gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

コリント人への第一の手紙

2018-03-10 11:24:45 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第6章>
キリスト者のからだの意義(6・12-20)
15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
16 それとも遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。 

人間をヨハネ伝はどのように言い、仏教はどう見ているか?

2018-03-10 11:01:16 | 日記
道元禅師は世尊が言われたという
「一切衆生、悉有仏性」という言葉の中の「衆生」について次のように説明しておられる。
【(参考 正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
<衆生とは>
従って、あるいは衆生といい、あるいは有情といい、郡生といい、郡類といい、郡有というが、これらは皆同じ内容の言葉で、「衆生」という意味である。この衆生は「悉有の言」だ。これは一体どういうことか? 悉有とは、全ての有である。即ち、全ての現象である。全ての現象即ち、あらわれの中には、天地万物一切がふくまれている。山川草木みな「悉有」の一部である。又、心あるものも、心なきものも、一切万物ことごとく、霊界までもふくめて、これを「悉有」というが、それが衆生である。言とはコトバである。悉有という言葉は衆生という意味だ。物を言わぬ、言をもたぬ無生物もいるし、山も川も色々とある中で、心あるものは衆生である。だから、悉有の言は悉有の中の代表者で、その悉有が仏性なのだ。衆生は悉有の中の一部であると同時に、その代表者である。だから全部である。即ち、一悉を衆生という。一部のようであって、全部である。これが仏性そのものである。】
この正法眼蔵における「人間」(衆生)の説明と、新約ヨハネ伝冒頭における「人」の記述とを、
比較していただきたいのである。
宗教はちがうが、
同一の内容を言っていることに
気づかれると思うのである。
道元は人間を「悉有の言」、「仏性」、「一悉」と言っていて、
ヨハネ伝は「言」(初めに神と共にあった言)と言っているところは
ちがっているが、
内容的には同一である。
【(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第一章1~5>
 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。】
またキリスト(神の言)についてこう書いている。
【<ヨハネによる福音書第一章9~13>
すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。】
人間はまことに「神の言」それ自体であり、
「神の子・神の国」そのものである。