3月号は落合、4月号は矢坪村を辿る予定だった!
しかし、落合と矢坪は、地域の区分が難しいので
4月号で、同時に紹介します!
先ず”落合村”を辿ることで、始めたいと思います!
山梨市落合は、以前は、”落合村”と呼ばれていた!
正徳寺村の西に位置し、笛吹川中流右岸に広がる。
南は、別伝(べつでん)村。天正19年(1591)
12月4日の加藤光康寺領証文(永昌院文書)に
落合郷とみえ、永昌院は同郷20俵を寺領として寄進
されている。現在は、とても景色の良い山裾の勾配
のある坂道に面して”佇まい”が映える!
今号は、山梨市にある落合、矢坪地域を紹介します。
山梨県地名辞典”山梨市”編によると永昌院に始まる!
曹洞宗 永昌院(寺院)を見上げると・・・!凄いお寺さんだ!
山梨へ移住後、登山で慣らした元気な筆者は、自転車で山登りした。
曹洞宗の永昌寺は殆ど山麓だが頂上にある。現在、山梨市矢坪に在る。
龍谷山永昌院は、矢坪集落の北方の高台にある。龍谷山と号し、
曹洞宗。本尊は釈迦如来。かつては、中山広厳院(現一宮町)の末。
甲州常法幢七刹の一つ。元は真言宗寺院であったが、永正元年(1
504)武田信昌が一華文英を開山に迎え曹洞宗寺院として創建。
一華は、甲斐国守護武田信重の孫、父は武田信守の弟竹森左馬之助
入道恵光寺周檜である。初め、塩山向嶽庵(現甲州市塩山)の俊翁
冷山について会得し、後、中山広厳院開山の雲柚宗竜に参じて禅奥
を極め、雲柚門下三傑といわれ、広厳院二世を継いだ。後白河天皇
から、神獄通龍禅師の諡号を賜った。(甲斐国志、日本洞上聰灯録)。
武田信昌は、武田弥三郎信守の子。永生二年の没。法号は、永昌院
殿傑山勝公大禅定門(甲斐国志)。二世の菊隠瑞譚は永正2年から
大永4年(1524)まで、法語集「菊隠録」を著し、現在は当寺
に所蔵されている。三世一樹存松は、桜井逍遥院(現甲府市)の
開山。四世悟宗純嘉は、天文6年(1537)後奈良天皇より円明
禅師の勅書」永昌院文書)。元亀元年(1578)武田信玄は、
「曹洞宗新法度11ケ条」を下して、曹洞禅僧の守る条目を示し
(同年10月1日「曹洞宗法度」永昌院文書)、また、当寺と
竜華院(現中道町)に対しても、六ケ条の掟書を下して、曹洞宗
寺院の統一を図った。(※年代未詳、10月18日寺中条目)
やっと、山麓トップに着いた!長く、大変な坂道であった?!
ここが「龍谷山永昌院」である。いつも思うことであるが・・・、
特に古刹は、寺院の石漂と山門を見るとホッとする瞬間であるが・・・?!
「龍谷山永昌院」には、往時の甲斐守護「武田信昌」の墓が守られている!
第10代甲斐守護「武田信昌の墓」を今も守り続けて頂いている!
武田信昌(のぶまさ)文安4年(1447)~永正2年(1505)
は、室町時代後期(戦国時代)の武将。甲斐の守護第16代の当主。
子に武田信縄(長男)、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、
女子(小笠原清宗妻)など、諸角昌清(虎定)や甲斐市竜王
(旧中巨摩郡竜王町)の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子(妾の子)
である。五郎、刑部大輔、従五位下。落合殿。・・・・・・・・・・
明応元年(1492)、長男の武田信縄に家督を譲り、矢坪に永昌院
を創建。菩提寺としている。また「落合御殿」と呼ばれていたことか
ら、※武田信縄書状(向嶽寺文書)、”万力郷落合に館(隠居館)”を
構えていたと伝わる。
「落合御殿」のあった場所と伝わる現JA山梨の場所!
