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幸隆の国から

歴史の跡、自然、いい湯などを訪ねて出掛けたときの記録。
また、四季折々、日々の雑感です。

徳島ラーメン

2025-05-21 | グルメ

もとよりラーメン通ではないし、ラーメンの食べ歩きをしているわけでもないが、ラーメンは好きである。

徳島から帰途につく日、昼ごはんにドンピシャの時間に徳島駅前に着いた。

タイミングが合えば、あらかじめ目星をつけておいた「麺王」さんで、「徳島ラーメン」を食べようと決めていた。

 

徳島ラーメンは、「豚骨ベースでしょうゆ味、チャーシューではなく味付けの豚バラが使われる...」程度の予備知識はあった。

実際目の前にしてみると、スープは濃厚でトロリとした感じがし、トッピングは豚バラ肉・メンマ・きざみネギのシンプルな構成である。

細めの縮れのないストレートな麺は、日頃食べるラーメンとは少し食感が違うように感じた。

この濃い目のスープがよく合うように思う。

意外であったが、希望すれば生卵1個がサービスで提供される。

甘辛く味付けされた豚バラ肉に、卵をからめて食べるのが徳島流なのか...?

この部分は、すき焼きの食べ方が転じたようにも見えるが、他のお客さんの真似をしてやってみたがおいしかった。

また、テーブルには薬味として「辛みの効いたもやし」が置かれていて、小皿にとるもよし、ラーメンに載せるもよし、自由である。

シャキシャキとしたもやしの歯ざわりは、ラーメンをすする合い間のいいつなぎ役となる。

胃袋に余裕があれば、ラーメンにプラスして白いご飯がいいかもしれない。

旅に出ると、各地で「ご当地ラーメン」と出会うことはあるが、うまく昼めし時に合うことは少ない。

今回の旅の最後の地徳島では、おいしい「徳島ラーメン」で〆ることができ、ラッキーな旅であった。


徳島では「阿波尾鶏」に「阿波おどり」

2025-05-20 | 旅行

徳島に着いた夜、観光案内ステーションで入手したグルメMAPを手に早目の夕食に出かける。

地鶏「阿波尾鶏(あわおどり)」は、食べて帰りたいものの一つだった。

阿波尾鶏のメニューがあるお店は、グルメMAP上に鶏のイラストが描かれているので分かりやすい。

魚介と鶏料理のお店に入り、鶏料理は「とりの塩焼き」を頼んだ。

脂分は少ないがパサつかず、適度な歯ごたえのある肉質である。

シンプルな味付けで、くせのないさっぱりとした味わいがお酒(ビール&ワイン)のペースを速める。

 

早目の夕食を済ませると、「阿波おどり会館」の「夜のおどり」の開演に間に合う時間であった。

ちょっと酔いの回ったふらつく足で会館へ急ぐ。

阿波おどり会館では、一年中、昼と夜の公演が行われていて、本場の阿波おどりをナマで見ることができる。

 

「夜のおどり」は、「連」といわれるグループが日替わりで公演を行っている。

幕が上がると、あの聴き覚えのある演奏にのっておどりが始まった。

揃いのゆかたの踊り手が演ずる、一糸乱れぬリズミカルなおどりに目を見張った。

初めて見た阿波おどりは、とにかくきれいだった。

 

途中、おどりのステップや手の動きの指導もあり、「連」の皆さんと一緒になって踊る「体験コーナー」がある。

誘われるままにフロアに下りて、チャンカ・チャンカ・チャンカ・チャンカの演奏に合わせて手足を動かしてみる。

鐘・大太鼓・小太鼓・三味線・笛のパワフルな演奏が、慣れない動きを後押ししてくれる。

フランス、イギリス、台湾・・・、外国からのお客さんも多い。

 

