como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

篤姫 出直し学習会VOL30

2008-10-11 22:09:20 | Cafe de 大河
薩長同盟への道(1) マイウェイ・オブ・長州

えーっと、本編があまりにもショートカットしているので、その間長州で起こっていたことを、できるだけフォローしてみたいと思います。ここを押さえておかないと、大事な薩長同盟も、なんのためのもので、どう重大なのか、よくわからなくなりますのでね。

前回は、いちおう、幕府が苦し紛れに決めた「5月11日攘夷実行」というのを長州が実行し、下関で、アメリカ・オランダ・フランスの商船・軍艦を続けて砲撃する事件を起こしたところまで見ました。このときに、伊藤俊輔(のちの博文)ほかの5人の若者・長州ファイブが、イギリス留学に出発しています。

文久3年(1863) …攘夷実行、奇兵隊の誕生、暴走のはじまり

 6月5日、下関の外国船砲撃事件の報復に、フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号が下関を襲撃。前田海岸から長州藩領に上陸し、砲台を破壊、村を焼き払って去ります。
 外国海軍の破壊力を目の当たりにし、恐怖で金縛りになったのは、長州藩士も、庶民も同じでした。しかも、外国船の攻撃はこれで済むはずがない。まもなく、被害国が同盟を組んで長州に宣戦布告してくるのです。長州が焦土になるのは目に見えているのに、5月11日の攘夷実行に対し、天皇からは賞賛をいただいているので、いまさら「やめます」とはいえません。
 まずは長州の軍制をダイナミックに改革し、強力な軍組織をつくらなければなりません。といっても、旧来の家臣団ではまったく役にたたないことがわかった。どうする、誰がやる…ということで、浮上したのは当時25歳の高杉晋作でした。
 藩主から全権を委任された高杉は、下関の勤皇商人・白石正一郎をスポンサーに、士農工商の垣根をとっぱらった、まったく自由な義勇軍を立ち上げます。非常事態に即応するには、正兵ではなく奇兵をもってすべきである。ということで、忽然と誕生した日本初の自由市民義勇軍は「奇兵隊」と名づけられました。

8月18日 京都の長州藩は、その日とつぜん御所警護の任を解かれ、京都御所から追放されます。長州と親しかった三条実美はじめ7人の公卿たちも、いっせいに官位を剥奪され、所払いという過酷な計をうけました。長州に変わって薩摩藩・会津藩が御所警護をつとめ、長州人を京都から追い出して、以後入京を厳禁するという措置がとられます。
 どうしてこんなことになったのか。それは、長州がプロデュースしていた、天皇の大和行幸というイベントにありました。
 天皇が直接、大和(奈良県)にでかけ、神武天皇稜や春日大社で攘夷の必勝祈願を行い、天皇の攘夷親征を神々にお誓いするというパフォーマンスで、これで幕府が天皇の意に背いていることを世間に印象付けて、倒幕の気運を盛り上げようという狙いでした。が、当の天皇が困惑して迷惑がり、会津と薩摩にひそかに泣きついて長州の追い出しを頼んだというのが、8,18事件の真相なのです。
 こうして、京都から放り出された長州藩士の久坂玄瑞たちは、七人の公卿を守り、ホームの下関へと逃れていきます。これが世に言う「七卿落ち」。長州にとっては翌年の暴発に向けての導火線の端となる、屈辱の事件でした。
      
元治元年(1864) …蛤御門の変、馬関戦争、功山寺決起

3月 長州藩士・来島又兵衛49歳は、燃える男でした。兵を挙げて京都に進発し、会津・薩摩を討って天皇の長州に対する誤解を解かねばならぬと、ついに武装した義勇軍をまとめて三田尻に待機するにいたります。
 これを説得しにいった高杉晋作は、腰抜け呼ばわりされて逆切れしてしまい、勝手に藩を離れて京都にいってしまいます。これは脱藩とみなされる重罪で、帰国するとすぐ投獄され、大事なときに第一線を離れることになりました。
 
6月5日 京都で池田屋事件がおこります。京都に潜伏していた長州系の志士たちが、会合していた池田屋で新選組の襲撃を受け、殺されまくった事件で、会津系の新選組のこの暴力行為に長州の怒りは爆発。
 会津を京都からたたき出す! 主上に目をさましてもらう!! ということで殿様のゴーサインも出て、ついに福原越後、益田右衛門・国司信濃の三人の家老を総大将に、二千人の長州軍団が京都に攻めのぼる、戦国時代さながらの事態となりました。

