como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

「篤姫」出直し学習会VOL8

2008-02-23 22:06:21 | Cafe de 大河
ものいう殿様たち(2)

殿様ファイルの続きです。あなたはどのお方が好みかしら(おい)。
年の順のはずでしたが、うっかりミス、前回の№03伊達宗城より下の№04のお方のほうが年上でした。失礼しました。

殿様№04 鍋島直正(閑叟)

なべしま・なおまさ/かんそう (1814-1871)
ご身分/佐賀藩(35.7万石) 鍋島家 第10代藩主
ご出身/佐賀藩第9代藩主・鍋島斉直の長男
ご性格/オタク気質のスーパー理系 バカは大嫌い
 
 この方お母様が鳥取藩主・池田治道の姫様なので、薩摩の島津斉彬様とは母方のイトコにあたるんですね。
 佐賀藩・鍋島家は、代々長崎警備という役職をつとめてきた家柄。長崎経由で海外の情報や、ヨーロッパの品々などもいち早く入ってきます。
 ただ、長崎奉行は、現代のどこかの省庁のように、外に情報が開示されないので役人が腐敗しやすいのですね。直参の中では、長崎にいくと何もしなくてもひと財産できるといわれるくらい、オイシイ役職。そんなですからスポンサーの佐賀の負担は甚大で、長年長崎を担当しているうち、藩庫は♪マジで~金がねえ~~、という深刻な状態になってしまいました。
 この方は17歳で藩主になり、他の殿様がたのように、いい年まで部屋住みだったというような屈折は経験してません。しかし、新藩主がはじめてのお国入りで江戸を出発しようとしたとき、借金を踏み倒されると誤解した江戸の商人たちに藩邸を囲まれ、行列が発進できなくなるという事件がありました。大名としてこれは超恥ずかしいことで、その屈辱はプライドの高い直正さまの心に深く刻まれました。

 お国入りした直正さまは、超緊縮財政や農地改革、物産の振興など、バリバリ藩政改革しました。この方はやることが極端で、役付きの家来を片っ端からリストラし、身分は関係なく有能な人間を登用するという、徹底的な能力主義に切り替えました。そうして佐賀藩を倒産の危機から救い、以後、カリスマ殿様として君臨します。
 佐賀といえば武士道のバイブル「葉隠」ですが、ああいう非合理的な前近代的思想は忘れてよろしい。だいじなのは偏差値である、ということで(?)、藩校・弘道館の生徒はテスト漬け。みんな命けずって勉強しました。成績が悪いとどんなに家柄がよくてもリストラされるので、そりゃあ必死です。
 このとき弘道館から出た人材には、早稲田大学の創始者・大隈重信がいますが、この人は終生、佐賀藩校の偏差値主義を憎んでいたそうです。

 佐賀という土地柄もあって、この殿様も洋物大好き。といっても食べ物とかチャラチャラしたものには興味なく、武器・兵器一辺倒です。嘉永六年にペリーが来た頃には、日本で始めての反射炉を完成させ、大砲・鉄砲を製作できる体勢がととのい、けっこう本格的な洋式軍制をはじめていたという凄い殿様です。
 狙いはもちろん、欧米列強から日本を守る、これです。長年の長崎警備の経験から、国防意識だけは突出していました。そのせいで、開国or攘夷と、公武合体と、便乗した自分の権力欲が隠せないほかの殿様が、もうバカにみえてしかたないわけです。殿様たちの裏政界からは一線を画し、佐賀は佐賀だけでやりますからと政治活動からは手を引いてしまった直正さまでした。
 そんな殿様が藩内の秀才を選りすぐり、エリートたちが過労死するほど打ち込んだのが、当時最新兵器だったアームストロング砲でした。今の感覚では大陸間弾道ミサイル?くらいのインパクトのある、脅威的な兵器です。これを密かに自主製作した佐賀藩は、やがて迎えた武力倒幕の時代に、ある意味最強のカードを持つことになるのです。…


殿様№05 山内豊信(容堂)

やまのうち・とよのぶ/ようどう(1827-1872)
ご身分/土佐藩(20.2万石)山内家 15代藩主
ご出身/山内家連枝 山内南家当主・山内豊著の長男
ご性格/やんちゃ、酒乱、トラブルメーカー

