これは、いつかは取りあげなきゃいけないテーマでした。とはいえ盛り上がる大河ドラマの根幹をゆるがす大問題。いつ出すべきか躊躇していましたが、第12回放送で、武田晴信がアッケラカンと、「ワシの名を一字与える、晴幸と名乗るがよい」と大ネタを(後述)いきなり出しちゃったもんですからね。あら困った。とりあえず一回まとめておかなきゃ、と思ったわけです。「山本勘助は実在したか?」について。
しかし、その道の第一人者の方々が論争しても結論が出ないテーマについて、自論を述べるなんて恐れ入ったマネも出来ません。ですから、ここで自分なりの考察や推論の類は一切しないで、読みかじり・聞きかじりしたもの書き留めるだけにしたい思います。
というか勘助は実在したか?なんて論争があることじたい、全国区で認知されているのかワタシには客観的にわからないですが、以下のことも「いまさら常識じゃないの」と思われる向きもおられるかもしれません。その分には、どうぞ軽くスルーしていただければと思います。
山本勘助不在説とは。
明治維新以降、日本はさまざな学問分野を西欧から輸入しました。
歴史学はドイツの学派をお手本に近代歴史学を打ち立てていったのですが、これが、歴史というのはすべからく史実の実証の上にたつもので、明確な根拠の無いものは史実として認めないというものだったのですね。
で、この実証主義に基づいて、江戸時代まで史実として疑われていなかった『太平記』『義経記』『太閤記』『信長記』などの歴史物語が、すべて史料価値を認められなくなってしまったのです。
この流れで、戦国時代の武田家の戦記『甲陽軍鑑』も、史料としてほとんど否定されてしまいました。
*甲陽軍鑑(こうようぐんかん) 江戸時代初期に成立した軍学書。武田信玄・勝頼二代にわたる事跡、合戦、刑法、軍法、逸話などを記したもので、特に軍法の記述が中心。(中略)著者は信玄の忠臣高坂弾正昌信が(中略)記し、(中略)…ただし高坂の実録とするのは仮託でおそらく高坂の遺記の類をもとに(中略)江戸時代初期の軍学者小幡勘兵衛景憲が自分の見聞などを交えて集大成したものと推察される。(「山梨百科事典」より)
どうして史料価値が全否定されたかというと、作者が不詳であることと、もうひとつは書簡などの一次史料に照らして年代の間違いが非常に多いので、史料として信用できない=架空、という極論で進んでしまったようなのです。
で、山本勘助という人は、じつは「甲陽軍鑑」以外の史料にはまったく名前が見られない人物だったのですね。「軍鑑」のなかでは名軍師として生き生き活躍するものの、本人の書簡はもちろん、感状など、存在が裏付けられる史料は皆無でした。
江戸時代を通じて軍学のバイブルとされたし、庶民の人気も高かった勘助ですが、確実に存在した根拠はというとはなはだ曖昧で、結局『軍鑑』といっしょくたに架空の人物とほぼ断定されてしまい、以後歴史書からは姿を消して、読み物などの通俗分野でしか登場しない人になってしまったのでした。
創作物でもたとえば『天と地と』(海音寺潮五郎)なんかには登場しないし、勘助を登場させないのが歴史小説としても一種のスノビズム、みたいな時代が長かったということです。
勘助は実在した!
ところが、なんと皮肉というかドラマチックなことに、その『天と地と』がNHK大河ドラマとして放送されたときのことです。北海道に住む市河さんという人が、ドラマに出てくる信玄の花押をみて驚きました。物置に一山ある家伝の古文書のなかに、同じ花押を見たことある気がする、と。さっそく物置を探してみましたら、出てきたのは紛れも無い信玄の直筆書簡。そしてそこには、「詳しくは使者の『山本管助』に口頭でつたえさせるのでよろしく」という旨のことが書かれているではありませんか!
