甲斐源氏安田義定は、長承3年(1134)甲斐源氏安田冠者刑部
三郎武田義清の四男として若神子(現須玉町)に生まれ、元服(推定
久安6年(1150))の後、在庁官人の三枝氏を抑えて山梨郡に入り、
加納、牧荘の二荘を治め、加納荘(現山梨市小原西)に「安田館」
を構え、「牧ノ荘」の中牧に西御所を構え、小田野山に要害城を築き、
現峡東地域を統治したことは、本シリーズで既に発信したので周知
の通りですが・・・、
本項のテーマである「安田義定が本拠に構えた小原西の安田館」
は、大井俣八幡神社の前、特に牧ノ荘の”牧”(現牧丘西保下)と
一ノ瀬高橋周辺の”砂金脈”の管掌に都合良い起点立地であった
と見ている。そのように広域で考えると頗る良い立地環境と云える。
YS記では、この「安田館の立地」こそ、後世”牧”に繋がる道は「旧
秩父往還」となり、一ノ瀬高橋周辺の砂金鉱へ通じる道として・・・、
「萩原口」(後の青梅街道)への起点分岐となった立地と見ている。
今号は、安田義定が元服後、甲斐国内で領有した加納荘に本拠を
構えた「安田館」の立地と、 その環境について概要を発信します。
現山梨市小原西の安田館跡(廃妙音寺址)は、正面に大井俣八幡神社の森!
「安田館」を構えた時期は不詳だが、武田義清の一族として、元服した(推定
久安6年(1150)頃、三枝氏の領域を抑え、現峡東の領有を任された時、小原西
に本拠の館を定めたと考察できる。その後、着々と領地を固め平家追討に出陣
する前の時代であったろうと考察している。
※この鎮守の森は、幾度も笛吹川の氾濫にあったようだが、康平6年(1063)
甲斐源氏の祖新羅三郎義光が、この地から現窪の地へ遷座したと云われ、近代に
なって、現在のように復元されたようだ。
大宮司社記に云う「貞観元年巳卯二月二十三日木工頭従五位上和気朝臣彛範に勅し
て、豊前国宇佐宮より勧請あり。最初笛吹川の中島大井俣の地に頓宮を造り安置す。
故に「大井俣神社」と称す。今の窪の地に遷座す。故に「窪八幡」とも称す」
上ノ坊社記に云う「康平年中八幡太郎義家奥州より帰陣の時、新羅三郎義光勧請の
由云い伝う。」※縁起は永生十三年丙子九月二十八日兵災により焼失せんと。
注:八幡太郎義家が奥州征伐を終え帰陣の時は、推定康平6(1063)年頃!?
現大井俣八幡神社の貫禄の鳥居 大井俣八幡神社本殿
現在「廃妙音寺」の石仏等は近くの現宝蔵寺にて並べられていると伺う。
現在、大井俣八幡神社(窪八幡)の大鳥居は、天文9年(1540)、
武田信虎公の寄進にて大鳥居が建立されている。現:重要文化財。
大井俣窪八幡神社の惣門。惣門の趣は境内に荘厳の歴史を伝える・・・!
大宮司社記に「新羅三郎義光の祈願により再建」と記され、この社殿の如く、
甲斐源氏の祖と云われる新羅三郎義光が祈願して遷座したと云う。
「大井俣窪八幡」はまさに安田義定の崇拝する八幡宮が既に祀られていたことが、
甲斐武田氏の一族として与えられた広域の領有にあたる本拠館になる立地条件として、
小原西は最適であったろうと考察している。注)新羅三郎義光が遷座後推定約87年後。
甲斐国志には、享禄四辛卯年武田信虎造営・・・。以後、甲斐国は武田信虎、信玄
によって統一が図られた頃より、石和から躑躅ケ崎へ「武田館」を遷して武田信虎~
信玄の時代にかけて、武田家全盛期に、窪八幡は数々の造営や改築がなされて、現在
守られている重要文化財9件(本殿、拝殿、神門、鳥居等)は、概ねこの時代のもの。
廃別当一之坊「八幡山普賢寺」址 市川の守護寺真言宗「岩泉山清水寺」!
創建仁和3年(887)国守橘喜樹開基の神宮寺 窪八幡の守護寺「不動寺」
YS記:「安田館」を小原西に構えた時は、領地「牧ノ荘」の要の”牧”へ通じる
「旧秩父往還」と一ノ瀬高橋周辺の「砂金脈」を管掌のため「萩原口」の起点分岐
になる適地を選んで構えたと考察している。
従って、「窪八幡」は信仰をしたが、安田義定の痕跡は残っていない。
念のため、参照の通り検証してみたが・・・、唯一、安田義定が鎌倉勢に追われて、
最期に自刃した場所の一つ「ミミンドウさん」跡が伝わるのみであった。
注)現在、山梨市では、伝安田義定自刃場所の3カ所が謎のままである。
何方か, 安田義定を研究された方で造詣のある方に教えを乞いたく。