スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

『言論の自由』にまつわるジレンマ

2006-02-23 07:53:27 | コラム
ムハンマド風刺画の問題に際して、イスラム教諸国は国連のアナン事務総長に、宗教冒涜を犯罪として罰する立法を加盟各国に促すように、訴えたという。これに対し、西側諸国の反応は、どんな内容であれ「言論の自由」という原則が優先されるべき、だった。(どこからどこまでが“宗教”か、という定義の問題ももちろんあった)

一方で、第二次大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストの存在を否定し続けていたイギリスの歴史家David Irvingがオーストリアの裁判所で3年の禁固判決を受けた。今週月曜日のことだ。オーストリアでは、残虐なナチスによる戦時中の犯罪を否定したり、その程度を過少に評価するような発言を行った場合には、法律による罰則が加えられるのだそうだ。オーストラリアほど厳しいものではないにしろ、フランス、ドイツ、ポーランドにも同様の法律があるのだという。

イスラム教の冒涜に対しては無頓着なヨーロッパ人も、話がナチス・ドイツによるホロコーストになるととたんに敏感になり「言論の自由」に制限をかけることも躊躇しない。今回の風刺画がもし「ユダヤ人」を扱ったものであったならば、とたんに「反ユダヤ的」とレッテルを貼られ、ヨーロッパ諸国はデンマークに黙っていなかっただろう。これでは、イスラム教の人々に目には「ダブル・スタンダード」と映っても無理もない。

このようにヨーロッパでは、近代社会の発展の中で生まれた「出版・言論の自由」という原則が、民主主義の基本的な柱の一つとして絶対視される一方で、国によっては、その原則の適用に例外が設けられているところもあるようだ。上に挙げたホロコーストの例では、ドイツ“第三帝国”に付き従って(従わされて)大きな過ちを犯し、その記憶がまだ癒えない国々で、そのような立法措置が見られるようだ。これらの国の歴史的な背景を踏まえれば、「言論の自由」に対する例外措置も理解できるないでもない。しかし、民主主義の社会で暮らしている以上、誰でも自由に自分の考えを発言する自由も一方である。

では、このようなジレンマ、つまり「言論の自由」vs「“危ない発言”の規制」にどう対処すべきか。この重要な問題に対して、スウェーデンの主要日刊紙DNが、興味深い社説を載せている。

「ウソは暴かれるべきものであっても、刑務所に入れるべきものではない」というタイトルの下「言論の自由は、やはり民主主義社会の根本の原則である。一方で、人々の人権や自由を侵害するような“危ないウソ”は、事実関係との突合せや、社会における活発な議論の中で、その根拠の脆弱さが暴かれるべきだ。法律による罰則を設けるのは、賢明だとは言えない。」としている。このような“二つの正論の衝突”になると、とかく一か八か、というような二者択一論、つまり「悪いものは法律で規制すべきだ、さもなくば、野放しにするのか」という極めて乏しい発想に陥りがちだが、そうではなく、もっと柔軟な考え方もあるのだ、と改めて考えさせられた。

<後記>
スウェーデン語を学習中の方もおられると思うので。何度も登場した「言論の自由」という言葉はスウェーデン語では"yttrandefrihet"です。