 この方のご先祖が、2年前の大河ドラマの主人公・山内一豊です。一豊から数えて15代目の土佐藩主になった山内豊信は、山内家の嫡流ではなくて、藩主家の連枝、つまり分家のひとつの息子として生まれました。それも側室のお子。生家の山内南家は分家の中でも格が低く、藩の役職につくこともありません。
 普通だったらこういう人に藩主のお鉢が回ってくるなんてまずないのですが、14代藩主豊熙が急死。子がなかったので弟の豊惇がついで、襲封のお礼参りに出発した江戸でこれまたポックリ急死。適当な跡継ぎがなく、山内家は断絶の危機に瀕しました。
 すぐに跡継ぎを立てないと改易されて、土佐を失ってしまうので、焦った家臣があわてて目をつけたのが、分家の側室腹の若様・豊信22歳。海のものとも山のものとも分かりませんが、とにかく藩主にしなきゃしゃあない。江戸表で、豊惇がまだ生きているように繕って時間を稼ぎ、豊信が藩主になる段取りを根回ししてくれたのは、亡くなった豊熙公の奥方の兄である薩摩の島津斉彬様、そしていつも親切な宇和島藩主の伊達宗城様でした。

 そんなわけで、バタバタッと土佐20万石の藩主になった豊信さま。ふつう大名のお子様は江戸で育って、藩主になってはじめてお国入りするのですが、このひとは藩主になるまで土佐を出たことありません。大名の帝王学も受けていませんし、当然ながら江戸の殿様社交界では独特、というかほとんど珍獣のような存在です。
 豊信が無二のブレーンとして側に置いたのは、家老たちではなくて、自ら抜擢した藩士の吉田東洋。この人とがっちり協力して、藩政改革を大胆に進めました。海軍を整備したり、貿易拡大、人材育成のため藩校・改成館の拡充など、後年土佐が薩長に伍して維新戦争を勝ち抜く素地は、豊信と東洋のふたりでみんな作ったことになります。
 また、歯に衣着せぬ豊信は、前述の島津・伊達、越前の松平などと一緒に将軍家の継嗣問題に意見を述べるようになり、14代将軍には一橋家の慶喜をと強く主張して大老・井伊直弼と対立。安政の大獄で一連の殿様たちと連座して謹慎処分となり、藩主の座も返上して、以後、容堂と名乗りました。
 ちょっとふざけたところもある人で、別名・鯨海酔候なんてのもあります。このかた、お育ちのよい殿様には珍しく、大酒のみで酒乱の気もあったのです。

 こんな感じで客気もあり、尊王の志を持ち、幕府から処分されて啖呵を切って土佐に帰ったという不良殿様・容堂は、土佐だけでなく全国の過激派勤皇志士に、「オレらの殿様」と祭り上げられてしまいます。ご本人の意思とはまったく関係なく。
 殿様ご本人には倒幕の気なんてサラサラありません。藩祖山内一豊さまが徳川家から被ったご恩、これが土佐藩主代々の胸には刻まれております。そんなせいで、この殿様は、口では勤皇、心はバリバリの佐幕という、非常に厄介な存在になって、幕末シーンに立ちはだかることになるのですね。
 そんな折も折、大事なブレーンの吉田東洋が、土佐勤皇党の過激な輩に暗殺されてしまいます。
 ついにキレた容堂さまは、勤皇?ふざけんな!と怒り狂って、土佐勤皇党のリーダー武市瑞山を捕らえて処刑。以後、勤皇党には大弾圧をもってのぞみました。
 弾圧された藩士連中は大量脱藩し、長州などを頼り、ここに世にも危険な自爆テロ派の倒幕グループが生まれたわけで、そういう点でこの殿様は維新に貢献していると言えるかもしれないですが、この人の喜悲劇は、ご本人幕府をどうにかしたり、まして倒すなんてことはまったく考えてないということした。
 そして、足元の土佐の郷士という末端階級に、混乱する幕末を救う男・坂本龍馬がいることを、殿様の身で知らなかったし、死ぬまでついにその名を記憶することは無かったのでした。…。


殿様№06 松平慶永(春嶽)

まつだいら・よしなが/しゅんがく(1828-1890)
ご身分/福井藩(32万石)松平家 第14代藩主
ご出身/御三卿・田安徳川家第3代当主・田安斉匡の8男
ご性格/温和 聡明 勉強熱心

 かつては戦国の雄・柴田勝家がおさめた越前北庄。福井は、徳川家康の次男が入封してより、代々徳川家の親戚として別格扱いされた大名家のひとつです。
 そんな福井藩に14代藩主として縁組したのは、これも飛びきり毛並みのよろしい、御三卿・田安徳川家の8男で、将軍(11代家斉)の甥にあたる慶永さま。御年11歳でした。
 松平慶永は、一連の殿様たちのなかでも一番若く、生まれも育ちもめちゃくちゃ良い。ふつうならボーッとセレブ大名の一生をまっとうするべき方です。そういう人が、先に述べてきたひと癖あるお殿様たちに伍して、堂々と国政に口を挟むようになったのは、ひとえに、この人の天性の聡明さゆえでありました。
 