1時間弱の公演が終わり、ロビーで「連」のみなさんと記念写真を撮ってから、会場の「阿波おどり会館」を後にする。

「阿波おどり」を体験したあとだけに、まだ耳にはあの演奏が残り、帰途の足取りはステップを踏んでいるように軽やか。

「阿波尾鶏」のおいしさと「阿波おどり」の楽しさが重なったいい夜だった。


日本百名城を巡る旅「徳島城」

2025-05-19 | 旅行

前日の和歌山から徳島へ南海フェリーで海を渡る。

デッキに出てみると海面は波一つなく、船酔いの心配もなく一眠りしている間に到着した。

 

今回の旅、最後の目的は「徳島城」。

城山の上に築かれた「本丸」を、西から「西三の丸」、「西二の丸」、東から「東二の丸」が挿んだレイアウトとなっている。

見学コースは東西に登り口があるが、案内書に「大手筋」とある西側から本丸を目指すことにする。

 

平成元年に復元された、徳島城の表門とされる「鷲の門」。

 

内堀に架かる「下乗橋」を渡ると大手門の跡。

門の跡を入ると、左へ右へと直角に二度曲る「枡形」となっている。

 

「西三の丸」のふもとに築かれた、長い石垣。

白っぽく、ところどころ緑色がかった石が、きれいに横に並べたような布積みになっている。

 

本丸は山の頂上、急な石段を登っていく。

 

西三の丸を経て「西二の丸」へ。

 

二の丸からもう一段高いところが「本丸」となる。

サッカー場のように広い原っぱが拡がる。

構造物は何も残っていないが、奥座敷、武具櫓、馬具櫓、弓櫓などがあったそうだ。

 

来た時と反対に「東二の丸」から下ることにする。

本丸から一段下がった東二の丸には、三層三階建ての「天守」があったといわれる。

木々の間から徳島の市街地を望むことができる。

なお、本丸から一段下がったところに「天守」が築かれた城としては、三月に行った「津和野城」が記憶に新しい。

 

東二の丸を背に石段を下り、「表御殿庭園」へ向かう。

表御殿庭園は、枯山水あり、池あり、築山あり、見事な庭園であり1520坪の広さがあるという。

それでも、観光パンフには「決して規模は大きくありませんが・・・」と表現されている。

お殿様の御殿の庭にしては小さい方なのかもしれない。

 

徳島城の山城部分は、最高地点の本丸を挿むように西三の丸、西二の丸、東二の丸が配置されている。

複雑な構造ではなく、事前に案内図を見て頭に入れておくことができ、その通りの探索が出来た。

今回の百名城の旅は徳島城が最後になる。

初日の山城「千早城」の厳しい山登り(?)、二日目の平山城といえど坂のある「和歌山城」、そして「徳島城」の城山のアップダウン。

若くない者の足には、ちょっとこたえたが、楽しく観て歩いた三つの城であった。

 

 


日本百名城を巡る旅「和歌山城」

2025-05-18 | 旅行

和歌山城は、さすが御三家の城であり、広く、堂々たるお城であった。

今回巡ったコースは、「西の丸跡」をスタートし、城内のポイントを巡り「西の丸跡」に戻った。

ほぼ城内を一周したことになる。

 

西の丸跡から小高い山(丘?)の上にある天守を望む。

鉄筋コンクリートで再建された天守ではあるが、風格のある美しい姿である。

 

北東の角にある「一の橋」を渡り、「大手門」から入城。

まずここは、紀州のお殿様になったつもり。

 

「三の丸」を抜け、本丸に向かう「表坂」を登る。

古い石垣が見えてくる。

お城の石垣の積み方には、その積まれた時代により、野面積み・打ち込みはぎ・切込みはぎの違いがあるが、和歌山城にはそれぞれが残されているという。

 

表坂の石段を上ったところから見る「岡口門」。

江戸時代に建てられたものだといわれ、大手門は屋根だけだがこの門の上は櫓になっている(国の重文)。

 

さらに登っていくと「本丸跡」にたどり着く。

今は何も残っていないが、本丸から目の前に「天守閣」を見る絶好のビューポイントである。

 

「楠門」から「天守閣」に入る。

 