これが歴史学会を驚かせた「市河家文書」の発見です。昭和44年のことでした。
そもそもこの市河さんという人は、戦国時代の信濃国で信玄の傘下に入っていた「市河藤若」という小領主の子孫だったのでした。市河家の所領は、越後の長尾家との抗争の最前線にあって、常に緊迫していたのです。この重要ポイントに信玄からの書状と口伝えの「口上」を携え、つかわされたのが「山本管助」という人物だったのでした。
使者といってもこういう機密指令の使者は、そこらの使い走りのような者には絶対させないのです。同種の任務を飯富虎昌や高坂昌信や穴山信君など、錚々たる譜代の重鎮が勤めているほどなのです…ということで、市河家に遣わされた「山本管助」は、最低でも足軽隊将ではあったと類推できるのでした。
居たじゃないか、勘助! いや、「管助」だけど、読みが同じで字が適当なんてのは古文書では常識の範疇ですよ。
おなじように、当時の人は年号や年代なんてあまりシビアに考えていなかったはずで、高坂弾正だって本職の歴史記録者じゃないんだから年号の間違いなんかあって当たり前。つまり「甲陽軍鑑」に史料的価値がないなんて断じる理由はどこにもないのだ=勘助が不在だなんてとんでもない言いがかりだ!
…と、一枚の古文書によって、明治以来ずっと底値になっていた勘助株は、急上昇したわけなのでした。
そうはいっても…
ただ、市河家への使者が「山本管助」だったことが間違いなくても、これが『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助と同一人物なのかといったら、そこまでの説得力もないわけです。
まず『甲陽軍鑑』に照らしただけでも、巷間伝わる勘助像をゆるがす根本的な違いがあるということです。
○まず、勘助が「軍師」(戦場での参謀的役割)であったとは『軍鑑』には全く書いてない。そもそも武田家の軍制に軍師という職制そのものが無かった。
○そして諱(いみな)が「晴幸」だったというのも『軍鑑』のどこにも書いてありません。ドラマの12話で言及されたように(冒頭の大ネタ)、晴信の「晴」は将軍家から賜ったものなので、家臣に下げ渡すということは常識的にありえない。信玄の代の武田家親族・家臣の通字は全て「信」です(例外は勝頼ですが、この人は諏訪家の通字「頼」を持っています。これだけで勝頼の立ち位置がわかる。余談)。
この二点は、けっきょく江戸時代に流布した通俗版の「軍鑑」とか、近松の浄瑠璃「信州川中島合戦」のような二次創作から派生したものなので、こういうことで明治時代いらいの「架空説」を力づけてしまったりもしたわけです。
結局勘助ってなんだったのだろう
『甲陽軍鑑』には、優れた「兵法者」だった(軍師ではない)勘助が生き生きと描かれて、信玄と、まるで若きアレキサンダー大王とアリストテレスのような対話をとおし、戦とは、理想の為政者とは、について真剣な考察がなされています。
これを市河家への使者「山本管助」が、実際に行ったかもしれないし、行わなかったかもしれない。「山本管助」は三河牛窪出身の浪人で、諸国を経巡って兵法の奥義を見につけた異形の兵法者…であつたかもしれないし、なかったかもしれない。
そして、ひとつの可能性として高坂昌信が、若い勝頼になにかを訴えたいがために「山本勘助」を、実際にいた「管助」の名前を借りて創作した…という可能性もあるわけです。
お父さんの信玄が成した偉業とか、これから勝頼が歩んでいくべき道とかですね。
それも本当に謎、謎の世界なのですけども。
以上、主に「山本勘助」(平山優/講談社現代新書)を参考にまとめてみました。この本面白いですよ。ご興味がおありのむきはご一読ください。
この件についてはまたおりに触れ考察していきたいと思っています。ご教示を切にお待ちしております。
しかし、その道の第一人者の方々が論争しても結論が出ないテーマについて、自論を述べるなんて恐れ入ったマネも出来ません。ですから、ここで自分なりの考察や推論の類は一切しないで、読みかじり・聞きかじりしたもの書き留めるだけにしたい思います。