 このかた、上の№05の人とはなにもかも真逆と思ってよいですが、唯一共通しているのが、自ら選んだ有能なブレーンを大切に使い、効率よく大胆に藩政改革したことですね。殿様のブレーンとして抜擢されたのが、肥後熊本から招いた政治学者の横井小楠、そして若き橋本左内由利公正ら選り抜きの秀才でした。
 当時抜群の学識の持ち主・横井小楠から謙虚に学んだ慶永さま。福井の藩政改革にとりくみ、財政再建、洋式軍備の導入、藩校の拡充などおこない、ほかにも種痘の普及に援助をするなど公衆衛生にも功績のあった偉い殿様です。敏腕会計係の由利公正や、他藩の著名人と多く交わって斬新な政治思想を持ち込む橋本左内は、殿様の貴重な右腕でした。どちらもそんなに高い身分の出ではないのも、殿様の人を見る目のすぐれたところです。
 のちに、由利公正をつうじて土佐の坂本龍馬と面談し、勝海舟に紹介状を書いてあげた縁で龍馬が飛躍するきっかけをつくった…ということでも有名です。

 師と仰ぐ小楠や、秀才の橋本左内の影響もあって、憂国の志に目覚めた殿様は、江戸政界でもすぐれた論客として才能を発揮するようになります。
 一連のものいう殿様たちのなかでは一番若いのですが、田安徳川家出身の毛並みの良さと、聡明なご気性で一目おかれ、やがて薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信と「一橋派」を結成して、14代将軍に一橋家の慶喜を強力にプッシュ。これがいわゆる、幕末の四賢候です。
 しかし、四賢候は大老・井伊直弼と激しく対立。慶永さまも安政の大獄の余波で、他の殿様たちと同様に強制隠居、謹慎処分となってしまいます。
 しかも、大切なブレーンの橋本左内を井伊に処刑されてしまったのでした。その落ち込みで二度と浮上できないかと思われましたが、間もなく、桜田門外の変で井伊が死ぬと、慶永あらため松平春嶽には、再び返り咲きの春がやってきたのでした。…


 殿様たちのプロフィール、だいたい安政の大獄前後くらいまででまとめてみました。
 お話の進行にしたがって、様子見て随時続編をつくりますね。


8 コメント

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門閥制度か偏差値主義か (SFurrow)
2008-02-24 08:00:45
殿様ファイル第二弾またまた勉強になりました!
幕末四賢侯、山内容堂(かつがれただけだから)や斉彬(幕末動乱が本格的になる前に死んじゃったから)を除いて、代わりに鍋島閑叟を入れる説もありますよね。政治的な動きで見たこの四賢侯が一番定番なのかな?説によっては島津久光まで入っていたり(驚)

門閥制度を廃そうとすれば点数主義に走らざるをえず・・・というのは、21世紀になってなお日本の解決できてない問題だと思いますが、私学の雄といわれる2校の祖が、それぞれを「親の仇」と思っていたというのはとても面白いですね。

薩摩藩邸散歩(というか徘徊)さっそくご覧頂き有難うございました。西郷山公園は旧邸宅はもう無いので、そこだけでは物足りないと思いますが、花どきの目黒川と合わせて、目黒不動や祐天寺など是非おすすめです。
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こんばんはです (ikasama4)
2008-02-24 19:25:36
第二弾もやはり面白いですね。
これらの藩主達に共通してるのは
諸外国の文化に触れた事があるってとこみたいですね。

でもって、そういう藩主が結構
西国に多いのも面白いですね。

時代を動かすきっかけとなった藩というのは
その藩の場所も大いに関係があったのかもしれませんね。

それにしても改めてこうしてみると
山内のボンボンは碌な殿様じゃないみたいですね。


今でも、高知の人に山内家が嫌われているのは
正直なとこ、この御方のせいが大半を占めているような
気がしてきますね。

こういうのを知ると血筋も大事なのかなって気がしてきます(苦笑)


にしても偏差値主義かぁ。
結局、それを嫌悪するっていうのは
人の才能・実力を数字で測ろうとしたという事なのかもしれないですね。

人の才能・実力は数字で片付けられる程
簡単なものじゃないですからね。
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忘却の彼方 (なな)
2008-02-25 17:29:59
>>そしていつも親切な宇和島藩主の伊達宗城様…に(爆)

そういえばワタクシ…、
中学時代、訳もわからずに
橋本左内の「啓発録」を暗記させられ、
きれいさっぱり忘れてしまった…事を思い出しました。
春嶽さんも一緒に習った筈ですが…
そ、そうか、立派なヒトだったんデスね。
中学教師がテンション上がる筈だ。
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早慶戦 (庵主)
2008-02-25 22:19:04
>SFurrowさん

