山梨県・大月市には・・・、
古来より”日本三大奇橋”と評される甲斐国”猿橋”がある!
以下、写真は2013年6月30日あじさい祭の時に撮影したものです。ご容赦下さい。
猿橋を訪ねるなら・・・、”あじさい”群生が満開の6月も良い!
大月は、首都圏から山梨への観光客にとって”通過地点”となっているが・・・、
静かな大月は、市域が「歴史・文化公園」として結構楽しめる!
今号は・・・日本三大奇橋で有名な”猿橋”を訪ねます!
”猿橋”(さるはし)は山梨県大月市猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし)。
国の名勝に指定されている。江戸時代には「日本三大奇橋」の一つとして知られていた。
往古より、甲州街道に架かる戦略上も重要な橋であった。木造橋では現在唯一存在する
刎橋である。現在も人道橋として利用されている。
注)現在、車道の往来には、上流と下流に山梨県道505号線小和田・猿橋線と国道
20号線で同名の新猿橋がある。※ウイキペディア参照
猿橋は桂川(相模川)の険しい両岸の崖に架けられた不思議な橋!
猿橋は、昔むかし、旧甲州路の重要な地点に架けられた橋で、桂川(相模川)の
両岸がそそり立って幅が狭まり岸が高い地点にある。
幅が狭ければ橋脚を河原に下ろさずに済み、それが高所であれば水位が高くなって
も川の水に接しない。このような地点に橋ができれば大洪水の影響を受けずに済む。
往古に考えられた架橋技術としては、”日本三大奇橋”と言われて評価されている。
江戸時代になって、”刎橋(はねばし)”技法と言われた。
険しい桂川の両岸に架ける伝説の猿橋、深緑や紅葉も美しい!
刎橋の構造は屋根付きの刎ね木を重ねた上に橋桁が載せられ、両岸の崖(岩盤)に
穴を開けて刎ね木を斜めに差し込み、中空に突き出させる。
その上に、同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。
支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少し長く出す。
これを何本も重ねて中空に向けて遠く刎ね出していく。
これを足場にして上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。
どのようにして、猿橋を架けたのであろうか・・・?
前述の技術解説を見ると、なるほど、その不思議は解けたが、往古に考えられた
架橋の技法とすれば・・・、凄い技法である。
言い伝えによれば「古代7世紀頃、百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が、
猿が互いに身体を寄せ合って橋を作ったのを見て作られた」という伝説がある。
その言い伝えから、「猿橋」の名称が生まれたと云われている。
その猿橋を守った猿王を祀る「山王宮」の小祠がある!
①室町時代文明19年(1478年)聖護院門跡道興が訪れ・・・、
「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に三十余丈の橋を渡して侍りけり。
この橋に種々の説あり。昔、猿の渡しけるなど、里人の申し侍りき。
さる事ありけるにや。信用し難し。
此の橋の朽損はいづれに国中の猿飼ども集まりて勧進などして渡し侍るとなむ。
然あらば、その由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と廻国雑記に
記しているそうです。※大月市役所 ネット解説
②戦国時代は、甲州防御の拠点・・・!
往時、甲斐国を治めていた武田氏は抗争において度々猿橋に陣を張ったという
記録が残っています。戦中には敵の侵攻を防ぐため、橋を焼落としたことも
あったようです。
③江戸時代に、江戸幕府によって開かれた「甲州街道」・・・・。
五街道の一つ甲州街道は、江戸城が万が一の事態に陥った時には、甲府城を幕府
の拠点(要害城)にするための重要な軍用路だったと言われています。※大月市役所解説
甲州街道の往来は、八王子、小仏峠、大月の猿橋、笹子峠越の駒飼宿が特に軍事上
の重要な往来であったことが分かります。
江戸城の要害城として、甲府城への山・峠越えは自然の防禦要塞にして、さらに猿橋
は考えられた甲州軍用道の険しい大自然の堀割に架かる橋とも云えるのではないか!?