※武田信昌公は隠居後、落合御殿(館)に暮らしたと伝わる!
YS記自習NOTEでは、因みに、第17代当主武田信縄公については、
ブログ2月号の山梨市編の「正徳寺村」にて紹介しているので略すが、
近くの臨済宗「聖徳寺」を信縄が菩提寺としたわけがあるのではない
かと考察できるのである!※信縄公は親孝行であった・・・?!
天正11年(1583)4月19日徳川家康は万力郷内3實文と同所
5貫文、国衙(現御坂町)内1貫文、松本郷(現石和町)内20貫文
(逍遥院分)の寺領を安堵している。※「徳川家康判物写」同文書。
同年と推定される6月13日、寺中、門前での乱暴狼藉などを禁じ
ている。※「徳川家康判物写」同文書。
同19年には、加藤光康より落合郷20俵(同年12月4日「加藤
光康寺領証文」同文書)、文禄3年(1594)浅野忠吉より
10俵が寺領として寄進された。
(同年12月4日「浅野忠吉寺領証文」同文書)、同4年に、浅野
長継より三ケ条からなる寺領の禁制が発給されている。
※同年正月28日「浅野長継寺領禁制」同文書)。
年代未詳の寅3月25日の永昌院領年貢手形(同文書)によると、
麦田3反余、上田2反余、上畑1反余など永昌院領合わせて8反余
があり、年貢は九貫五00文であった。慶長8年(1603)落合
村の内で、寺領」41石余を寄進された。
(寺記)この地では、歴史的に由緒高い”大寺院”であったよう!
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龍谷山永昌院は、この里では、代表的な”公”の大寺院であった!
「八嶽山(やつがだけ)神社」~如何にも由緒ありそうな神社があった!
落合から、登り始めると、早速、八嶽山(やつがだけ)神社があった!
落合から矢坪へ向かう道には、このような標識が目立つ!
夕狩沢古戦場:武田信昌が幼少の頃、武田家復活に寄与した記録が。
ここにも、往古、幼少の頃の武田信昌の記念碑があった!
「矢坪村」、現山梨市矢坪は、落合村の西に位置し、
笛吹川中流左岸の山間地に広がる。村内を平等川が
流れる。地名は当地が古戦場の地として伝えられ、
刀や鉾が出土したと伝わることに由来する。(甲斐
名勝誌)曹洞宗永昌院の寺領内に成立した門前村で、
慶長古高帳には村名は見えないが、落合村永昌院領
として41石余とある。旧高旧領取帳では47石
余となっている。反別は田3町5反余、畑8町4反
余(地誌稿)。落合村に属し、上万力村にある大宮
権現(現金桜神社)が、氏神で、文化(1804~
18)初年の家数38、人数113、(甲斐国志)。
寺領41石余は、慶長8年(1806)寄進の黒
印地で、寛永19年(1642)徳川家光から、
落合村で41石余、松本村(現笛吹市石和)7石余。
併せて48石余を寄進され、以後、代々、朱印寺領
として幕末まで受け継がれていく。(寺記)東平等
川の水を用水として、山根(やまんね)村と利用。
明治4年(1871)寺社領地より独立した村となる。
明治8年正徳寺村など4村と合併。平等村となる。
・・・と記される。
注:YS記自習NOTE)明治維新より、新政府は次々と
各地の再成を行っていると思う。ブログによる筆者
の判断結果については、賛否両論があるでしょうが、
自らが良いと思うことを紹介し続けることにします。
最新の撮影に出向く体力も衰え、時間も掛かるよう
になり、思うように行かないがコツコツと続けます。
記事内容は、YS記自習の成果を記させて頂くが、
掲載写真は少しだけ古くても、以前自ら取材した
時の写真を掲載する予定です。時間差はあります
がご容赦下さい。恐縮ですが・・・?!