この学習会を立ち上げた一番の目的であります、「山梨県民として、いまさら人に聞けないことの出直し学習」を、コッソリやっていきたいと思います。手始めは、それこそ絶対人には聞けないこと、「御旗・楯無鎧(みはた・たてなしのよろい)って何?」です。
第2回放送から。勝千代がお父さんの信虎に、父上の馬を欲しいといいます。初陣に出るまでに馬を乗りこなせるようになっていたいからという勝千代に信虎は、お前は先祖伝来の「御旗・楯無鎧」を譲り受けることになるが、馬はダメだという。勝千代は、それらのものは家督を継げば自動的に継承するのだから今はいらない、馬がいいと言います。で、信虎が、お前に家督を譲るかどうかは俺がきめることだ、「御旗・楯無鎧」を要らないというなら弟に家督を譲るまでだなと言い放つ…。
父子の根深い確執の端緒となる出来事であります。
ここで取り沙汰された「御旗・楯無鎧」とは何なのか。それは武田氏の神器のようなものです。
御旗は、2メートル50四方の日の丸。日本の国旗とおなじ日の丸。楯無鎧は小桜葦威(こざくらいおどし)というデザインの、袖と兜つきで、矢や刀から守るのに楯も不要という、強力無双の意味ですね。。
どっちも、甲斐武田氏の祖をたどって源氏の源頼義が、後冷泉天皇から賜ったもので、その子の源義光(新羅三郎義光)に伝えられたのが1056年のことだそうです。そこから延々と血脈を下っていって、源氏から枝分かれした甲斐武田史の始祖につたわって、先祖代々、家の象徴として受け継がれてきたのでした。
旗と鎧といっても、実際に戦場で軍旗として使われたり、総大将が身にまとうことはありません。お館の敷地の奥深く、それ専用に建てられた社「御旗屋」のなかに安置され、祀られていました。武田家当主が必勝を祈るとか、大きな決断をするときに、御旗屋にこもって祈りを捧げたという、神聖無二の神器でした。
なので、だれでも気安く拝めるしろものではないのですが、存在だけは一人歩きして神格化されました。武田軍では国衆という農村兵団が、戦場で合唱した軍歌みたいなものが残っていて、それが「ミタ照覧 ミタ照覧」と連呼するんだそうですが、このミタというのが「御旗・楯無」の略語。このように、下々にまで神器の威光は浸透していたのですね。
そんな大事な大事な宝物ですから、武田家が滅亡したときも、主君は守れなくても家宝は命がけで守った者達がいました。
敵方の手に渡らないように隠し通された旗と鎧は、現在、御旗は甲州市塩山の雲峰寺、楯無鎧は同地の菅田天神社という、どっちも秘密のにおい漂うような、古いお寺や神社に収蔵されています。
楯無鎧がある菅田天神社は、甲斐府中の鬼門に当たるということで、もともとはここに楯無鎧が、鎮守として預けられていたという由緒。この地の守護だった於曽氏という一族が、鎧が武田家の屋敷内に移されたあともついていって、ずっと御旗屋番の役目を世襲していたそうです。いまでも、塩山上於曽・下於曽という地名はのこってますが、そういう由緒だったんですね。そうか。
現在、御旗は雲峰寺宝物殿で、楯無鎧(国宝)は菅田神社の宝物庫で見ることができるということで、これは見ないで死ねるか!
