スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

コソヴォの独立

2008-02-23 11:11:43 | コラム
今週日曜日、セルビア共和国南部のコソヴォ(コソボ)自治州が独立を宣言した。
ユーゴスラヴィア連邦が解体してから7つ目の新しい国家の誕生だ。

コソヴォは、主にアルバニア系住民(多数)とセルビア系住民(少数)からなる。前者はイスラム教を信仰しアルバニア語を話すのに対し、後者はセルビア正教のキリスト教を信仰しセルビア語を話す。セルビア語はスラブ系言語だが、アルバニア語はそれとは系統が異なる言語だ(両者ともインド=ヨーロッパ語族ではあるものの)。

- ユーゴスラヴィアの解体とコソヴォ -

1980年にティトー大統領が死去した後、ユーゴスラヴィア連邦の崩壊が徐々に始まる。それはまずコソヴォで起こった。アルバニア系住民はユーゴ連邦内におけるコソヴォの共和国化を望み、一方でセルビア系住民は迫害されていると感じるようになり、住民間の緊張が強まっていく。当時、ユーゴ連邦のセルビア共和国において若い政治家であったミロシェヴィッチ(Milošević)は、セルビア系住民の後ろ盾になることを約束することで、本国セルビアでも政治的な力を獲得していく。

1980年代のユーゴは、それぞれの民族が排他的な民族主義を掲げ始めた時代だった。ミロシェヴィッチは、その波に敏感に反応し、分かりやすいレトリックを使ってセルビア人の民族意識を煽ることでのし上がって行ったのだった。それが次第に「ユーゴ内の他の民族に対するセルビア人の優位性」の主張にまで発展していく。それまでコソヴォが持っていた自治権を廃止し、セルビア共和国の直接統治とした。また、1389年にセルビア人がオスマン・トルコに敗北したコソヴォの戦いの600年を記念する祭典を開き、イスラム教の支配からセルビア人が完全に独立することを訴える、扇動的な演説を行ったのだった。アルバニア系住民は自治権の剥奪に対し、当初は非暴力による分離独立闘争を開始していく。

このような「大セルビア主義」と時を同じくして、同じユーゴ連邦内のスロヴェニア共和国クロアチア共和国でも彼らの民族主義が強まり、特にクロアチアではトゥジマンという政治家が、クロアチア民族の優位性を分かりやすい言葉で訴えて、勢力を伸ばしていく。西欧に近く経済的にも比較的豊かであったこの2国は、セルビアなどの貧しい地域を抱えるユーゴ連邦からの離脱を推し進め、1991年に独立を宣言する。民族的な問題があまり無かったスロヴェニアは短期間で独立を達成したものの、クロアチアは国内にセルビア系住民を多数抱えており、クロアチアの独立に際して、クロアチア領域内のセルビア系住民がクロアチアからの独立を宣言する、という事態になった。さらには、同じくユーゴ連邦に属していたボスニア=ヘルツェゴヴィナにおいても、多数を占めるイスラム系住民(ボスニアーク)がボスニア=ヘルツェゴヴィナの独立を宣言。これに対し、領域内のセルビア系住民とクロアチア系住民がそれぞれボスニアからの分離独立を宣言し、3つどもえの戦いになった。クロアチアとボスニアでの紛争は1995年秋の「デイトン合意」まで続くことになる。

コソヴォでは、1990年代に入ってからも両住民の間で緊迫が続いていたものの、本格的な武力衝突は1996年に始まるアルバニア系住民が武器を手にし、武力闘争に出たのだった。それに対して、セルビア側は政府軍や民兵を投入する。その結果、戦闘要員だけでなく、セルビア系・アルバニア系双方の一般市民にも大きな被害が出た。停戦に向けた協議は1999年春に失敗に終わってしまう。アメリカを中心とするNATO軍は、セルビア軍を撤退させるため、セルビア空爆を行う。ミロシェヴィッチ率いるセルビアは対抗措置として、80万人のアルバニア系住民を彼らの居住地から追放する。しかし、3ヶ月に及ぶ空爆の末についにコソヴォからの撤退を行った。

それ以降、コソヴォは国連の統治下に入り、セルビア共和国の手を事実上離れていたのだった。国連統治下、というのは、国連軍による停戦監視だけでなく、行政や社会サービス、公共交通、徴税、国境管理などのほとんどを国連が暫定的に組織して行う、ということ。

しかし、その後も2004年春には、アルバニア系住民とセルビア系住民の小競り合いが発生し、村や民家の焼き討ちなどが局所的に起こった。
(当時、私はクロアチアのOSCE(欧州安全保障協力機構)でインターンシップを始めたところだったが、民生部門の監視を行っていたコソヴォのOSCEからも日々の状況を伝える速報や、「OSCEのセルビア系現地職員の家も襲撃にあった」などの生々しいメールで届いていた。)

事実上の国連統治下という状況を今後どうするのか? セルビア共和国内の一つの州に留めるのか、それとも、完全な独立国とするのか・・・? 国連の全権委任であったフィンランドの元大統領の仲介のもとで、妥協策が練られたが、セルビア系住民とセルビア本国、そしてアルバニア系住民が双方の主張を譲らず、交渉は決裂。痺れをきらしたアルバニア系住民側がついに一方的な独立を宣言したのであった。

こうして振り返ってみると、コソボで始まった民族間の緊張をきっかけにして、1990年代にスロヴェニアクロアチアボスニアが独立をし、それと前後して、マケドニアが平和的に独立、さらに2006年にモンテネグロが平和的に独立し、そして、最後のコソヴォがいま独立する。ユーゴスラヴィアの解体は、まさに「コソヴォで始まりコソヴォで終わる(?)」と表現できるかもしれない。

(?マークを付けたのは、今後もしかしたらセルビア共和国北部のヴォイヴォディナ自治州も独立するかもしれないため。こちらは、大きな紛争の火種があるわけではないが)

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民族対立と武力衝突に際して、スウェーデンに難民として逃れたアルバニア系住民も多く、現在35000人がスウェーデンで暮らしている。