>幕末四賢候

これは諸説ありますよね。いわゆる「開明君主」=薩摩(斉彬)、宇和島、福井、佐賀、それとも「幕末最終段階で参与会議に参加した人」=薩摩(久光)、宇和島、福井、土佐、とか。
考え方は何通りかあるみたいですが、伊達様と春嶽候は絶対入っているんですよね。これも人徳ってもんでしょうか(笑)。

>私学の雄といわれる2校の祖が、それぞれを「親の仇」と思っていた

ホント、そうですね(笑)。福沢諭吉も門閥を憎んでいたんですよね。まあ、成績順に机の配置もきまるという適塾で塾頭になった人だから、点数主義には精通していたでしょうけど(笑)
開祖の精神は、今の両大学にどのくらい反映されているでしょうか?
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西国の大名たち (庵主)
2008-02-25 22:26:54
>ikasama4さん

>そういう藩主が西国に多い

ホント、地理的条件もあるし。
あと、関が原の遺恨が君臣ともに微妙に残っているとか。土佐のように、山内家が入封したときの長曽我部家臣との確執が幕末まで持ち越されているとか。
徳川家への微妙な感情が残っている藩が西国には多くて、それもひとつの原因だったかもしれないですね。

>今でも、高知の人に山内家が嫌われているのは

やっぱり、そうなんですか。
正直、龍馬は誇りだろうけど、山内一豊とか、容堂のことはどうおもっているのかなと、そこらへんはよくわかんなかったのです。
地元感情というのは複雑ですよね。よその県の者には、ちょっと想像できないものがあります。
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啓発録? (庵主)
2008-02-25 22:35:31
>ななさん

中学時代、訳もわからずに橋本左内の「啓発録」を暗記させられ

え…(汗)すご。
それは、たしか左内が15歳かそこらで書いた立志の書ですよね。
内容はよく知らないですが…。でも、対象年齢的には中学生むきの啓発教材かもしれない。しかし、それをチョイスする先生もキテますな

もしかして、地元?
それか、先生幕末ファンでいらしたんでしょか(笑)。
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てんこ盛り (taira)
2008-02-25 23:30:23
また遊びに来ました!
いや篤姫  面白いっす!
去年の「風林火山」のときは他局へと、、浮気ばっかしてましたが。
今年は毎週 日曜が来るのが楽しみです。
でも、本来 私は 最近のお子ちゃまランチ大河には大いに不満で、かつて子供時代に血沸き肉踊った 本格大河を願ってやまなかったのです。
その意味では、去年は どんぴしゃりだったのですが いかんせん地味過ぎ、女気なさすぎ、真面目過ぎなかんじが段々と遠のいてしまいました。

しかるに「篤姫」、、、どちらかというと本格大河より子ちゃまランチ大河な感じもするのですが、役者が長塚さん、高橋さんはじめ はまり役なので見ざるを得ません。   長塚さんなんか「理想の上司」、それと水野美紀の父親役のときといい本当にこういう役やらすとうまいなぁ~と思ったりします。
それと脚本がお上手ですね、、、   ふと大河というより青春時代劇のような甘酸っぱさ、さわやかさがあり何故だろうと思うと。
後で分かったのですが 脚本家の方 朝ドラを手がけた方なんですね。  しかも あおいちゃんも朝ドラ出身とか。
道理で、、、、
今までは あんみつ姫 お転婆日記   それが昨日はマイフェアレディ路線  田舎娘の変身
そして最期は 「無礼者  わらわを誰と心得る!」  これはケイト・ブランシェット「エリザベス」のラスト、、、鉄の女、バージン・クイン宣言の場面とかぶりました。
色んなエッセンスが詰まっていますね    
この後、、、どのようにマザーテレサ路線に着地さすか見ものです。
 
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エリザベス! (庵主)
2008-02-26 21:34:27
>tairaさん

>去年は どんぴしゃりだったのですが いかんせん地味過ぎ、女気なさすぎ、真面目過ぎなかんじが

ははは~、たしかにね。
でも、あの地味でむさ苦しいなか、キラリと光るお笑いに段々ハマッて、盛り上がりました、去年は。
今年は真逆のキラキラと綺麗な乙女チックな世界なんで、最初はホント戸惑った…というかたは多いようですね。ワタシもです。

でも、慣れってすごいですね。この頃では、去年の暑苦しい野郎ばかりの世界をほとんど忘れている自分がおります(笑)。

>ケイト・ブランシェット「エリザベス」のラスト

お、ご覧になったんですね。ワタシも見ました♪
強く・気高く・わたしは御台所
とかね(笑)。あのコピーでバッチリ篤姫と被るものがありますよね。「バージン」クィーン。
最後はあのように穏やかに仏のような顔をして、徳川家達をひきとるのでしょうか。
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