ふぶきの部屋

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昭憲皇太后の大礼服

2023-03-23 07:00:00 | 皇室報道

先日、BSプライムで放送された「皇后のドレス~ロイヤルミステリー」というのを見ました。

記憶に残っている部分を一生懸命に掘り起こしたいと思います。

皇室ファンであれば昭憲皇太后の事は誰でも知っているでしょう。

明治天皇の皇后です。

明治維新になり、孝明天皇から明治天皇の世になり、天皇の御座所は京都から東京に移りました。

天皇が最初に東京の江戸城にしつらえた明治宮殿に入り、その後、皇后も東京に来ます。

天皇はとにかく「文明」が嫌いな質で、宮殿はせっかくセントラルヒーターやランプがついていたというのに、それをやめさせてろうそくの世界に戻しました。

当時、宮中で奉仕していた女官達は「宮殿はとにかく寒い」と記憶しています。

また天皇は食事も西洋風にしたがらず、ずっと古来からの食事をされていました。

そして宮中には厳格な女官制度が存在し、例え皇后であろうとも、「典侍」の許しがなければ天皇に会えない始末。宮中女官達は常に天皇の側から離れず、政務に支障もきたす。

なぜって「そんな事は先例がありません」「お上がそんな事!できません」の一点張りだったからです。

そこで伊藤博文は考えました。

まず「女官制度」を一掃しようと。

後宮のトップは皇后、そして皇后の側にいるのは女官長。

ここから皇后が自分の意志で動かなければならなくなりました。

 

伊藤博文た明治政府は少しでも西洋列強に追いつけとばかり、洋装や肉食を奨励。

けれど巷はそうはいきません。

そこで、皇后に相談。

皇后は「国の為ならなんでもいたす」とおっしゃったそうです。

それまで小袿で生活していたのを、洋装で生活せよとの「洋装令」をお出しになりました。

以後、天皇は軍服で、皇后はドレスを着て過ごし、華族らもそれに習ったのです。

とはいえ、日本人の洋装はビゴーの風刺画のように「日本人の洋装は猿真似」と言われていました。

だから皇后は何としても、そう言われないような、つまり国産の大礼服を作ろうと決めたのです。

それがこれ。

大聖寺が保管する昭憲皇太后の「大礼服」です。

(大聖寺は紀子妃が護友会名誉総裁をされています)

写真は見た事あるような気がしましたが、じゃあ、誰がいつ作ったものか?というのは謎だったそうなんです。

残っているのはボディスとトレインの部分でスカート部分はありません。

これを5年かけて修復したんですね。

私が情けないと思ったのは、皇太后のドレスに興味を持ち、修復まで行く程「愛」を貫いたのはハーバード大出で日本の伝統衣装を研究しているモニカ・ベーテ氏。

彼女はフランスやイギリスの専門家とプロジェクトチームを作り、そこに修復作業をする西陣の織屋の人達も交えてスタートしたのでした。

 

ドレスをゆっくりと包まれていたものから出して見ると、そこには見事な薔薇の刺繍が。

そして葉の部分は銅とスパンコールで縫い付けられていたのですが、この銅部分を盛り上げていたのがなんと「和紙」だったんです。

これは歌舞伎や能の衣装などでも使われる手法で、ここから「このドレスは国産ではないか」と思われ始めたんですね。

生地はシルク・・・といってもいわゆる「緞子」ですから厚くて重い。

そこに様々な薔薇が織り込まれていたのです。

しかし、この「薔薇模様を織り込む」技術は日本はなかった・・・これはフランスのリヨンでしか学べない技術でした。

すると、栃木県足利市にリヨンの織物学校に留学した人物がいました。

技術習得にほぼ5年かかって帰国後すぐにとりかったのですね。

また、ボディスの部分のコルセットの所は鯨の骨が使われていましたが、イギリスなどのドレスと違って細くてちょっとゆるっと出来ている。

ある意味。見様見真似ではあるけれど、国の威信をかけて生地を織り、当時の流行りであるバッスルスタイルで作られたドレスなのです。

トレインの長さは3メートル。長い程権威の象徴となります。

これは皇后にだけ許された「大礼服」なのです。

昭憲皇太后は、400年以上途絶えていた「養蚕」を復活させます。

紅葉山に養蚕所を作って自ら蚕を育て、いつくしんだといいます。

殖産工業は日本にとって最大の輸出品目。

その大元の生糸を作るにはよい蚕をしっかり育てなくてはならない。

皇后は自ら富岡製糸場へ視察に出かけて励まします。

いと車とくもめぐりて大御代の冨をたすくる道ひらけつゝという歌をおよみになりました。

 

また、明治の洋装化により京都の織物工業の衰退を見て心を痛め、お金を下賜したりしました。

 

つまり皇后は日本の近代化という課題の中で、精一杯自らに試練を課し、それを実践して見せたのです。

 

上記の大礼服は、1989年の大日本憲法発布の夜の夜会で着用されたようです。

その後、

大礼服のデザインが菊になり、あるいはエーデルワイスやオリーブの枝などが折り込まれるようになりました。

恐ろしい程の技術力アップですね。

新潮が147㎝しかなかった皇后にとって、大礼服は重くてしょうがなかったと思いますし、ハイヒールも痛かっただろうなと拝察します。

けれど、「国の為ならばなんでも致す」という信念は最後までぶれず、その後、「赤十字社」設立にまで至るのです。

庶民の私がこのような事を書いてもしょうがないと思うのですが、現在、宮中に残る「洋装」「養蚕」「赤十字活動」は昭憲皇太后の業績を後世まで残す為の「慣例」であり、女性皇族の大切な義務だと私は考えています。

 

しかし、上皇后は服装に関してはある意味昭憲皇太后とは別な考え方を持っていたようで、冠婚葬祭における「洋装」の慣例を破って着物を着用しました。

また現皇后は、赤十字の総裁でありながら皇太子妃時代はほとんど姿を見せず、令和になってやっと出席するようになったものの「お言葉」もなく、いい加減にやっているようにしか見えません。

また昭憲皇太后が心血を注いだ「養蚕」に関しては、「家族の見せ場」として利用するだけのものに成り下がってしまいました。

現皇后は「国の為」ではなく、自分達のアリバイ作りに公務を利用しているのです。

 

ドレス一つとっても、「国の象徴」「国の権威」を示す為にはデザインや形に「日本」という国を織り込まなくてはなりません。

しかし、現皇后は、信じられない事にオランダの即位式にしわくちゃの黄ばんだドレスで行ったのです。

これは彼女の恥ではない。日本の恥でした。

今回のイギリスの戴冠式も、主役はチャールズ国王であっても、秋篠宮夫妻は「日本」という国をしょっていくのです。

秋篠宮両殿下であれば、必ず私達に「日本人でよかった」と思わせてくれるでしょう。

 

 

 

コメント (3)
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