大月には、甲州四五宿のうち、一二宿があったという。
江戸~甲府の間を往来する甲州街道の道中で、猿橋が如何に重要は拠点であったかが、
良くわかる。猿橋を往来した人が、多くあった時代があったが分かる証しです。
そんなことを想像しながら訪ねると、・・・感慨ひとしおです!
「山王宮」は、山王信仰に基づいて日吉神社より勧請を受けた宮(祠)で・・・、
大山咋神と大国主命(大物)を祭神とされる。
神仏集合期には山王(さんのう)山王権現、日吉山王と称し、猿(猿王を神使として祀られる。
今日は「山王さん」として親しまれる。
まさに猿橋に相応しく猿は神使とする山王宮の御利益もあって・・・今も地元の人達により守られている!
猿橋近隣公園の遊歩道~6月はあじさいの散歩道~
猿橋から散策路を下り、桂川の遊歩道に咲く約3000株の満開の”あじさい”は、
まるで・・・、幽玄の天地を歩く雰囲気である!
猿橋のあじさいは、約6000年前の富士山溶岩流が固化された崖地に咲く!
※写真は2013年6月撮影
富士山溶岩流が猿橋まで流れ着いてできた水はけの良い土壌に咲くあじさい!
猿橋の富士山溶岩流は、今から約6000年前の新富士火山古期溶岩流が、
富士山より延々30km以上を桂川に沿って流下してきた溶岩流の末端部です。
この溶岩は、厚さ約9mの玄武岩からなり、上、下限は岩滓状(がんしじょう)
の溶岩で、冷却固化した時に中の揮発性のガスが逃げた穴から無数に見られます。
材木を並べたように見える柱状節理が綺麗に発達しています。※大月市解説版参照
往古、新富士が噴火して、現在の秀麗の富士山が出来上がる頃、その噴火による
溶岩が桂川を流下して、大月・猿橋まで着いたと思うと、その大自然の壮大な
・・・躍動感を同時に感じながら歩ける処です。
桂川の遊歩道は、”あじさい”の散策路 ※人溜りはモデル撮影会
あじさい散策 つい記念写真を撮りたくなる・・・!
桂川遊歩道の”あじさい”は、群生の風景が大自然をそのままに!
なんと・・・、このあたりは、約6000年前に、富士山溶岩流が着いた処
あじさい満開の風景は絶景!
あじさい散策路は、堪能の小路・・・!
毎年6月下旬の週末には、”あじさい祭”が催されるようです!
詳しくは、大月観光協会へお訪ね下さい。TEL&URLは、別途ご確認下さい。
猿橋まで来たら・・・、岩殿城跡を訪ねて見たい!
戦国時代、武田家終焉の物語で語り継がれる”因縁の岩殿城”!
16年のNHK大河ドラマ「真田丸」の始まりは、往時の甲斐守護”武田信玄”を
後継した武田勝頼が、織田・徳川軍に侵攻されて、せっかく新たに築いた韮崎
の「新府城」を焼き払い、退却をする時、家臣真田昌幸の進言で、上野国吾妻
の岩櫃城(いわびつじょう)へ逃れるか、甲斐小山田信成の詰城「岩殿城」へ
逃れるかの決断を迫られ・・・、「・・・甲斐国を捨てられない・・・」と、
勝頼は、結局、岩殿城を目指して退却の途中、追い詰められて甲斐大和の田野
で自刃している。後、徳川家康がこの地に勝頼の菩提を弔って、天童山景徳院
を建立。この景徳院を訪ねると、武田家終焉の時代が偲ばれる・・・。
機会があれば訪ねて見たら良い・・・!
甲斐国武田氏の時代のことは、都会から山梨を訪れる方には、ぜひ、”さわり”
だけでも知って訪ねてもらえると・・・、山梨の観光はさらに面白くなります。
小山田信成の岩殿城と大月・都留・・・!
詳しくは、筆者が以前に発信したバックナンバー※原稿後半の一部がブログ引越の都合により割愛されておりご容赦。
「33)山梨大月、桜満開の岩殿城址と名勝猿橋のドラマ探訪」をご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/yssoho/e/727c0be5566c2c4a770e37bf5ab7b3f2