人間探求
しみじみ感じたことがあります。
他人のブログやホームページを見ていて他人事ながら
いろいろな人生の喜びがあって、その喜びの大小、浅い深い、金銭的価値のあるなしにかかわり無く、人は、とりあえずの喜びに満足を得て日々暮らしていけるものだなあと。
生活の稼ぎにもならない個人的日記の公開や、マイペットの写真、マイガーデンの自慢など、他人のお目にかけることで、ささやかな自己アピールが出来、多少の自己存在証明になるのだろうと思う。自分の存在を認めてもらっているということが「最低限の生きがい」であることのひとつの証明でしょうか。
生き物に限らず、すべての存在物に共通な性質は「そのものの存在目的を全うすること」でしょうか。ゆえに、その存在目的の道を阻もうとするとき、そのものは自己存在を強くアピールする結果「反発」「暴力」と思われる現象を起こします。反対にそのものの目的に沿うように協力するとき、そのものの働きは増長され活かされ輝くことでしょう。
そのものを人間に置き換えて考えてみればいいのです。人間の場合、「存在価値」を素直に表現できるためには、およそ三歳までの「無意識による自分存在の肯定感覚」が必要であると考えます。そういう感覚を身に浸み込ませるには「親の無償の愛情」またはそれに同等の愛情が必要なのです。普通の育ち方をすれば人は三歳までに「無意識層での自己存在肯定」が刷り込まれるのでしょうが、それが出来ない人もいます。そういう人の場合には、人生の途中で同様の無条件の、無償の愛を受ける体験、いわゆる幼児体験が必要なのです。その体験がないまま体だけ成長することで、「無慈悲な暴力」を振るうことになるのではないかと思われます。
人間の存在保障の最低限の安心感は「暖かい肌のふれあいと、食欲の満足」でしょう。
三歳までの動物的な幼児にとっての一大事は「とにかく生きることである」から真の親でなくても、それに代わるものがあればよいことになります、人間の場合、さらに「人間の声の、言葉かけ」が不可欠のようでもあります。
いずれにしても人間がらしく成長するための初期条件は
「原始的安心感の保障」が必要ということでしょう。
ところで、人間探求としては
「何歳の人間を人間と規定するか」が大問題なのですが、
答えは「生まれる前から、生まれてからと、死んだ後までのすべて」のヒトメグリが人間の定義ということ。そのことをまとめて「レイ ヒフミヨイムナヤコト」というのでした。
いわゆる大人、成人が人間モデルなのではなく、卵子精子、胎児、乳幼児、青少年、壮年、老年、ご霊体の総体で人間と考えるのが真の哲学的認識なのです。
すべての人間段階において、大自然からの「無償の愛」を素直に感じとっている人間であるなら、「無慈悲な金儲けのための戦争」の出来るわけがないと思いますが。
エゴ丸出しの部族紛争、それ以前の個人の争い、それらに便乗、火に油を注いで漁夫の利をもくろむ輩の幼少~老年の育ち方はさぞかし、愛情薄いものがあったのであろうと同情しますが、非力なる者にとっては、悲しいかなその余裕がない。せいぜい、ブログごときでそのことを指摘するくらいが関の山です。
人間の人間たる所以は「抽象的な循環宇宙、世界観の妄想」でしょう。つまり、全体がわからない人間は人間ではないということです。一般的目覚めの悪い、了見の狭い人間のことを披露聡秘では「人面猿」と称します。(披露聡秘:「哲学」の世なおし倶楽部的表現)一人では人間になりえないと言うことでもあります! つまり、すべての人面猿の総体が人間ということになるのです。
人面猿の総意で「人間の完成」を目指そうと思いますが、完成人間のモデルを各自が提案し、すり合わせましょう。が、せいぜい三つのモデルパターンで間に合いますが・・苦笑
dasoku:
世に多くの人間論があるようですが、相対的なよきお話では必ず「矛盾」が発生し最後の詰めがあまくなります。反対に絶対的な宗教信仰の結論では無理のごり押しが感じられて窮屈を感じます。
偏執的決め付けでもなく、相対的矛盾でもない合理的な「人間の未来像」についての答えは披露聡秘によって導かれます。乞うご期待!