第2回放送から。勝千代がお父さんの信虎に、父上の馬を欲しいといいます。初陣に出るまでに馬を乗りこなせるようになっていたいからという勝千代に信虎は、お前は先祖伝来の「御旗・楯無鎧」を譲り受けることになるが、馬はダメだという。勝千代は、それらのものは家督を継げば自動的に継承するのだから今はいらない、馬がいいと言います。で、信虎が、お前に家督を譲るかどうかは俺がきめることだ、「御旗・楯無鎧」を要らないというなら弟に家督を譲るまでだなと言い放つ…。
父子の根深い確執の端緒となる出来事であります。
ここで取り沙汰された「御旗・楯無鎧」とは何なのか。それは武田氏の神器のようなものです。
御旗は、2メートル50四方の日の丸。日本の国旗とおなじ日の丸。楯無鎧は小桜葦威(こざくらいおどし)というデザインの、袖と兜つきで、矢や刀から守るのに楯も不要という、強力無双の意味ですね。。
どっちも、甲斐武田氏の祖をたどって源氏の源頼義が、後冷泉天皇から賜ったもので、その子の源義光(新羅三郎義光)に伝えられたのが1056年のことだそうです。そこから延々と血脈を下っていって、源氏から枝分かれした甲斐武田史の始祖につたわって、先祖代々、家の象徴として受け継がれてきたのでした。
旗と鎧といっても、実際に戦場で軍旗として使われたり、総大将が身にまとうことはありません。お館の敷地の奥深く、それ専用に建てられた社「御旗屋」のなかに安置され、祀られていました。武田家当主が必勝を祈るとか、大きな決断をするときに、御旗屋にこもって祈りを捧げたという、神聖無二の神器でした。
なので、だれでも気安く拝めるしろものではないのですが、存在だけは一人歩きして神格化されました。武田軍では国衆という農村兵団が、戦場で合唱した軍歌みたいなものが残っていて、それが「ミタ照覧 ミタ照覧」と連呼するんだそうですが、このミタというのが「御旗・楯無」の略語。このように、下々にまで神器の威光は浸透していたのですね。
そんな大事な大事な宝物ですから、武田家が滅亡したときも、主君は守れなくても家宝は命がけで守った者達がいました。
敵方の手に渡らないように隠し通された旗と鎧は、現在、御旗は甲州市塩山の雲峰寺、楯無鎧は同地の菅田天神社という、どっちも秘密のにおい漂うような、古いお寺や神社に収蔵されています。
楯無鎧がある菅田天神社は、甲斐府中の鬼門に当たるということで、もともとはここに楯無鎧が、鎮守として預けられていたという由緒。この地の守護だった於曽氏という一族が、鎧が武田家の屋敷内に移されたあともついていって、ずっと御旗屋番の役目を世襲していたそうです。いまでも、塩山上於曽・下於曽という地名はのこってますが、そういう由緒だったんですね。そうか。
現在、御旗は雲峰寺宝物殿で、楯無鎧(国宝)は菅田神社の宝物庫で見ることができるということで、これは見ないで死ねるか!
津川雅彦扮する信玄が、川中島合戦の前に、家臣とともに「御旗、盾無し、ご照覧あれ!」と、ちゃんと二礼・二拍手・一礼をしています。
ただ、御旗は白地じゃなく何故か黒地になってますけど、そこは演出でしょう。
この映画当時はボロクソでしたけどー、ラスト近くの信玄VS謙信(当時、政虎でしたっけ?)の一騎打ちのシーンは割と好きなんです。
馬上の謙信が、床几に座った信玄に襲い掛かり、信玄は軍配でそれを打ち払う、というのが史実に近いらしいですが、互いに馬上でせめぎ合うこの映画ならではのシーン、なかなか迫力ありました。なんと言っても、榎本謙信、カッコよかったですものね~~~。
因みに三船風林火山では、「軍配方式」でしたが。今回の大河はどちらでやってくれるのか、それもちょっと楽しみだったりしてます。
現存している『御旗』の写真でみるかぎり、地の色は黄色、もしくは金色みたいな色です。
ただし、これは長い年月を経て白絹地が変色したものと思われます。なにしろ平安時代のものですからね~。
そうそう、謙信が信玄の陣幕に単騎飛び込んで打ちかかり、軍配でガツンとうける信玄…とゆーのは、川中島のお約束のシーンですよね! 『天と地と』では馬上の一騎打ちだったのですか。迫力ありそうだなあ…。たしかあの映画は、中国だかの大平原で合戦シーンのロケをやったのですよね。当時話題になった記憶があります。
ただこの一騎打ちシーン、史実としてはどうなのか、ちょっと疑わしいものらしいですが、まあ、細かい事言わずお約束は踏襲したほうがいい。これは「信玄・謙信もの」における巌流島の戦いのようなものですから^^;。
Gacktがどんな形相で信玄の陣幕に飛び込んでくるのか、楽しみなような、怖いような。