7月19日 御所の蛤御門を破り、乱入した長州軍は、幕府・会津・薩摩の連合軍と激突、大乱戦になります。
 この戦闘のとばっちりで京都の町に火がつき、またたくまに燃え広がって、市街が焼け野原になる大災害となりましたが、御所は無傷で無事だったところから、どうやら放火の疑いが…。来島又兵衛や、カリスマ志士の久坂玄瑞もこの戦闘で壮烈な戦死を遂げます。

7月23日 御所にむけて発砲した長州は「朝敵」となり、朝廷から正式の追討命令が出ます。長州人は全国指名手配され、日本人全部を敵に回すことになりました。

8月5日 下関では、前年の砲撃事件で被害をうけた米・仏・蘭の三カ国に英を加えた四カ国が、連合艦隊を組んで襲来します。先頭は、つい先年の薩英戦争を闘ったばかりのイギリス海軍のキューパー提督と、旗艦ユーリアラス号。留学中のロンドンで事態を知り、舞い戻った井上聞多と伊藤俊輔が、必死の英会話で調停をこころみますが、藩の過激派と意見があわず、時間切れになって、四カ国は長州に爆撃を開始します。
 奇兵隊はじめ諸隊も奮戦しましたが、どうにもならず、3日間かけて下関の砲台は全滅。長州軍は白旗を掲げ、関門海峡のユーリアラス号上で講和談判となります。
 四カ国のねらいは、薩英戦争の時とおなじく、賠償金をふんだくることにあったのですが、長州は、これは幕府の約束した「攘夷実行」の命令に従ったものであるのだから、賠償は幕府に請求してくれと突っぱねて押し通し、ついにビタ1文も払わぬことで合意しました。この講和談判をしてのけたのは、偽名を使って家老に化けた高杉晋作でした。

9月25日 長州藩の急進派をリードしてきた政務座役の周布政之助が自殺します。
 長州追討令が出て以来、藩では、幕府に恭順するか、それとも徹底抗戦かで意見が真っ二つに割れます。京都と下関で同時に惨敗したばかりなので、急進派の立場は最悪。ついに、このような事態を招いた責任をとって周布が命を絶ち、急進派は完全に政権を奪われてしまったんですね。かわって藩を握ったのが、俗論派といわれる保守勢力です。旧松下村塾生ら急進勢力のグループは完全に居場所がなくなり、粛清を逃れて逃亡するようなことになります。高杉晋作も九州に亡命しました。

11月11日、幕府に恭順の意思表示をするため、蛤御門に兵を率いていった三人の家老が処刑されます。藩主と世子は自主的に蟄居し、藩政を退きます。
 この徹底恭順で、長州征伐の挙兵を準備していた幕府は腰砕け。様子を見よういうことで、長州征伐はいったん不戦解兵でおわりました。

11月下旬 突如、九州亡命から舞い戻った高杉晋作は、「俗論派を叩き斬って藩に正義を取り戻すのだ」と言い出します。
 そのために、自分の手塩にかけた奇兵隊をまとめようとしますが、すでに解散命令が出され、存続の道を探っていた奇兵隊は、高杉の過激な提案に引いてしまいます。軍監の山県狂介(のちの有朋)以下、だれも話にのりませんでした。

12月15日 高杉は、伊藤俊輔の預かっていた力士隊と遊撃隊など80人をまとめて挙兵します。
 三条実美ら5人(7人がふたり欠けたので)の公卿がいる長府・功山寺を訪れた高杉は、「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!」と見得を切ります。その日下関はすっぽりと雪に覆われて、寒夜に月が輝いていたそうで、舞台装置もせりふも冗談みたいにカッコよい、幕末劇の中でも最高にドラマチックな名場面です。
 わずか80人で決起した高杉は、下関で藩の軍艦を奪取。基地をつぎつぎに占領します。

慶応元年(1865) …庶民軍の勝利、龍馬登場、薩長連携の始動

1月 高杉のクーデター軍に、奇兵隊など諸隊もつぎつぎに合流。下関と萩の中間地点にある秋吉台周辺で、江戸時代の日本では画期的な事件「太田・絵堂の戦い」が起こります。藩の正規軍と庶民の義勇軍が激突し、庶民が武士を敗走させて圧勝したのでした。

こういう次第で、長州藩から保守勢力が一掃され、ふたたび討幕激派が藩政を握ります。したたかに生まれ変わった松下村塾系過激派は、蛤御門の変のあと但馬出石に潜伏していた桂小五郎を再び迎え、表向き幕府に恭順の態度を取りながら、裏では着々と討幕戦争の準備をはじめたのでした。

