焼米ケ原」(やきごめがはら)と呼ばれているそうである。

地元の人との会話では、尾花礎石群というより焼米ケ原のほうが通りがよかった。

 

尾花礎石群からわずか離れたところに、よく整備された「増長天礎石群」がある。

ここははっきりと4棟の建物の礎石が確認でき、いずれも同じサイズの「倉」だったとのことである。

 

大野城には水を得るところがいくつか見つかっているそうだが、この「鏡池」もその一つ。

増長天礎石群のすぐ脇にあり、常に水がたまっていて枯れたことはないというのが不思議だ。

もともとは、もう一回りも二回りも大きかったのではないだろうか。

 

大野城跡の山を、タクシーの運転手さんは「砂の山」と表現されたが、確かに歩きにくい砂地の部分が多かった。

大宰府口から太宰府までは歩ける山道もあるといわれた。

但し、荒れていているようなので、迷子にあるのもイヤだったので帰りもタクシーとした。

その分時間を稼げたので、特別史跡「水城跡」を観る余裕ができた。


日本百名城の旅・人吉城

2024-05-26 | お城

熊本と鹿児島に跨るJR肥薩線は、4年前の水害から復旧していない。

電車の走っていない「人吉駅」には人影もなかったが、駅前のからくり時計を見たくて立ち寄った。

お城の天守のような形をした三階建のユニークな時計台である。

 

定刻になると扉が開き、からくり人形が姿を現し時を知らせる。

太鼓をたたく武士や、太鼓の音に誘われるように、最上階から顔をのぞかせるお殿様の動きが面白い。

肥薩線の電車が走っていたころは、きっと乗降客に人気があったであろう。

 

人吉駅からは「人吉城跡」迄は、バス(本数が少ない)、タクシーということになる。

ちょっと頑張れば歩くのも可能かもしれないが、球磨川に架かる「水の手橋」までタクシーを利用した。

城跡のエリアに入ると、球磨川に沿って瓦葺、しっくい壁、下部には瓦を張り付けた「海鼠壁」の塀が続き、その奥には頑丈な石垣が築かれている。

 

塀から少し奥にある石垣は「はね出し」という工法が用いられている。

てっぺんの石が外側に張り出している構造(武者返し)で、同様のものは「函館五稜郭」で見たことがある。

 

塀が切れたところには「水の手門」があったところで、年貢米などがここから運び込まれたといわれる。

外堀の役割をしていた「球磨川」は水運にも大いに利用されていたようである。

 

さらに進み、登城口となる「御下門(おしたもん)跡」から三の丸、二の丸、本丸を目指す。

ここからやや登りとなり、一汗かくことになる。

 

三の丸から二の丸へ向かう中御門(なかのごもん)の跡。

 

ここが「本丸」。

いくつかの礎石が残っているが、天守閣が建てられたことは無く、護摩堂があったとのことである。

 

本丸から山を下り、西外曲輪を通り、西側の堀になる「胸川」に出る。

大手門跡の北側には、胸川沿いに積まれた石垣の上に多門櫓、長塀、隅櫓が復元されている。

 

人吉城は鎌倉時代から江戸時代まで相良氏の居城だと伝えられている。

球磨川と胸川を外堀に見立てて造られた山城であり、建物はないが石垣がよく残っている。

地形を生かした中世の城が、「石垣づくりの城」に改修された過程を想像しながら観て歩くのが楽しかった。

 

今回は叶わなかったが、機会があれば「球磨焼酎」でも片手に、のんびり球磨川くだりをしてみたい。