ふぶきの部屋

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有識者達の戦後70年談話1

2015-08-07 17:20:19 | 政治

1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。

私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。

(1)20世紀の世界と日本の歩み

ア 帝国主義から国際協調へ

 20世紀を振り返るため、少し19世紀に立ち返りたい。

19世紀の世界を特徴づけるのは、西洋における技術革新により、

欧米が他の地域に対して圧倒的な優位に立ったことである。

世界史上、多くの時代で世界最大の国であり、

1830年ころにも世界最大の経済大国だった中国が、英国に、しかもアヘン戦争という

極めて非道な戦争に敗北してしまったということは、

この技術格差の拡大を示す世界史的な大事件だった。

 「眠れるドラゴン」が敗れた・・・・と言う話。

 「中国」という言い方が正しいかどうかわかりません。

 ここは「清」という国名を使った方がいいのでは。

 アヘン戦争に関して「極めて非道な戦争」と表現した事に違和感があります。

 

  この技術格差を前提に、西洋諸国を中心とする植民地化は世界を覆った。

アジアにおいては、植民地化を免れようと近代化を遂げた日本が

日清戦争に勝利して台湾を植民地とし(1895年)、

アジアに縁の薄かったドイツも、宣教師が殺されたことを理由に、

膠州湾を租借して山東省を勢力圏とし(1898年)、

さらに、もともと植民地から独立し、それゆえに植民地に反対することが多かった米国も、

米西戦争に勝利してフィリピンを植民地として領有することになった(1898年)。

 歴史が好きじゃない人にとってはさっぱり意味がわからないです。

 何で日清戦争に至ったかを説明するのが先で、アメリカが植民地に反対した・・・とか

  いう記述は必要ないでしょう?

  そもそも日本を開国させたアメリカの目的は何だったのよ・・・

  植民地に反対してた?え?そうなの?

 

 しかし20世紀初めには、その植民地化にブレーキがかかることになった。

 1905年、日露戦争で日本が勝利したことは、

ロシアの膨張を阻止したのみならず、多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた。

のちに1960年前後に独立を果たしたアジア、アフリカのリーダーの中には、

父祖から日露戦争について聞き、感激した人が多かった。

 植民地化にさらにブレーキをかけたのは第一次世界大戦末期に

ウィルソン大統領が平和のための14カ条のうちの一つとして掲げた

民族自決」の理念だった。

民族自決は、元来ヨーロッパに向けた概念だったが、アジアもこれに反応し、

朝鮮で3・1事件、中国で5・4運動などが起きるきっかけとなった。

 「民族自決」ってどういう理念なんでしょうか。

  その説明がないと・・・・朝鮮の3・1とか中国の5・4とか、そんな簡単に

  扱っていいのでしょうか?

 

 しかし列強の多くは植民地を手放す意思はなく、結果として、

 これ以上の植民地拡大はしないという大まかな合意が成立した。

 アジア太平洋では、中国の統一と独立を尊重するという趣旨の9カ国条約が成立した。

 一方、技術革新は戦争をますます悲惨で巨大なものとした。

 19世紀末には、仲裁裁判によって紛争を解決しようとする動きが生じていた。

 そして、第一次大戦が人類史上未曽有の犠牲をもたらしたことから、

 国際法上戦争を否定しようとする戦争違法化の動きが一段と強まり、

 国際連盟規約において加盟国に「戦争に訴えない義務」を課し、

 1928年には、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)において、

 戦争を国策の手段としては認めないと定めた。

 これと併行して、1922年のワシントン会議と1930年のロンドン会議においては、

 海軍軍縮が議論され、一定の成果をあげた。

 1920年代、列強は軍事的膨張を控え、経済的な行動に力を入れた。

 日本でも政党政治が発展し、1924年から32年までは政党内閣が続き、1925年には

 男子普通選挙法が成立している。

 外交でも、幣原外交の名で知られる列国との協調が主流となった。

 ただ、1920年代の安定は、不安定なものだった。

 世界では、リーダーたるべき米国は国際連盟に参加しなかった。

 日本では、政党の優位は制度的な裏付けを持たず、

 軍部は強い独立性を持っていた。

 国際協調主義者が一応優位を占めていたが、

 パリ講和会議において人種差別撤廃決議が否決されたこと、

 1924年に米国議会で日本人が帰化不能外国人とされ、

 移民枠ゼロとされたことなどは、彼らの影響力を傷つけていた。

 難しすぎてよくわからない・・・・教科書でこんな風に書かれても無理。

  要するに日本では政党政治よりも軍部の発言権の方が大きかった。

  「国際協調主義者」って誰の事?

