湯原修一の歓喜悦慶と聊かの慷慨憂愁, etc.

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♥♡ 「ダーウィン空襲」と「カウラ大脱走事件」(オーストラリア)

2016年02月19日 12時36分31秒 | 日常・その他
74年前(1942年)の今日(2月19日)の朝、
日本軍がポート・ダーウィンの海軍基地を攻撃しました。

  オーストラリアに対して行った最初で最大規模の空襲といわれています。
  航空母艦4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)から艦載機188機(242機(?))が発艦し、
  アメリカ海軍の駆逐艦「ピアリ」などを撃沈しました。
  相手側の犠牲者は243名、負傷者は350名であったそうです。
  一方の日本軍の犠牲者(戦死)は、
  撃墜された九九式艦上爆撃機1機に乗っていた2名の方です。
 
  同年2月27日のダーウィン空襲では、零戦1機がメルビル島に不時着し、
  この搭乗員「豊島一」一等飛行兵が同島の居留地にいた
  アボリジニに捕えられ、後にカウラ第12戦争捕虜収容所に収容されたそうです。
  オーストラリアでの日本兵捕虜第1号ということになっています。
  (豊島一さんは2月19日の空襲にも参加しています)

それから2年半後、まだ日豪戦争状態にあった1944年8月5日、
カウラにあった第12戦争捕虜収容所から日本兵が大脱走するという事件が起きています。

    脱走の契機となったのは「日本兵の分散収容計画」だったそうです。
    捕虜の収容者数が多くなり、日本兵を分散して収容することになりましたが、
    「死ぬときは一緒」と心に決めていた日本兵が、
    それを拒否して起こした事件だということです。
      ※「分散というのは口実で、実際は殺される」と
        勘違いして脱走したともいわれています。


捕虜収容所からの脱走事件としては史上最多の人数といわれています。
(日本人収容者数1,104名のうち500名以上が参加)
そして死者数235名(オーストラリア人監視員4名、日本兵231名)という悲劇に終わっています。
(一時的に300名程度が脱走に成功したが、後に拘束されています)

「カウラ事件」と呼ばれていますが、
このとき脱走開始の合図のラッパを吹いたのが「豊島一」さんです。
主導者とも言われていますが、この大脱走事件で死亡されています。
(戦闘詳報では戦死扱い(ダーウィン空爆のとき?))

  ちなみに、このとき「豊島一」さんが吹いたラッパは
  「オーストラリア戦争記念館」(*)に所蔵されているそうです。

  哀しい出来事ですが映画の題材にもなるような話で、
  カウラ事件については実際に何度も映画化されているようです。
  オーストラリアのテレビ映画「カウラブレイクアウト」には
  石田純一さんが日本人側の主役(林純二 役)で熱演されたそうです。

   * : 多くの国(特に戦勝国)には戦争記念館(博物館)のようなものがあります。
      第2次世界大戦を日本と同じ枢軸国側として戦って負けたドイツにもあります。
      日本には個々の物事に関する平和祈念館のようなものは多くありますが、
      戦争全体に関する通史(客観的視点でみた)を示す記念館・博物館が無いようです。
      戦争の総括ができていない(したくない?)ということなのでしょうか ・・・


  ※特殊潜航艇によるシドニー湾奇襲やカウラ事件など(豊島一さんの写真も)については
    「豪日研究プロジェクト」のウェブサイトにも話が載っています。
    (日本語のページへは、トップページにあるボタン[日本語]をクリック)
    「豪日研究プロジェクト」は、
     戦後50周年談話(声明)を発表された村山富市元首相の提案で始められた
    「平和友好交流計画」の一つで、
    「オーストラリア戦争記念館」に眠っていた資料などをもとに、
     先の太平洋戦争における日本とオーストラリアとの戦いなどについて
     研究されたものだそうです。
      ところで、戦後70周年談話(声明)を発表された安○首相は
      インフラ整備等のための金のバラまきはされましたが、
      それ以外に平和友好のための活動を何か提案されたのでしょうか?


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大脱走事件があったカウラには、脱走に加わった日本兵の方々が眠る墓地があるそうです。
海外にある世界で唯一の日本国庫帰属の日本人戦没者墓地だそうです。

  この墓地は、オーストラリア退役軍人(退役軍人会カウラ支部会員)の方々が
  日本人墓地の手入れをしようと決定されたことから整備が始まったそうです。

    退役軍人会のメンバーはオーストラリア人戦死者の墓の整備を担当されていましたが、
    その墓地に隣接して端の方にあった日本人墓地(墓標はこちらのほうが多かった)が
    草ボウボウだったのを見かねて、「日本兵も祖国のために死んだのだから」と、
    怨讐を越えて雑草むしりから始められたそうです。

そしてこの墓地の近くには、追悼のために造られた素晴らしい日本庭園があるそうです。
著名な造園家「中島健」さんの設計による南半球最大の日本庭園だそうです。
墓地から日本庭園までは桜並木となっており、この桜の木々は毎年10月に開かれる
サクラ祭りの呼び物になっているそうです。


  日本とは花見の時期が異なりますが、
  ダーウィン空襲に出撃され、カウラ事件で亡くなられた「豊島一」さんをはじめ、
  大脱走で亡くなられた方々の霊が、
  毎年秋にも、安寧な中で花見ができますように ・・・