 長州では、蛤御門の変いらい薩摩に対しては恨み骨髄に達しており、藩士は下駄の裏に「薩賊」と書いて踏んで歩くほど憎んでいたのですが、その薩摩と提携の道を探り始めたのは、幕府の長州征伐軍に対抗するためでした。
 長州征伐令いらい、諸外国は幕府に気をつかって、長州との貿易厳禁を申し合わせていたのですね。外国と接触できない長州は、武装のための武器購入が思うようにいきません。
 そこで立ち上がったのが、誰あろう、ネゴシエーター坂本龍馬です。

 5月 龍馬の仲介で、西郷吉之助が桂小五郎に会うため、下関を訪れる段取りになります。が、西郷は約束をすっぽかし、桂を二週間以上下関で待たせたまま、バックレてしまいました。
 顔を潰された桂は怒髪天を衝き、もう薩摩なんか信用するものかと怒り狂います。龍馬は必死の調停で、ついに薩摩に約束破りのペナルティを課すことを承知させました。
 こうして、龍馬主催の亀山社中が、薩摩名義で、長州のために、長崎の武器商人グラバーから小銃7千丁と軍艦1隻を買い付けるという、ウルトラCが実現したのでした。

 ちなみに、慶応の「慶」という字は長州藩主・毛利慶親が、12代将軍徳川家慶から貰った偏諱であり、一連の事件のときに慶親はそれを捨てて「敬親」と改名しました。
「慶」に「応」というのは幕府に応じるという意味にも取れるので、改元されたあとも長州では独自に「元治」の年号を使い続け、「元治2年」「元治3年」とありえない記録がつづいていきます。
 長州で元治が続いている間にも、幕府の長州征伐軍は着々と準備を整えて、ついに将軍家茂が総指揮官として先頭にたち、江戸を出発することになります。
 この長州戦争の次第は、また次回にみてまいりましょう。


9 コメント

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おはようございます (ikasama4)
2008-10-12 05:06:17
特に奇兵隊は画期的だったらしく
諸藩では農民などを兵としていたとこはあったらしいですが

奇兵隊では民も兵隊として受け入れたらしいですからね。

それによって長州藩は身分による差別を撤廃する政策を
敷いたそうなんですが、それって

そもそも幕府が作った制度に楯突くという事で
それで幕府が長州を益々嫌う要因になったらしいですね。


そうそう、俗論派!
佐幕派を「俗論」と呼び
桂や高杉さんら改革派を「正義」派と呼んだってとこに
どうしても自分達に大義があるっていう名分を作りたかった
必死さがうかがえるようです(笑)
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おはようございます (吉子)
2008-10-12 09:22:39
いやぁ~、相変わらず庵主様、素晴らしい学習会です。
今回も、ものすごく勉強になりました。
ドラマであまり「歴史!」「激動の幕末!」を感じないからかしら…
私も記憶の遥か彼方、卒論で幕末を扱ったハズなんですが、すっかり頭に霞がかかってホコリもかぶっておりますゆえ(-_-;

そして「俗論派」、面白いですね。
高杉ってこんなに過激な人だったんですねー。今さらながら感嘆。
全く関係ありませんが、アニメ「銀魂」ってご存知ですか?
舞台が幕末の江戸みたいなパロディなんですが、微妙にもじられた設定や人名が非常に可笑しいです。
基本はコメディなんですが…また機会があればジャンプでも連載中ですよ♪

ああ、こんなところでジャンプの話しかできない己に恥じ入ります…(-_-;
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すみません (吉子)
2008-10-12 09:26:41
先ほどのコメント、一箇所誤りがございます。
(誤)機会があればジャンプでも

(正)機会があればご覧になってみて下さい。ジャンプでも

です。
失礼をばいたしました。
頭にホコリがかぶっているどころか、蜘蛛の巣までかかり始めたようでございます…
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維新戦争に向かう第一歩と高杉晋作の活躍 (MoTo)
2008-10-12 12:41:15
改めて見ると、1863~1865年の間に混沌としていた長州の情勢が攘夷から維新戦争への下地が出来ていく流れというものが分かりました。私も吉子様と同じくドラマではスルーされてしまいそうな所(現にスルーされた所もありますが)のフォローがされていて大変勉強になりました。

