como siempre 遊人庵的日常

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「篤姫」出直し学習会VOL20

2008-07-27 08:04:31 | Cafe de 大河
戊午の密勅とは何だ!

戊午(安政5年の干支・つちのえうま)の密勅
これについて説明するのは面倒くさく、話が込み入るのでショートカットしたいのは分かるのです。ですが、「水戸藩に密勅が下されました」のひとことだけでは、どうして問題なのか、なんでそれが安政の大獄の引鉄になるのか、なにも分からないので(溜息)、急遽、独自にレポートをつくることにいたしました。

以下、安政5(1858)年8月8日、幕府から水戸藩に下された問題の「密勅」について、関係するみなさんのいいぶんです。(以下日付はすべて安政5年)

① 孝明天皇のいいぶん

「朕としては、自分の代で国を開いておぞましい夷狄を受け入れるなどしたら、天照大神以来の皇統を汚すことにもなり、断じて受け入れることはできぬ。最初からそう言っており、一回もブレたことはないのである。堀田と幕府の担当者たちにも、夷狄と手を握るなど朕は許さぬから、将軍にそう申すが良いと伝えて江戸へ返した。
 てっきり将軍が侘びを入れてくるものと思っておったら、6月になって、幕府は朕の許可を無視して勝手に条約を結んだではないか。朕には手紙1通で事後報告である。バカにするにもほどがある、…ということで朕はキレた。6月28日の朝議で、大臣どもに『天皇なんかいる意味がないようだから退位する。そのほうらで、英明な器の大きい者をだれでも担いで天皇にするがよい』と言った。
 びっくりした大臣らは、泣いて朕に翻意をねがい(いい気味である)、とにかく、御三家の当主のだれかか、大老を京都に召しだし、勅許無視について釈明させると申した。
 ところが、これも幕府は無視しおったのである。御三家・大老はダメ、老中をよこすと言ってきたのもバカにした話であるが、これがまたいつまで待っても来ぬのである。朕は激怒した。怒りのあまり九条関白の頭を扇で3回しばいたとウワサされたそうだが、そんなことはしていない。
 ともかく、朕は怒りと失望から天皇を辞める決心を固め、その旨の手紙を幕府に書いた。
あせった大臣らのとりなしで、8月7日のくそ暑い真夜中に宮中会議がひらかれ、手紙は以下のように改められた。『幕府の政治に厳重注意。御三家・御三卿・家門一同で一致団結してまじめに国難にあたれ。夷狄の侮りをうけてはならぬ』というものである。それを幕府と、御三家・家門を代表して水戸藩へ、1通ずつ、同文のものを作成したのである。どこが悪いというのか。
 なんでも、大臣らが、宮中会議の翌日8月8日に水戸へ、8月10日に幕府へと、2日の時差で水戸へ先に降したそうだ。単に大臣どもがルーズだったのであり、朕に他意はない。2日の時差のせいで、水戸への密勅降下だなどといわれ、大問題になったというが、不本意なことである。第一、内容からもわかるとおり、密勅などという怪しいものでは断じてないのである」