天守は展示館になっていて、興味深い歴史上の品々が展示されている。

三層の最上階から見下ろすと、二つの櫓と天守が多門櫓で繋がっている構造がよく分かる。

向こうには市街地が拡がり、さらにその向こうにはゆったりと紀ノ川が流れる。

 

「大天守」に連なる「小天守」。

大天守から、櫓、多門櫓をぐるっと一周して観て周ることができる。

 

天守から、帰りは「裏坂」をくだる。

 

坂を下り切って、内堀に架かる二の丸と西の丸とをつなぐ「御橋廊下」を渡る。

ここは、濠の中から発掘された礎石と、残っていた図面をもとに復元されたという。

ピカピカに磨き上げられた廊下は、もちろん靴を脱いで渡るが、廊下と言っても傾斜がありちょっと歩きにくい。

 

最後が「西の丸庭園」で、江戸時代初期に作られた庭園だという。

水、岩、樹木が斜面を利用して配置され、素晴らしい景観を生み出している。

猫の額とも言えないほどの狭いスペースに暮らしていると、この庭に見る非日常の景観はまさに夢のようである。

 

半日かけてじっくりと観て周った和歌山城である。

それでも、まだ見落としのポイントがあるに違いない。

先のある旅なので、ある時間が経つとそこを離れなければならないが、どの城跡でも、後ろ髪を引かれる思いにとらわれるのである。


日本百名城を巡る旅・大阪「千早城」

2025-05-17 | 旅行

今回の「日本百名城」を巡る旅は、一府二県(大阪・和歌山・徳島)にまたがり、おもしろい旅となった。

初日は楠木正成が南北朝時代に築いたとされる「千早城」。

新幹線の新大阪から地下鉄で「なんば」に出て、南海電鉄に乗り換え「河内長野」で下車、そこからバスで「金剛登山口」まで行く。

 

バス停のそばに千早城への入口がある。

いきなり急な石段が待ち受けていて、千早神社まで汗をかきながら30分ほど登ることになる。

 

一息入れたくなるころ、立派な「千早城跡」の石碑が立っているところに到着。

売店であろうか?、わずかな建物も見えるが人の気配はなく森閑としている。

 

四の丸から三の丸、さらに二の丸と続き、二の丸には「千早神社」がある。

神社の狛犬の台座に「本丸跡」の表示板が置かれていた。

本丸はこの神社の裏側にあったはずだが・・・?

 

立派な社殿に進む。

たった1000人ほどの兵が幕府の大軍を寄せ付けなかったという。

正成の「落ちない城」にあやかり厄除け・無事をお祈りした。

 

今回、神社参拝が目的ではなく、千早城の城跡を観に来たものとしては、いまひとつ物足りなさを感じていた。

少しは城の遺構らしきものも眼にしたいものだと周囲を見渡していた。

そこに、偶然、宝塚からきたという単独行の青年が下りてきた。

「他に見るべきところは無いか?」訊ねてみると、「石垣」があるので、せっかく遠いところまで来たのだから見ていくべきだという。

そのうえ、その場所まで案内してくれるというので、願ったり叶ったりである。

山の中の分かりにくいところにあり、見逃して帰るところだったのでその青年には大いに感謝している。

 

青年のあとに続き急な斜面をのぼると、平に整地されたように見える場所に出た。

ここが、当時、本丸があったところとも言われてるようである。

今は樹が茂り、説明されなければ全くそうは見えなくなっている。

 

さらにそこから急斜面を這い上がると、三方に石垣が積まれた場所があった。

そう広くはなく上は平になっているが、この石垣は何であったのだろうか?

どこかに説明パネルでも立っていないかと捜してみたが、見当たらなかった。

石垣には苔もなく、そう古くはないように見えるが、いつごろのものかその点も判らなかった。

 

30分ほどではあるが、キツイ登りであった。

千早城跡に行くには登山のような心構えが必要だと、なにかで読んだのだがその通りであった。