耳よりの独立党による裏話
何事にも本質、原則と現実、応用、枝葉末節とがあります。
ヨガの本質は何かといえば「むすび バランス 総合」と云うことになります。一般的に本質は現実ではなく抽象概念ですから、実体のない理屈です。しかしこれが無いと秩序がなくものごとは成り立ちません。また、現実の生活あるいは雑多な社会現象が無いということもあり得ません。
ところが、ヨガの本質は理屈だけではありません。あえてヨガの真の本質を云うとすれば
「ヨガとは理屈的本質と見かけの現象とをむすぶ総合性」となります。
単純に一つの限られたヨガらしきものを捉えて「ヨガ」を語ることは誤解、錯誤のもとになります。かと云って、すべてを網羅して語ることも不可能です。どのようにしたら丸く、正確にヨガの本質と、全貌を伝える事ができるのでしょうか。
答えは「理屈と現実とで総合的に伝える」ということになります。総合的とはそのまま総合的です。つまり、「時間的経過と空間的多様性」との両方を考慮した認識をもって伝える、と云うことになります。
言葉で、今この短い時間の中で伝えられる事は、本質ではあっても理屈であり、瞬間的なものです。現実の世界は、瞬間で終わってしまうものではありません。無限に現象をくりかえすものです。ヨガに拘って云うのであれば、今この瞬間も大事にしながら、過去、未来にまたがっての価値観も考慮しての判断がヨガと云うことになります。
巷にブームとなって、多様な~ヨガが広まっていますが、おおいに広まったら良いと思っています。おおいに現実ですから。そして、単純明解な原理としてのヨガの本質を繰り返し主張することも、おおいに広めたらよいのです。理想は常に遠い処にあるもののようですが、ヨガの本質を思えば、理想と現実とを切り離さないで、理想を無視せず実現に向けてこつこつと実践を積み重ねていくのがヨガ的生き方と云うことになります。
ヨガ的生き方という云い方をすると何か特殊な生き方があるように感じますが、広く深くヨガを理解するならば、反対に「ごく自然な生き方」こそがヨガ的生き方であることに気づかれるはずです。
ごく自然な生き方とは、どんな生き方なのでしょう。
一人の人間の人生だけをみて、自然な生き方とは言い切れません。それぞれの多様な人生があります。
宇宙を意識し、地球の環境を憂いすべてのものとの関わりを感じながら、生きる人たちの総体が「自然な生き方」なのです。地味な生き方、派手な生き方、理想に生きる生き方、現実のドロドロ社会にもまれながらいきる生き方など、すべてを自分の事として生きる生き方が自然な生き方、と思うのですが如何がなものでしょうか。他のことを思いやらずに生きる生き方こそ特殊な生き方と考えるべきです。
ヨガの本質はヨガという独立した概念というのではなく、「世と我をむすぶ生き方、人生」そのものと云うべきでしょう。
具体的には、同じ時代にこの地球に居合わせたあらゆる存在物、生きとし生きるものすべての多様性を許容し、自分の命の、過去未来の霊的な連続性を実感して生きることを世我といえば、これ以上の云い方はないでしょう。
何事にも本質、原則と現実、応用、枝葉末節とがあります。
ヨガの本質は何かといえば「むすび バランス 総合」と云うことになります。一般的に本質は現実ではなく抽象概念ですから、実体のない理屈です。しかしこれが無いと秩序がなくものごとは成り立ちません。また、現実の生活あるいは雑多な社会現象が無いということもあり得ません。
ところが、ヨガの本質は理屈だけではありません。あえてヨガの真の本質を云うとすれば
「ヨガとは理屈的本質と見かけの現象とをむすぶ総合性」となります。
単純に一つの限られたヨガらしきものを捉えて「ヨガ」を語ることは誤解、錯誤のもとになります。かと云って、すべてを網羅して語ることも不可能です。どのようにしたら丸く、正確にヨガの本質と、全貌を伝える事ができるのでしょうか。
答えは「理屈と現実とで総合的に伝える」ということになります。総合的とはそのまま総合的です。つまり、「時間的経過と空間的多様性」との両方を考慮した認識をもって伝える、と云うことになります。
言葉で、今この短い時間の中で伝えられる事は、本質ではあっても理屈であり、瞬間的なものです。現実の世界は、瞬間で終わってしまうものではありません。無限に現象をくりかえすものです。ヨガに拘って云うのであれば、今この瞬間も大事にしながら、過去、未来にまたがっての価値観も考慮しての判断がヨガと云うことになります。
巷にブームとなって、多様な~ヨガが広まっていますが、おおいに広まったら良いと思っています。おおいに現実ですから。そして、単純明解な原理としてのヨガの本質を繰り返し主張することも、おおいに広めたらよいのです。理想は常に遠い処にあるもののようですが、ヨガの本質を思えば、理想と現実とを切り離さないで、理想を無視せず実現に向けてこつこつと実践を積み重ねていくのがヨガ的生き方と云うことになります。
ヨガ的生き方という云い方をすると何か特殊な生き方があるように感じますが、広く深くヨガを理解するならば、反対に「ごく自然な生き方」こそがヨガ的生き方であることに気づかれるはずです。
ごく自然な生き方とは、どんな生き方なのでしょう。
一人の人間の人生だけをみて、自然な生き方とは言い切れません。それぞれの多様な人生があります。
宇宙を意識し、地球の環境を憂いすべてのものとの関わりを感じながら、生きる人たちの総体が「自然な生き方」なのです。地味な生き方、派手な生き方、理想に生きる生き方、現実のドロドロ社会にもまれながらいきる生き方など、すべてを自分の事として生きる生き方が自然な生き方、と思うのですが如何がなものでしょうか。他のことを思いやらずに生きる生き方こそ特殊な生き方と考えるべきです。
ヨガの本質はヨガという独立した概念というのではなく、「世と我をむすぶ生き方、人生」そのものと云うべきでしょう。
具体的には、同じ時代にこの地球に居合わせたあらゆる存在物、生きとし生きるものすべての多様性を許容し、自分の命の、過去未来の霊的な連続性を実感して生きることを世我といえば、これ以上の云い方はないでしょう。
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