というか勘助は実在したか?なんて論争があることじたい、全国区で認知されているのかワタシには客観的にわからないですが、以下のことも「いまさら常識じゃないの」と思われる向きもおられるかもしれません。その分には、どうぞ軽くスルーしていただければと思います。
山本勘助不在説とは。
明治維新以降、日本はさまざな学問分野を西欧から輸入しました。
歴史学はドイツの学派をお手本に近代歴史学を打ち立てていったのですが、これが、歴史というのはすべからく史実の実証の上にたつもので、明確な根拠の無いものは史実として認めないというものだったのですね。
で、この実証主義に基づいて、江戸時代まで史実として疑われていなかった『太平記』『義経記』『太閤記』『信長記』などの歴史物語が、すべて史料価値を認められなくなってしまったのです。
この流れで、戦国時代の武田家の戦記『甲陽軍鑑』も、史料としてほとんど否定されてしまいました。
*甲陽軍鑑(こうようぐんかん) 江戸時代初期に成立した軍学書。武田信玄・勝頼二代にわたる事跡、合戦、刑法、軍法、逸話などを記したもので、特に軍法の記述が中心。(中略)著者は信玄の忠臣高坂弾正昌信が(中略)記し、(中略)…ただし高坂の実録とするのは仮託でおそらく高坂の遺記の類をもとに(中略)江戸時代初期の軍学者小幡勘兵衛景憲が自分の見聞などを交えて集大成したものと推察される。(「山梨百科事典」より)
どうして史料価値が全否定されたかというと、作者が不詳であることと、もうひとつは書簡などの一次史料に照らして年代の間違いが非常に多いので、史料として信用できない=架空、という極論で進んでしまったようなのです。
で、山本勘助という人は、じつは「甲陽軍鑑」以外の史料にはまったく名前が見られない人物だったのですね。「軍鑑」のなかでは名軍師として生き生き活躍するものの、本人の書簡はもちろん、感状など、存在が裏付けられる史料は皆無でした。
江戸時代を通じて軍学のバイブルとされたし、庶民の人気も高かった勘助ですが、確実に存在した根拠はというとはなはだ曖昧で、結局『軍鑑』といっしょくたに架空の人物とほぼ断定されてしまい、以後歴史書からは姿を消して、読み物などの通俗分野でしか登場しない人になってしまったのでした。
創作物でもたとえば『天と地と』(海音寺潮五郎)なんかには登場しないし、勘助を登場させないのが歴史小説としても一種のスノビズム、みたいな時代が長かったということです。
勘助は実在した!
ところが、なんと皮肉というかドラマチックなことに、その『天と地と』がNHK大河ドラマとして放送されたときのことです。北海道に住む市河さんという人が、ドラマに出てくる信玄の花押をみて驚きました。物置に一山ある家伝の古文書のなかに、同じ花押を見たことある気がする、と。さっそく物置を探してみましたら、出てきたのは紛れも無い信玄の直筆書簡。そしてそこには、「詳しくは使者の『山本管助』に口頭でつたえさせるのでよろしく」という旨のことが書かれているではありませんか!
これが歴史学会を驚かせた「市河家文書」の発見です。昭和44年のことでした。
そもそもこの市河さんという人は、戦国時代の信濃国で信玄の傘下に入っていた「市河藤若」という小領主の子孫だったのでした。市河家の所領は、越後の長尾家との抗争の最前線にあって、常に緊迫していたのです。この重要ポイントに信玄からの書状と口伝えの「口上」を携え、つかわされたのが「山本管助」という人物だったのでした。
使者といってもこういう機密指令の使者は、そこらの使い走りのような者には絶対させないのです。同種の任務を飯富虎昌や高坂昌信や穴山信君など、錚々たる譜代の重鎮が勤めているほどなのです…ということで、市河家に遣わされた「山本管助」は、最低でも足軽隊将ではあったと類推できるのでした。
居たじゃないか、勘助! いや、「管助」だけど、読みが同じで字が適当なんてのは古文書では常識の範疇ですよ。
おなじように、当時の人は年号や年代なんてあまりシビアに考えていなかったはずで、高坂弾正だって本職の歴史記録者じゃないんだから年号の間違いなんかあって当たり前。つまり「甲陽軍鑑」に史料的価値がないなんて断じる理由はどこにもないのだ=勘助が不在だなんてとんでもない言いがかりだ!