  誰を傷つけたの?

 

イ 大恐慌から第二次世界大戦へ

 1929年にアメリカで勃発した大恐慌は世界と日本を大きく変えた。

 アメリカからの資金の流入に依存していたドイツ経済は崩壊し、 

 ナチスや共産党が台頭した。

 アメリカが高関税政策をとったことは、日本の対米輸出に大打撃を与えた。

 英仏もブロック経済に進んでいった。

 日本の中の対英米協調派の影響力は低下していった。

 日本の中では力で膨張するしかないと考える勢力が力を増した。

 特に陸軍中堅層は、中国ナショナリズムの満州権益への挑戦と、

 ソ連の軍事強国としての復活を懸念していた。

 彼らが力によって満州権益を確保するべく、満州事変を起こしたとき、

 政党政治や国際協調主義者の中に、これを抑える力は残っていなかった。

 「彼ら」=軍部

  彼らが暴力に打って出たので平和主義者は何もできませんでしたってこと?

 

  そのころ、既にイタリアではムソリーニの独裁が始まっており、

 ソ連ではスターリンの独裁も確立されていた。

 ドイツではナチスが議席を伸ばした。

 もはやリベラル・デモクラシーの時代ではないという観念が広まった。

 国内では全体主義的な強力な政治体制を構築し、

 世界では、英米のような「持てる国」に対して植民地再分配を要求するという路線が、

 次第に受け入れられるようになった。

 こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略<注1>を拡大し、

 第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、

 経済的発展主義という流れから

 逸脱して、世界の大勢を見失い、

 無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。

 世界の大勢が戦争に向かっていた筈なんですが。

  日本だけが逸脱して「無謀な戦争」を起こしたとする考え方には反対です。

 だったらもっと「無謀な戦争」を解説し、「多くの被害」を具体的に挙げるべきでは

  ないでしょうか。これが有識者の根本的考え方なら日本はおわりですね。

 特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。

  また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、

  捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。

 素直にこの文章を読むと「日本軍って極悪非道」と思う。絶対に。

 いつも戦争を語る時には、終戦間際の物資不足による負け戦の話ばかり

  するけど、そもそも最初からそうではなかったと思う。

 「生きて虜囚の辱めを受けず」という考え方が単純に「間違っている」とは

  言い難いのでは。

  ものすごく思想の偏りを感じます。

 

  広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、

  日本全国の多数の都市が焼夷(しょうい)弾による空襲で焼け野原と化した。

  特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという

  凄惨(せいさん)な戦場となった。

 そうなった原因はアメリカによる空襲や原子爆弾で、彼らは戦場ではなく

  無差別に民間人を殺したわけで、日本が日本を攻撃したわけではない。

  どうしてこういう時に「主語」が抜けるんですか?

 

  植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、

  植民地支配が過酷化した。

 「植民地」とはどこのことか。

 

 1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。

 なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、

  多くのアジアの国々が独立した。

  多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、

  その自存自衛の内容、方向は間違っていた)のであって、

  アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。

  アジア解放のために戦った人はもちろんいたし、

  結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、

  国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。

 「五族協和」「大東亜共栄圏」という言葉は最初からなかったという事ですね。

 それでは日本は、自国の利益の為にのみ戦争を引き起こし、負けたから

   アジアの各国は独立できたと言いたのでしょうか。

   じゃあ、なぜ、今もって感謝されるのか考えた事は・・・・・ない?

 <注1>複数の委員より、「侵略」という言葉を使用することに

異議がある旨表明があった。

理由は、(1)国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、

(2)歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、

(3)他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と

断定することに抵抗があるからである。

ウ 第二次世界大戦後

  第二次世界大戦は、全世界で何千万人にも及ぶ未曽有の犠牲者を出し、

  国際社会に深い傷を残した。

  日本人の間でも約310万人の尊い命が奪われた。

  20世紀後半、国際社会は、もう二度と巨大な戦争による悲惨な事態を

  繰り返してはならないとの強い決意の下、新たなシステムの構築を進めた。

  国際社会にとり最優先であったのは、戦争の予防と平和の確立であった。

  第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟の失敗を教訓として、

  1945年、国際連合が設立された。

  国際連合は、その憲章第1章第2条で、

  国際関係における武力行使を原則として禁止し、

  この規範は、大戦後の世界平和における基軸となった。

 朝鮮戦争が起こったのは何年後だったけ?