つづく
しみじみ感じたことがあります。
他人のブログやホームページを見ていて他人事ながら
いろいろな人生の喜びがあって、その喜びの大小、浅い深い、金銭的価値のあるなしにかかわり無く、人は、とりあえずの喜びに満足を得て日々暮らしていけるものだなあと。
生活の稼ぎにもならない個人的日記の公開や、マイペットの写真、マイガーデンの自慢など、他人のお目にかけることで、ささやかな自己アピールが出来、多少の自己存在証明になるのだろうと思う。自分の存在を認めてもらっているということが「最低限の生きがい」であることのひとつの証明でしょうか。
生き物に限らず、すべての存在物に共通な性質は「そのものの存在目的を全うすること」でしょうか。ゆえに、その存在目的の道を阻もうとするとき、そのものは自己存在を強くアピールする結果「反発」「暴力」と思われる現象を起こします。反対にそのものの目的に沿うように協力するとき、そのものの働きは増長され活かされ輝くことでしょう。
そのものを人間に置き換えて考えてみればいいのです。人間の場合、「存在価値」を素直に表現できるためには、およそ三歳までの「無意識による自分存在の肯定感覚」が必要であると考えます。そういう感覚を身に浸み込ませるには「親の無償の愛情」またはそれに同等の愛情が必要なのです。普通の育ち方をすれば人は三歳までに「無意識層での自己存在肯定」が刷り込まれるのでしょうが、それが出来ない人もいます。そういう人の場合には、人生の途中で同様の無条件の、無償の愛を受ける体験、いわゆる幼児体験が必要なのです。その体験がないまま体だけ成長することで、「無慈悲な暴力」を振るうことになるのではないかと思われます。
人間の存在保障の最低限の安心感は「暖かい肌のふれあいと、食欲の満足」でしょう。
三歳までの動物的な幼児にとっての一大事は「とにかく生きることである」から真の親でなくても、それに代わるものがあればよいことになります、人間の場合、さらに「人間の声の、言葉かけ」が不可欠のようでもあります。
いずれにしても人間がらしく成長するための初期条件は
「原始的安心感の保障」が必要ということでしょう。
ところで、人間探求としては
「何歳の人間を人間と規定するか」が大問題なのですが、
答えは「生まれる前から、生まれてからと、死んだ後までのすべて」のヒトメグリが人間の定義ということ。そのことをまとめて「レイ ヒフミヨイムナヤコト」というのでした。
いわゆる大人、成人が人間モデルなのではなく、卵子精子、胎児、乳幼児、青少年、壮年、老年、ご霊体の総体で人間と考えるのが真の哲学的認識なのです。
すべての人間段階において、大自然からの「無償の愛」を素直に感じとっている人間であるなら、「無慈悲な金儲けのための戦争」の出来るわけがないと思いますが。
エゴ丸出しの部族紛争、それ以前の個人の争い、それらに便乗、火に油を注いで漁夫の利をもくろむ輩の幼少~老年の育ち方はさぞかし、愛情薄いものがあったのであろうと同情しますが、非力なる者にとっては、悲しいかなその余裕がない。せいぜい、ブログごときでそのことを指摘するくらいが関の山です。
人間の人間たる所以は「抽象的な循環宇宙、世界観の妄想」でしょう。つまり、全体がわからない人間は人間ではないということです。一般的目覚めの悪い、了見の狭い人間のことを披露聡秘では「人面猿」と称します。(披露聡秘:「哲学」の世なおし倶楽部的表現)一人では人間になりえないと言うことでもあります! つまり、すべての人面猿の総体が人間ということになるのです。
人面猿の総意で「人間の完成」を目指そうと思いますが、完成人間のモデルを各自が提案し、すり合わせましょう。が、せいぜい三つのモデルパターンで間に合いますが・・苦笑
dasoku:
世に多くの人間論があるようですが、相対的なよきお話では必ず「矛盾」が発生し最後の詰めがあまくなります。反対に絶対的な宗教信仰の結論では無理のごり押しが感じられて窮屈を感じます。
偏執的決め付けでもなく、相対的矛盾でもない合理的な「人間の未来像」についての答えは披露聡秘によって導かれます。乞うご期待!
つづく
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