② 鷹司政通(前関白)、 九条尚忠(関白)、三条実万(前内大臣)、近衛忠熙(左大臣)たちのいいぶん

「公家と申すものはみんな懐具合が苦しくて、いつも経済的に不自由しておりました。正直、将軍の跡取りに誰がなろうと、国を開こうと閉じようとどうでもいいのですが、幕府から、また彦根や薩摩や福井その他もろもろから、営業が日参しては『通商条約勅許のため、主上にとりなしを宜しく』、あるいは『将軍継嗣には一橋慶喜(or徳川慶福)をよろしく』等といって、山吹色のお土産を置いていきます。そこはそれ、魚心あれば水心と申し、リップサービスのひとつもするというもの。近衛さん・三条さんは薩摩、鷹司さんは水戸、九条さんは彦根からと、それぞれ対立陣営から貰っていたんですけど、不都合があればすぐ旗色を変えてましたし、そのへんにあまり違いがあるとは思っていません。
 ところが、そのお土産の件で主上はいたくお怒り。話がこじれて、私らがオロオロしていたところに、6月17日、幕府が勅許を無視して通商条約を結んだ知らせです。大さわぎでした。
 ぶっちゃけ、私ら、勅許勅許勅許…と幕府がうるさく言ってくるのは迷惑でした。ほんとうに主上が勅許を出したりしたら、開国は朝廷の責任ということになるんですもん。私らそんな責任負うことに慣れていません。
 そのうち主上がマジギレし、『退位する。あとは勝手にやれ』とおっしゃるもので、本当に困りました。退位なんかされたら、宙に浮いてる条約勅許やら、お金貰った手前私らが責任とらなきゃなりません。そんなことには対処できません。
 あまりに困ったので、そのころよく公家邸に出入りしていた浪人学者に相談をしました。梅田雲浜という者、ほかにも、柳川星厳とか、頼三樹三郎という者も居たと思います。この連中は尊皇攘夷を唱える学者たちで、薩摩からきて京都を飛び回っていた西郷吉之助日下部伊三次、それに公家に顔の広い清水寺の坊主の月照なんかも結びついていたのですね。この者たちが、勅許を無視した井伊の排斥を、公卿の家をまわってしきりに説いていたので、こういう連中も使いようとひらめきました。私ら、この学者たちに知恵を借り、主上のお怒りをしずめ、幕府を恐れ入らせる『勅諚』の下書きをさせたのでした。
 内容は、全然当たり障りのないものです。3月に堀田老中にもたせた勅答とおなじです。幕府の態度を非難し、御三家・御三卿・一門みな団結して攘夷にあたるようにというものです。8月7日の深夜の会議で決議し、幕府あてと水戸あてと2通作成しました。どこが悪いというのでしょう。
 ただ、これを作成したとき九条さんは仮病で会議をサボりました。最終責任を負いたくなかったからです。責任っていったって、私らの誰もこの件の責任者なんかじゃありません
 問題は、この2通の勅諚を、2日の時差で水戸へ先に下るよう細工した者が居たことです。
 たぶん、幕府からリベートをもらいながら責任逃れする九条さんに、誰かが嫌がらせでもしようとしたんじゃないでしょうか。
 結局そのせいで、べつに罪も内容もないこの勅諚が『戊午の密勅』などと呼ばれ、私らまでが井伊に責められて地位を追われるハメになったのは、心外としかいいようがありません。


③井伊掃部頭家来・長野義言のいいぶん

「8月8日に、水戸の京都留守居役が御所に召され、主上の勅諚を手渡されたのを、私は3日後の8月11日になって知りました。その前日の8月10日に、幕府宛の勅諚もくだって、主・井伊掃部頭のもとにむかい、すでに東海道を東下中でした。
 私はそのころ、個人的な人脈をたどって前関白の九条尚忠さまに深く食い込み、栄養費をあたえては自在に操っていました。前関白は、主上の出す文書類を事前に下見する特別な地位にあったので、この人を操るというのは朝廷を自在に操るのと同じこと。ひいては京都朝廷と、日本を闇から操っていたことになるのです。ふはははは。当時私は、『京の長野大老』などと仇名されていました。主・掃部頭も、この点ではわたしには頭が上がらぬのでした。
 水戸と幕府へ勅諚が降り、しかも2日の時差をつけて水戸へ先に行った、これを事前にキャッチできず見逃したのは、私にとって失脚につながる大失態でした。
 せっかく、彦根で埋もれていた時代から井伊直弼に尽くし、利用し、築き上げた今の地位がパーとなります。どうしたらいいのだ。なんとか、江戸の掃部頭が勅諚を受け取る前に、私の顔が立つ適切な申し開きをしなければ。
 私は、直ちに至急便を江戸に送りました。掃部頭の側近の、宇津木六之丞あてです。『主上の周りは水戸斉昭にたらし込まれた謀臣どもが取り巻いており、世間知らずの主上をお騙し申し上げる。このたびの水戸への勅諚は『密勅』だ。斉昭が遠隔操作した、恐れいったる大陰謀なのだ』と。
…えっ?いえいえ、話を捏造したわけじゃありません。勅諚降下をちょっと大げさめに、陰謀って話にすり変えて、事後報告のまぬけさを粉飾しようとしただけです。だいたい、あたらずとも遠からずです。どこが悪いのでしょう。
 もちろん私の報告は、宇津木から主・掃部頭に上げられ、怒り心頭に発した掃部頭の指揮による『安政の大獄』がはじまるのですが…。まあ、おかげで、幕府に仇なす連中を、京都から大掃除できたのは、そう悪いことではなかったとは思っています。恨みがこうじて掃部頭が桜田門外で殺害され、私にも悲惨な末路がまっているまでは、考えなかったのですけどね」