   国連というのは、その発足時から結果的に戦勝国の利益のみ考えた

   ものすごくエゴな組織で、今もって紛争解決には何の役にも立ってないのでは。

 

 この点、日本は、戦後、不戦に関する国連憲章の規範をもっとも忠実に

 守った国であったと言える。

 憲法9条第1項を有する戦後日本の歴史において、

 軍事的自己利益追求行動は皆無であった。

 戦後の日本においては、世界中のいかなる場であれ、

 力による領土等の変更に常に反対する気持ちが国民の間で広く深く共有されており、

 政府の政策にも貫かれている。

 戦後国際秩序にとってこれと並んで重要だったのが、

 自由貿易システムの発展だった。

 第二次世界大戦の要因となった、大恐慌からブロック経済、

 そして国際貿易体制崩壊という流れを防ぐべく、

 戦後間もなくブレトン・ウッズ体制が構築され、

 関税貿易一般協定(GATT)体制の下、

 国際自由貿易体制が確立された。この自由貿易体制の下、

 戦後世界経済は大きく発展し、日本もこの体制の主要なメンバーとして、

 経済成長を達成した。

 第二次世界大戦前のような武力による生存圏拡大の考え方を

 信じる人はほぼ皆無となり、自由貿易により繁栄を追求する人が圧倒的多数となった。

 そして日本は、この中で、アジア諸国を中心に、

 平和と経済発展による国家の繁栄モデルを提供してきた。

 更に忘れてはならないのは、第一次世界大戦後に生まれた民族自決の動きが、

 第二次大戦後、多くのアジア・アフリカ諸国において独立、

 脱植民地化という形で結実したことである。

日本も参加した1955年のアジア・アフリカ会議では、

植民地主義が糾弾され、基本的人権の尊重を求めるコミュニケが採択された。

この流れの中、1950年代から60年代にかけて、アジア・アフリカの多くの国が独立を達成し、

第二次世界大戦前に、大国が力によって他国を支配していた時代は終わり、

全ての国が平等の権利を持つ世界となった。

 うっそーーー

 

エ 20世紀における国際法の発展

 以上振り返ってきた激動の20世紀史を象徴するように、

国際法の性格も、20世紀前半と後半で大きく変化した。

20世紀前半の国際法は、国家間の紛争の概念を明確に限定したうえで、

紛争要因を縮減することを目的とした消極的な性格のものであった。

そして、その中心的課題は、戦争をどう制御するかということに絞られ、

経済社会問題は基本的には各国の国内管轄事項として、

国際法の規律の対象外とされていた。戦争の制御については、

1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約を通じて、国際法は、

戦争放棄の大きな流れを作ることには成功した。しかし、

連盟規約は戦争に訴えるための手続きを厳格化したが、

戦争に訴えること自体を禁止したものではなく、

また不戦条約も禁止の例外となる自衛権の範囲や「戦争に至らない武力の行使」をめぐり、

解釈の余地を残した。

なお、国際法上の「侵略」の定義については、

国連総会の侵略の定義に関する決議(1974年)等もあるが、

国際社会が完全な一致点に到達したとは言えないとする指摘もある。

 20世紀後半の国際法は、各国の共通利益の実現を促進する積極的な役割を

担うものに変貌を遂げた。

第二次世界大戦の教訓を基に、国際連合の設立を通し、

武力行使を国際社会全体で防ぐ体制が整えられた。

また、国際貿易体制の崩壊が第二次世界大戦勃発の要因の一つになったことを踏まえ、

国際法によって経済面、社会面における各国の協力を推進し、

規範を形成する動きが急速に進んだ。

人権や環境についての規範の発展もあった。

先の大戦に至る過程において、国際連盟を脱退し、

不戦条約の抜け穴を利用しようとして武力行使に踏み切った日本が、

大戦後においては、憲法9条1項と共に不戦に関する国連憲章規範を

もっとも忠実に守り、また国連を中心とする多様な活動に積極的に貢献する国に

生まれ変わったことは前述したとおりである。

 お花畑ーーー

  国連ってすごいっ なんて立派な組織なんでしょう。

  米ソ冷戦なんて戦争じゃありませんわね。

  ベトナム戦争って何だったんでしょうか?

 えへへーー


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