gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

コリント人への第一の手紙

2018-03-20 16:15:20 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第7章>
結婚問題(7・1-40)
22 主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。
23 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。
24 兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである。

人は神と共に生きるべき

2018-03-20 15:52:59 | 日記
さっき『無門関解釈』(谷口雅春著)の「庭前柏樹」を読んで
“現象ナシ”の意味が少し分った。
現象世界は丸ごと
自分の“いのち”の展開であり、
自分の“いのち”があるから
肉体も現象も五官的にあるように見える。
だが現象アサガオの
いのちが五官的存在でないように
人間のいのちも
それ自体は五官でとらえられない。
不生不滅である。
「色即是空」である。
人間は時間・空間の認識の形式をもって
この世に誕生し死ぬから、
実相の展開である人間の一生の出来ごとは
すべて自分の“いのち”の展開である。
現象は“いのち”自体でなく“いのち”の表現であるから、
物質はナイ、現象はナイというのは、
眼に見える五官的存在としてつかんではならない、
というわけで、
いったんは現象仮存在であるという視点、
実在そのものではないという視点、
これらの視点が必要だ。
でも五官的にとらえずに
神の心、仏の心の表現体が現象であると気づく時、
万物が“神の心”“神の言”として
実在自体を察知することができる。
現象世界も
神の国、仏の国、であり、
人間は皆、神の子、仏の子であった、
ということになる。
この現象世界を、神の国、仏の国にすることが、
先に気づいた人のつとめである。
本来が神の子、仏の子であるのだから、
宗教それ自体を否定するなどということは、
人間の正しい生き方ではない。
人はこの現象の世で、
正しく(つまり神と共に)生きるべきであるからだ。