…と、一枚の古文書によって、明治以来ずっと底値になっていた勘助株は、急上昇したわけなのでした。
そうはいっても…
ただ、市河家への使者が「山本管助」だったことが間違いなくても、これが『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助と同一人物なのかといったら、そこまでの説得力もないわけです。
まず『甲陽軍鑑』に照らしただけでも、巷間伝わる勘助像をゆるがす根本的な違いがあるということです。
○まず、勘助が「軍師」(戦場での参謀的役割)であったとは『軍鑑』には全く書いてない。そもそも武田家の軍制に軍師という職制そのものが無かった。
○そして諱(いみな)が「晴幸」だったというのも『軍鑑』のどこにも書いてありません。ドラマの12話で言及されたように(冒頭の大ネタ)、晴信の「晴」は将軍家から賜ったものなので、家臣に下げ渡すということは常識的にありえない。信玄の代の武田家親族・家臣の通字は全て「信」です(例外は勝頼ですが、この人は諏訪家の通字「頼」を持っています。これだけで勝頼の立ち位置がわかる。余談)。
この二点は、けっきょく江戸時代に流布した通俗版の「軍鑑」とか、近松の浄瑠璃「信州川中島合戦」のような二次創作から派生したものなので、こういうことで明治時代いらいの「架空説」を力づけてしまったりもしたわけです。
結局勘助ってなんだったのだろう
『甲陽軍鑑』には、優れた「兵法者」だった(軍師ではない)勘助が生き生きと描かれて、信玄と、まるで若きアレキサンダー大王とアリストテレスのような対話をとおし、戦とは、理想の為政者とは、について真剣な考察がなされています。
これを市河家への使者「山本管助」が、実際に行ったかもしれないし、行わなかったかもしれない。「山本管助」は三河牛窪出身の浪人で、諸国を経巡って兵法の奥義を見につけた異形の兵法者…であつたかもしれないし、なかったかもしれない。
そして、ひとつの可能性として高坂昌信が、若い勝頼になにかを訴えたいがために「山本勘助」を、実際にいた「管助」の名前を借りて創作した…という可能性もあるわけです。
お父さんの信玄が成した偉業とか、これから勝頼が歩んでいくべき道とかですね。
それも本当に謎、謎の世界なのですけども。
以上、主に「山本勘助」(平山優/講談社現代新書)を参考にまとめてみました。この本面白いですよ。ご興味がおありのむきはご一読ください。
この件についてはまたおりに触れ考察していきたいと思っています。ご教示を切にお待ちしております。
「山本勘助」については実在していた人物です。
三州(愛知県豊川市牛久保出身)浪人として諸国を行脚していたことも事実です。JR飯田線・牛久保駅から数分のところに生家があります。また豊橋市にも「愛知県・山本晴幸生誕地」と刻まれた大きな石碑が立っています。
生誕場所についてはこの2つがあり、どちらが真実なのかは未だに不明なところです。豊川市の方は実際に行ったことがあります。
「甲陽軍艦」は甲州流兵法書として、また武田家の栄枯盛衰を書き綴ったものと解釈しています。勝頼とその側近はボロクソに叩かれていますが…。
実際にこの時代は一武将が姓名を多く変えたり、戻したり、また別のものにしたりと解釈する側にとってはめんどくさいことになっています。
管理人さんが書かれたとおり、山本勘助は書物によっては山本菅助にもなっています。香坂弾正も高坂だったり、春日弾正にもなっています。もともと軍師というよりは、相談役、一武将、伝令将校としての役割が大きかったという学説をとる学者もいます。むしろこちらの方が正しい解釈なのかもしれません。今でいうところの策略担当武将が適切なのかもしれません。個人的な意見ですが、「軍師」「情報収集担当」という点ではむしろ真田幸隆の方が適切だったと思います。
最近では高白斎日記(村井)の方が信憑性は高いということが分かってきています。私は読んだことはありませんが、村上氏との攻防戦や川中島の合戦などの記載、武田信玄という人物の行動などはこちらの方がより明確だと言われているそうです。おそらくこの中にも山本勘助の記載もあることでしょう。
またこの件については、思い当たる点が見つかれば書かせていただきます。
ご無礼お許し下さいませ。
なおみさんのサイトでは過分なお褒めの言葉をいただいて、いやもう、お恥ずかしゅうございます(笑)。
山本勘助実在問題ですけど、本当に奥の深い問題なんだなあ…と、この記事アップ当時より今、さらに感慨を深くしております。
そう…山本勘助という人が実在したことと、「甲陽軍鑑」とそれを下敷きにした江戸時代の通俗軍記に登場する「山本勘助」が実在したかどうかということは、まったく別問題。
追求しだすと、『軍鑑』の信憑性に話がスライドしていくという、これはかなり壮大な謎なんだなあと。
なので、ワタシなんかがいろいろ考察したり推理することなんか出来ないんですけど、やっぱり、武田軍団に「山本勘助」という足軽大将(か何か)はいたけれど、放浪の天才軍師山本勘助は架空なのかなあと、漠然と思っております。
高白斎記。「駒井君」(笑)日記ですね。
ワタシも読んだことはないんですが、これが現在のところ武田氏研究の一級史料だそうなので、偉いなあ駒井君(笑)。
ただ、高白斎記は天文22年の、武田義信の元服で終わっているそうなので、川中島の勘助の活躍については、なんとも…。
この時点で終わっているということは、駒井政武も天文22年に昇天していると考えられるようなんですが、ドラマ内では生き残ってますね。しかも「そなただけは生き残れ!」とかお屋形様に激励されているし(笑)。