またこの時期における高杉晋作の活躍には劇的なものがありますね。桂小五郎(木戸孝允)は無論、伊藤博文や井上馨、山縣有朋といった明治の元勲達も頭角を出していますが、その中でも高杉は飛びぬけていたんだなと思う所がありました。風雲児と呼ばれているのも分かります。
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奇兵隊の意味するもの (庵主)
2008-10-12 21:27:33
>ikasama4さん

奇兵隊ほか長州の諸隊が画期的だったのは、庶民を徴兵するんではなく、自主的な応募で隊を編成したことでしょうね。
それだけに、気持ちの入り方も違ったのでしょうけど、武士以外の者が自主的に武装して、日本防衛に参加するというのは、それだけで、徳川幕府が導入した儒教的封建思想の否定なんですよね。

庶民の軍に攘夷戦争をさせるというのは、高杉流の、幕府政治に対する強烈なアンチ・テーゼだったと思います。それを許した藩主も、退路を絶ったというか、もう後へ引く気はなかったと思いますし。
このころ(元治元年)の長州の暴走というのは、いろんな足枷を切った勢いもあるみたいで、あらためて眺めてみると、この状況は日本史上に類を見ないくらいすごいなあ、いろんな意味で…と思います(笑)。
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動乱の時代は何処に? (庵主)
2008-10-12 21:34:45
吉子さん

>ドラマであまり「歴史!」「激動の幕末!」を感じないからかしら…

ですよね~(笑)。まあ、舞台が大奥だからしかたないですが、京都の現場サイドでも、あんまり動乱している感じがない…。先週の蛤御門のショボさにはびっくりしました。
いちおう、奈良岡さんが説明してくれるものの(笑)、やはり雰囲気が出ないと、なにが起こってるかわからないもんですね。

銀魂、ってよく耳にはするんですが、どういうものなのかまったく知らなかったです(最近まで、大昔ジャンプでやってた犬のマンガのことだと思ってた…マジで)。
でも、評判はよく聞くので、身近に中高生男子もいませんが、数十年ぶりに立ち読みでもしてみようかなあ。ブッ○オフで…。
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革命四期 (庵主)
2008-10-12 21:42:39
MoToさん

>桂小五郎(木戸孝允)は無論、伊藤博文や井上馨、山縣有朋といった明治の元勲達も頭角を出していますが、その中でも高杉は飛びぬけていたんだなと

司馬遼太郎さんのおっしゃるに、長州の革命は四期で完成していて、そのリレーが非常に上手くいったんですと。
種まきをした初代の一期が吉田松陰で、火をつけて燃え上がらせる二期の担当が高杉晋作。それを政治的な完成にもっていく三期の担当が、大村益次郎と木戸孝允。そして、革命からできた栄達の果実を味わった四期が、伊藤博文、井上馨、山県有朋…など。
司馬さんも感動してますが、各期のひとたちが、次にリレーするところでホントにスパッと死んでしまう。で、志だけ純化されて次に渡される。
こういう継承がきれいに繋がったところに、長州の成功があったんでしょうね。
でも、やっぱりドラマチックで面白いのは高杉主演の二期目ですよね。幕末を象徴するような名場面だと思います。
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薩摩・長州・フレンド! (SFurrow)
2008-10-13 13:52:36
同盟よりも「なおくんの英会話教室」のほうがインパクトが大きかったかなぁ…
いつもながら、「レポート」というよりも「体験記」みたいな学習会のあとの放送で、やや脱力中です。レビュー楽しみにしております~(入浴シーンなかったですねぇ。何故?)

10月4日から11月24日まで、明治神宮の宝物展示室で「明治天皇と維新の群像」展というのをやってて、坂本竜馬が朱筆で裏書している薩長同盟密約書も出るそうです(ふだんは宮内庁書陵部にあるらしい)。あと和宮の守り刀とか、薩摩から持ってきた西郷どんの軍服とか。
明治神宮はたまにお散歩しますが、そういえば宝物館は入ったことがないなぁ。
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なぜ英会話 (庵主)
2008-10-13 22:07:28
SFurrowさん

驚きましたね~、英会話(笑)。グラバーの「よくわからないけど」というセリフが笑えました。

>10月4日から11月24日まで、明治神宮の宝物展示室で「明治天皇と維新の群像」展

見たい!ぜひ見たいです!
でも…会期短いですねえ。行けるかなあ。なんとか時間を捻出して見に行きたいと思います。教えてくださってありがとうございます!
わたしも明治神宮の宝物殿は入ったことないですね。
というか、原宿に行くのなんて20年ぶりくらいかも…(遠い目)。
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