そして…「戊午の密勅」のゆくえ

さて、そういうわけで孝明天皇が2通作成した勅諚は、反幕府・攘夷派の公卿の操作によって2日の時差をつけて降りました。
 水戸藩京都留守居役・鵜飼吉佐衛門が御所に呼ばれたのが8月8日(奇しくも13代将軍発喪の日)。 京都町奉行の大久保忠寛(一翁)が呼ばれたのは8月10日。このときすでに勅諚は、写しも作成されたうえで、鵜飼の息子の鵜飼幸吉と、もと水戸藩士で薩摩藩に転職した日下部伊三次がわけて持ち、東海道と中仙道にわかれて江戸の水戸藩邸にむかっていました。
 実際、水戸あての勅諚には別紙の「添書」というものが付いており、「今回のことはとくに水戸中納言にお願いするものなので、くれぐれも宜しく」という趣旨の念押しがされてました。これも別に、そんな大げさな内容のものじゃないのですが…。それでも、幕府のアタマを飛び越えて、朝廷が大名に直接「特にお願いする」となにか言うのが異例といえば異例のことです。
 天皇からの直接の通信を受けた水戸藩では、若い藩士たちが「これで水戸藩は天皇の直兵、攘夷の魁だ!」と意気をあげます。天皇のひとことは、末端にいくとそのくらいインパクトはあったのです。
 さらに、江戸の井伊大老は、長野義言の歪んだリークで疑心暗鬼になって、この勅諚は幕府転覆の陰謀だと信じ込んでいたので、勅諚は、本来の趣旨とは別のストーリーを背負って一人歩きしはじめたのでした。すなわち、幕府転覆の陰謀をたくらむ水戸斉昭と、日本の平和を守る井伊直弼との直接対決………という。

 そしてこの大さわぎの安政5年から、水戸密勅が引鉄となって「安政の大獄」がはじまるのでありますが、それはまた次回。

つづきます。


2 コメント

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こんにちはです (ikasama4)
2008-07-28 13:58:01
それぞれにはそれぞれの立場での「言い分」ってのが
あるみたいですね。

水戸藩の動きを見るに
朝廷が水戸藩を調略していた風な感じはありますからね。


ただ、なんとなくこの幕府の朝廷との争いが
『太平記』と重なる気がするんですよね。

というか、自らの状況とを重ねていた気がしますね。


まぁ何にせよ
どんな大義名分があるにしろ結局は
朝廷(天皇さん)は幕府よりも上にありながら
実質上は幕府の命に従わざるを得ない状況が
気に入らないんでしょうね。

何人かは保身に走ったみたいですけど(笑)
返信する
孝明天皇。 (庵主)
2008-07-28 23:17:23
ikasama4さん

>水戸藩の動きを見るに、朝廷が水戸藩を調略していた風な感じはありますからね

そうですね。水戸学の尊王攘夷論を朝廷がヨイショしていたというか、朝廷への恋情をかきたてるふうに、操作していた節はありますよね。
それが幕末に思わぬ実を結び…(笑)。

>ただ、なんとなくこの幕府の朝廷との争いが
『太平記』と重なる気がするんですよね。

>というか、自らの状況とを重ねていた気がしますね。

天皇はずっと、後水尾天皇のころから、江戸時代つうじて、自分を悲劇の歴史の人と思って、幕府にはいっぱい不満があったんでしょうけど。
そういうの口や態度で表現できる時代が来て、なんとなく嬉々としていた感じもしますよね、孝明天皇。
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