大野城跡は現在の大野城市、太宰府市、宇美町にまたがる四王子山(大野山、大城山)一帯に築かれていた。
資料には、築かれたのは西暦665年とあるから、その歴史は古い。
お会いした地元の方たちには、城跡というよりも、登山、ハイキング対象の山としてとらえている方が多かった。
トレッキングシューズでリュックを背負った山登りのスタイルの人が目についた。
山全体に広がる遺構を周るのは無理なので、「焼米ケ原」の周辺に絞って観ることにした。
散策マップを広げると、山の尾根伝いに、城壁ともいえる土塁がぐるりと周っている。
城門は何か所かあるが、これは城跡の南側にある「大宰府口城門の跡」。
土塁の間には、柱を載せた礎石が残っている。
大野城の中では最も大きな門であり、2階建ての楼門が立っていたと考えられている。
太宰府口城門の右側の土塁の上を歩いていくと、太宰府方面の眺望の良いところに出る。
土塁はさらに続いていて、はっきりと土塁だと判るその斜面には、夏草の中にきれいなアザミが咲いていた。
その土塁から少し奥に入ると「尾花礎石群」があり、建物が10棟建っていたのが分るようである。
ただ、落ち葉などに埋もれており、私にはすべてを確認することは出来なかった。
この礎石群の周辺は、炭化した「焼き米」が見つかるので「焼米ケ原」(やきごめがはら)と呼ばれているそうである。
地元の人との会話では、尾花礎石群というより焼米ケ原のほうが通りがよかった。
尾花礎石群からわずか離れたところに、よく整備された「増長天礎石群」がある。
ここははっきりと4棟の建物の礎石が確認でき、いずれも同じサイズの「倉」だったとのことである。
大野城には水を得るところがいくつか見つかっているそうだが、この「鏡池」もその一つ。
増長天礎石群のすぐ脇にあり、常に水がたまっていて枯れたことはないというのが不思議だ。
もともとは、もう一回りも二回りも大きかったのではないだろうか。
大野城跡の山を、タクシーの運転手さんは「砂の山」と表現されたが、確かに歩きにくい砂地の部分が多かった。
大宰府口から太宰府までは歩ける山道もあるといわれた。
但し、荒れていているようなので、迷子にあるのもイヤだったので帰りもタクシーとした。
その分時間を稼げたので、特別史跡「水城跡」を観る余裕ができた。